斉藤孝の「座右のニーチェ」という本を読んでいます。
なかなか面白いです。
「ニーチェ」の批判する人間像に自分が当てはまりすぎて(笑
(著者の考えるニーチェの主張であって、
ニーチェそのものの主張なのかどうかまでは知らないけれど)
それはともかく、逆説的な主張を読むだけでも割と楽しいです。
一例紹介してみます。
キリスト教において性欲はタブー視されていますよね。
自分の記憶が間違っていなければ、
いやらしい目つきで女性を見る行為は姦淫する行為に等しい、
というような極端なものだった気がします。
そんなこといったら、うちの妄想先生は一体何件姦淫罪を問われることやら
話が逸れました。
著者によると、ニーチェはそんなキリスト教的考え方を批判しているそうです。
「キリスト教が七つの大罪を憂うのは、
それらが人間を地獄へ近づける欲望や感情を含んでいると考えるからだ。
ニーチェはその真逆で、欲望することが牢獄からの解放につながると説く。」
禁欲が悪いとは言わないけれど、
どうせなら積極的な生のエネルギーは活用するべきだ、ということらしいです。
じゃ、具体的にどうすりゃいいのか?
『そもそも、「こうしたい」という欲求に正直にしていないところから、
ニーチェが批判するルサンチマン=妬みやそねみが生まれる』
・・・じゃ、欲望の赴くままに行動しろってこと・・・なのかと思ったら、
その節のタイトルが「欲望ばんざい」になってるから、
多分方向性としてはそんな感じ。
まぁ、露骨な表現は巧妙に避けられてるので、
きっと一番強調したいのは
禁欲から生じる負の要素がよくないってことなんだろうとは思いますが。
あれ、じゃあ前述したHポーせんせいのあれは・・・
弦分中に周りを見回してはここには書けない様な妄想の世界に入り浸っていたあの行為は
ニーチェ的観点では許容されるんでしょうか。
(ニーチェが推奨する活用法とは違うように感じますが)
この本を読んで、自分の生活ちょっと見直してみようと思いました。
だけど、コンビニのおねーさんと手が当たっただけでドキッとしているような自分にとって、
やっぱりある種の妄想も「罪」になるんじゃないかと思うんですよね。
ぁ、誤解の無いように一応断っておきますが、
特定の個人を誹謗中傷する意図はありません(笑
多分、本人見てるし。
なかなか面白いです。
「ニーチェ」の批判する人間像に自分が当てはまりすぎて(笑
(著者の考えるニーチェの主張であって、
ニーチェそのものの主張なのかどうかまでは知らないけれど)
それはともかく、逆説的な主張を読むだけでも割と楽しいです。
一例紹介してみます。
キリスト教において性欲はタブー視されていますよね。
自分の記憶が間違っていなければ、
いやらしい目つきで女性を見る行為は姦淫する行為に等しい、
というような極端なものだった気がします。
話が逸れました。
著者によると、ニーチェはそんなキリスト教的考え方を批判しているそうです。
「キリスト教が七つの大罪を憂うのは、
それらが人間を地獄へ近づける欲望や感情を含んでいると考えるからだ。
ニーチェはその真逆で、欲望することが牢獄からの解放につながると説く。」
禁欲が悪いとは言わないけれど、
どうせなら積極的な生のエネルギーは活用するべきだ、ということらしいです。
じゃ、具体的にどうすりゃいいのか?
『そもそも、「こうしたい」という欲求に正直にしていないところから、
ニーチェが批判するルサンチマン=妬みやそねみが生まれる』
・・・じゃ、欲望の赴くままに行動しろってこと・・・なのかと思ったら、
その節のタイトルが「欲望ばんざい」になってるから、
多分方向性としてはそんな感じ。
まぁ、露骨な表現は巧妙に避けられてるので、
きっと一番強調したいのは
禁欲から生じる負の要素がよくないってことなんだろうとは思いますが。
あれ、じゃあ前述したHポーせんせいのあれは・・・
弦分中に周りを見回してはここには書けない様な妄想の世界に入り浸っていたあの行為は
ニーチェ的観点では許容されるんでしょうか。
(ニーチェが推奨する活用法とは違うように感じますが)
この本を読んで、自分の生活ちょっと見直してみようと思いました。
だけど、コンビニのおねーさんと手が当たっただけでドキッとしているような自分にとって、
やっぱりある種の妄想も「罪」になるんじゃないかと思うんですよね。
ぁ、誤解の無いように一応断っておきますが、
特定の個人を誹謗中傷する意図はありません(笑
多分、本人見てるし。