そろそろうんざりされそうだけど、
この前読んだ「村上朝日堂 はいほー!」の
「恋に落ちなくて」を読んで思ったことを少し書きます。
そのコラムの中に、人生(特に中年以後)における人生の2大キー・ワードは
「そういうものだ」と「それがどうした」だとありました。
電車の扉が間一髪のところで閉まったら「そういうものだ」
そのせいで待ち合わせに遅れることになったら「それがどうした」
・・という風に使うのだと―。
僕なんかはなるほどなと思いましたが、こういうのが嫌いな人は少なくないでしょうね。
妥協は人を成長させないと―。
筆者も、こういう精神でいれば気楽ではあるけれど、
人間的にはまず向上しないと注意しています。
この考え方が嫌いな人はきっと強い人です。
だけど、世の中強い人ばかりじゃありません。
「あきらめたらそこで試合終了」だとしても、
諦観はひとつの救済であって、それによって解放されることがあるのも事実。
弱い人間は、その弱さをカバーする手段を講じなければ生きていけないんです。
それを必要としない人には分かってもらえないかもしれないけど。
すり減ってざらざらした気持ちをしずめるために、
時にはこういう考えに浸ってみるのも悪くない…
少なくとも非難されるようなことではないと思うわけです。
もちろん、行きすぎは禁物ですが。
この前読んだ「村上朝日堂 はいほー!」の
「恋に落ちなくて」を読んで思ったことを少し書きます。
そのコラムの中に、人生(特に中年以後)における人生の2大キー・ワードは
「そういうものだ」と「それがどうした」だとありました。
電車の扉が間一髪のところで閉まったら「そういうものだ」
そのせいで待ち合わせに遅れることになったら「それがどうした」
・・という風に使うのだと―。
僕なんかはなるほどなと思いましたが、こういうのが嫌いな人は少なくないでしょうね。
妥協は人を成長させないと―。
筆者も、こういう精神でいれば気楽ではあるけれど、
人間的にはまず向上しないと注意しています。
この考え方が嫌いな人はきっと強い人です。
だけど、世の中強い人ばかりじゃありません。
「あきらめたらそこで試合終了」だとしても、
諦観はひとつの救済であって、それによって解放されることがあるのも事実。
弱い人間は、その弱さをカバーする手段を講じなければ生きていけないんです。
それを必要としない人には分かってもらえないかもしれないけど。
すり減ってざらざらした気持ちをしずめるために、
時にはこういう考えに浸ってみるのも悪くない…
少なくとも非難されるようなことではないと思うわけです。
もちろん、行きすぎは禁物ですが。
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