ルーティン以外の努力が最後にモノをいう!

2018-09-25 20:54:36 | 学習塾・勉強の仕方

ACSは設立当初から受験塾として活動してきましたが、そうはいっても受験性立つ前に今の学習到達度を少しでも高めることが先決とい生徒さんのための補習授業も並行して行ってきました。

その中で思うこと。

どの子も「私はA高校志望です」「僕はB高校」と言うように具体的な高校名を表明することpが一般的なスタートです。

中には、「受験の時が来たら受験校を決めます」という、ぎりぎりまで決断を延ばすという方法の方もいて、それはそれで一つの方法です。

前者のやり方ですが、この場合、基本的には彼ら(保護者も)口にする高校名を念頭に私たちは学習計画を個別に立てて実際の授業を進めていきます。

子どもたちにとりましたらそこまで具体的な違いは分からないでしょうが、彼らの見えないところで指導法や進度、或いは使う教材などにも違いを設けています。

そうして進める授業ですが、基本の形は受験生では週3回のレギュラー授業プラス主として土曜夜に行う高校受験対策講座が1回の週4回です。

こう書くと多いと感じる方も居るかもしれませんが、その時々の各自の学習到達度によっては、或いは一回当たりの授業ボリュームによっては、これでも多すぎるということはありません。

ですから、そういうときのために教室では決められた授業日以外、或いは授業時間以外にも出来るだけ皆さんには居残って頂き、そこでもしっかり積み上げをしていただきたいのです。

そうする必要がない学校ならばそれでもよいですが、皆さんが志望すると公言する高校のネームがそういうことを皆さんに要求しているのであって、私たちはもちろんの事、他の誰かが強制するようなものでは本来ないのですから。

今の学力から計算して、その少し上を行く偏差値の高校が志望先であるならば、こうした自助努力の部分の有無が最終的に結果の違いになって返ってくるのだということを各自がしっかりと肝に銘じとくべきだと思うのです。


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私立高校の先生が来られました

2018-09-25 18:27:34 | 学習塾・勉強の仕方

神奈川県には古い歴史を誇る私立高校が沢山あります。

公立高校と私立高校を見比べるとき、そこには時代の違いによる評価の仕方が大きく影響しますが、あまりみんなが口に出して言わないことの一つに、私立高校の相対的地位向上という現実があるように思います。

大昔はそれほど難易度が高くなかった私立高校が、それ自体正当な評価をされていないと思えることがしばしばあったものですが、今は押しなべていろんな意味で評価が上がってきており、それに呼応するように所謂偏差値も高くなっています。

それはそれとして、各高校ともよい生徒を集めたいという姿勢は変わるところがないようで、一方で偏差値を上げながら他方で一生懸命に生徒獲得にも余念がないいう、そんな図式のようです。

一時東京都内で公立小学校の学区が撤廃されたことに伴って評価の低い(←それ自体よく分からないことですが)小学校の校長先生が生徒集めのために懸命に募集活動に精を出していました。石原慎太郎知事の頃だったかと思いますが、テレビでその様子を見たときに、なんだかなあと思った記憶があります。

なんだかなあというのは、これがよい事なのかそうでないのかがよく分からなかったからですが、今神奈川県の歴史の或る私立高校の中にはこれと同じ募集活動をしているところが少なくなく、当会にもこの時期ちょくちょく担当の先生が「生徒さんに本校を紹介してください」といって訪問してこられます。

ここで名前は書きませんが、誰もが知っていると思われるような有名私立高校が中に沢山あって、これも少子化を象徴する現象の一つなのかなあと思います。

 


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潮風から連想

2018-09-25 11:59:30 | 学習塾・勉強の仕方

鎌倉の海の近くに住んでいますので、海風の湿り気の具合である程度その後の天候予想ができるようになりました。

自身中学生の頃は理科と数学が好きでなく(今でも同じですが)天候のところもほとんど興味がありませんでしたが、こうして学校から離れた年になって、実際の生活の中で体感する事象によって昔教えられたことがよみがえるというのはまんざらではありません。

そして、当時大人たちに「今は分からなくてもよいから、ただ素直に言われたことを受け入れて勉強しておけ。そのうち自然に分かる時が来る」というようなことを何度も言われたことがあって、その都度「知らねえや」などと言って者に構えていた愚かな子供であったことも併せて思い出すのですが、今更ながらなんと情けない子供だったのかと我ながら嫌になったりもします。

そんな実体験があるから、今教室で子供たちにモノを言う時も、そうするたびに「自分だどうだったんだ?」という自問の声が内側で響くような気がして、そんなときはいつも言うことの矛先が鈍るような気持ちになります。

でも、たとえ今は分からなくても、彼らもきっといつかは自然に分かる時が来るはずなんだと、そう思い直します。


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