「精神的に傷つきやすいのは、
若い人々によく見られるひとつの傾向であるだけではなくて、
それは彼らに与えられたひとつの固有の権利でもあるのだ。
もちろん歳をとっても、心が傷つくことはいくらでもある。
でもそれを露骨に表に出したり、あるいは引きずっていることは、
それなりに年齢を重ねた人間にとっては相応しいことではない。
僕はそう思った。
だからたとえ傷ついていても頭に来ても、
それをするりと飲み込んでキュウリみたいに涼しい顔をしているように心がけた」
「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」より
もはや村上春樹は僕にとってバイブルです。
僕もキュウリみたいに涼しい顔をしていなければいけないんだけど、
それができなくて色んな人に色んな事を言われます。
「この人生においてこれまで、
本当に悲しい思いをしたことが何度かある。
それを通過することによって、
体の仕組みがあちこちで変化してしまうくらいきつい出来事。
言うまでもないことだけど、無傷で人生をくぐり抜けることなんて誰にもできない。
でもそのたびにそこには何か特別の音楽があった。
というか、そのたびにその場所で、
僕は何か特別の音楽を必要としたということになるのだろう。
ある時にはそれはマイルズ・デイヴィスのアルバムだったし、
ある時にはブラームスのピアノ協奏曲だった。
またある時それは小泉今日子のカセットテープだった。
音楽はその時たまたまそこにあった。
僕は無心に取り上げ、目に見えない衣として身にまとった。
人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、
自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。
音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。
小説にもまた同じような機能がそなわっている。
心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、
同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、
共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだと言うことを、それらは教えてくれる。
僕の書く文章がこの世界のどこかで、
それと同じような役目を果たしてくれているといいんだけどと思います。心からそう思う」
「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」より
とても素敵な文章だと思います。
もともと僕は日常的に音楽を聴かない人だったんですが、
最近ブラームスのピアノ協奏曲2番や交響曲3番を繰り返し聞いています。
小泉今日子に代わるものはスピッツ。
そして村上春樹の文章は僕にとってそういう機能を果たしてくれていることを
何らかの形で筆者に伝えたいところではあるけれど。
時間を巻き戻せる手段があるならなんだって差し出す覚悟がある。
そういう問題ではないのかもしれないとも思うけど。
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