端的な意味で目先のものを含めて「子供が勉強できない、しようとしない」ことにフォーカスして「だから学習障害」と言い切ってしまう保護者の見方も一定程度理解は出来ます。
ここでいう「勉強できない」というのは、おそらくテストの点が取れない、成績表の数値が悪い、というところで判断しているのかと思います。
もっと掘り下げれば、「テストの点が取れない」というのも、「他の子と比べた場合に」かもしれませんし、或いは昔の自分自身(保護者自身)と比べているのかもしれません。
もう少し思慮深い保護者なら、例えば子供が今中学生である場合、特定の高校を志望した時に学校の教師や塾の講師たちが「合格にはこの点数以上が必要」といって示すテストの点数に比べて言っているのかもしれません。
これらのどれであっても、大切なのは、そういった比較の正確さ、もっと言えば「理にかなった見方」であるか否かの整理です。
これは教室で実際にあったことですが、中学生の或る塾生は入会時はさすがに保護者が心配するだけのことはまああるテストの点数ではありましたが、我々はこの子と何度も何度も話を積み重ねていく中で、この子の「点数が取れない」理由のいくつかをほぼ正しく理解しましたので、それについてこの子の母親とも何度も話をして、リーズナブルな新勉強法を組立て、同じくリーズナに、近い将来のどの時点で何点、その後またどの時点で何点を取れるようにしていくか、そして最終的に県立高校の(今は厳しくても)どのレベルのところを合格目標にするかを繰り返し確認しながら以後の日々を過ごしていきました。
しかし、ここで問題が起こりました。父親の存在です。
この子の父親は、我々から言えば誤った考え方に基づいた誤った教育方針(←に勉強面において)を、母親やこちらが何度言っても決して見直そうとも修正しようともしないタイプで、しかも乱暴でした。
子供が目に見えて伸びてきている中でも「俺は(もっと)出来た」とかなんとか、自分の子供時代のしょうもない自惚れや過剰な自負からくるところの「子供の努力を頭から否定する」有様で、これでは糠に釘、暖簾に腕押しです。そして、彼の頭の中には自らの子供を、そうとは口に出して言わないまでも「学習障害児」扱いする姿勢が色濃く反映されていて、それらは例えば塾での三者面談でも、子供に向かって「テメエバカヤロウ」などといった醜い言葉の数々で容易にわかりました。
例えこの人物が子供だった頃に「出来ていた」ことが事実であったとしても、我々からすれば「だったら何?」という話です。
そんなゴタクはたとえ1万回聞かされても、今目の前に座って小さくなっている可哀そうな子供にとえっての建設的で具体的な生きた提言であなどある筈もありません。
ですから、繰り返します。
必要なこと、大切なことは、軽々に学習障害というくくりに押し込んでねげいてみせるプチ満足感に浸るのではなく、今、そしてこれから何をどうしていくかについて今一度頭をクールにして考えてみましょうよ、と。