(→第1部からの続き)
Ⅲ. 強制使役について。軍「慰安婦」制度は性奴隷制度であり、そこでの使役は自由意思とはいえない。
もうひとつの問題は、強制使役だと思います。女性たちがどんな形で連れて来られたにしても、たとえば豪華客船に乗せられて、陸上に上がっては高級車のメルセデス・ベンツに乗せられて連れてこられたとしても、慰安所で強制されれば、それはもう強制使役という他ないわけです。強制使役の問題が一番重要な問題ですが、橋下さんはそのことについて何もいっていないんです。
軍「慰安婦」制度は性奴隷制度だったということはあとで申しあげますが、もしそうであるとすれば、そのような制度のもとで兵隊の性の相手をさせられる女性たちは、自由意思でやっているとはいえないわけです。
この点について河野談話は「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」とのべています。この認定はごくまともなものです。
この点については、被害者の証言がそうであり、また実際に慰安所に通った、すべてとはいいませんが、かなりの軍人・軍属たちが慰安所の凄まじい状況を見てたじろいでいるように、被害者の証言と一致する。このような証言はたくさん出てきています。『戦争責任研究』でも載せていますし、岩波新書の僕の本でも紹介している。これだけでアウト、といえますが、先ほど申しましたように、誘拐とか人身売買という犯罪により連れて来られたことが分かっても犯人を逮捕せず、被害者を解放しなかったという点でもアウトです。
次の表は、軍「慰安婦」制度と、日本国内にあった公娼制度とを比較したものです。結論からいうと、公娼制度も軍「慰安婦」制度もともに性奴隷制度であるわけですが、若干の形態上の相違がある。
公娼制度
居住の自由 なし。
外出の自由 なかった。1933年からは認めるよう内務省が指導。
自由廃業 法律上の規定はあった。しかし、実現することは極めて困難だった。
拒否する自由 建前は自由意志ということになっていたが、拒否することは困難だった。
軍「慰安婦」制度
(前述の自由についてはいずれも)なし、若しくは殆ど不可能。
(注:上述の)表を見てみますと公娼制度と軍「慰安婦」制度では、ともに女性たちに居住の自由がない。ある決められた、管理・統制された一角、あるいはその住居に住まなければならないということで共通しています。
外出の自由があったのかどうかということですが、公娼制度では、女性たちは「籠の鳥」といわれ、外出の自由が認められていなかった。しかし、1933年から内務省は許可制であれば、外出の自由はないということになるので外出の自由を認めるように、という指導をしています。なぜ、そういう指導をせざるをえないかというと、外国からの批判で、公娼制度は性奴隷制度ではないかという批判を受けるわけですね、その理由のひとつが自由に外出できない、許可制であるということです。その批判をかわすためにそういう指導をするわけです。
公娼制で実際に自由に外出が保障されるようになったかどうかということは別ですけれど、軍「慰安婦」制度では外出の自由をそもそも認めていないということが重要です。【資料6】の軍が作った軍慰安所規定を見ますと、外出の自由を認めないという規定がいくつか出て来ている。
たとえば中国の常州に駐屯していた独立攻城重砲兵第二大隊が作った「常州駐屯間内務規定」では、「営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス」といっています。「営業者」とは「慰安婦」のことです。ある一定の許可した場所以外に外出を禁ずるということは外出の自由がなかったことになります。
その次は、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の規定、パナイ島イロイロ市にあった陸軍の慰安所の規定ですが、ここでも許可なく「慰安婦」の連れ出しを禁ずとか、「慰安婦」の散歩は午前8時から10時まで、その他にあってはイロイロ出張所長の許可をうくべし、と書かれています。許可制ですので外出の自由はなかったということになります。それから散歩区域については、図に「亜細亜会館」というのがありますが、これが慰安所です。「第一慰安所」も慰安所ですが、公園を囲む1ブロック区画以内が散歩区域で、この外には出てはいけないようになっていますので、外出の自由はなかったといわざるをえない。
次に、自由廃業とは何か、ということですが、公娼制度では、それが性奴隷制度ではないというために、自由廃業の規定を内務省が作っていた。自由廃業というのは遊郭の中で売春をさせられている女性が辞めようと思えば、すぐに辞められるという権利を認めるということです。
ただし、これは実際には機能しない。機能しないのはなぜかというと、自由廃業の規定があることを遊郭に入れられている女性たちはそもそも知らない。仮に知ったとしても、これは警察に届けないといけないんですが、業者が妨害して警察に届け出られないという事情があります。運良く警察に届け出たとしても業者は必ず裁判を起こします。女性には借金があるのだから、借金を返せというわけです。裁判を起こすと、売春で借金を返すという契約は公序良俗に違反しているので無効だけれども、借りた借金は返さなければいけないという判決が必ず出るのです。そうすると借金を返せない女性は、自由廃業の規定があっても、そのまま遊郭に拘束されてしまう。
売春で借金を返すという契約は全体として無効だ、とする判決が出るのは戦争が終わって10年後の1955年までかかります。1955年に初めて最高裁でそういう判決が出る。つまり売春によって借金を返すという契約は無効だから契約を全体として破棄する、女性たちは借金を返さなくてもいいという判決が初めて出るんですね。それまでは自由廃業規定があるけれども、これはほとんど機能していない。したがって公娼制度は、事実上の性奴隷制度だといわざるをえない。
これに対して軍「慰安婦」制度はどうであったかというと、自由廃業の規定はそもそもないわけですね。始めから、はなから、無視されていることになります。
次に拒否する自由があったのかということですが、公娼制度では建前では自由意思となっていますが、借金を返さなければいけないので、拒否することは困難だったと思います。軍「慰安婦」制度の下では拒否はほとんど不可能だったと思います。拒否すれば業者から殴られるか、軍人から殴られるのが関の山ということになります。
こういうふうに見てきますと、公娼制度も軍「慰安婦」制度も共に性奴隷制度であった。違いがあるとすれば、公娼制度は、市民法下の制度なので一応性奴隷制度ではないような外見を伴っているけれども、実質は性奴隷制度であった。軍「慰安婦」制度は軍法下の性奴隷制、文字通りむき出しの性奴隷制度であったといわざるをえない。したがって、そのような制度のもとで使役される女性たちは強制使役されたといわざるをえないのです。
Ⅳ.軍「慰安婦」制度を創設し、監督・統制し、維持し、拡大した主役は日本軍だった。業者は手足として使われた。
次に、軍慰安所について、軍は、公安委員会が風俗営業を管理するのと同じような「公的な管理」しかしていなかったと橋下さんがいっている議論について検討しましょう。
両者には、明らかに大きな違いがあります。それは「慰安婦」制度を作ったのは軍ですし、それを監督・統制したのも、維持したのも、拡大していったのも主役は軍だったからです。これは公文書主義の立場から見ても、そのことを示す公文書は非常にたくさん出ていますので、否定することは不可能だと思います。
まず、慰安所設置は軍の命令(指示)によります。それを示す公文書があるのです。正確にいうと参謀部が指示する場合が多いので、軍の用語では「指示」というんですが、命令であることは間違いない。軍が慰安所を作ることを決定して、はじめて設置されます。
女性たちの移送は、船を用いる場合は軍用船を用います。それから軍のトラックなどで移送することになります。建物は軍が現地で調達します。内部の改装も軍がやっています。それから慰安所の規定は軍が作っています。料金も軍が決めています。利用日の割り当ても軍が設定しています。業者に運営させる場合も、軍が監督・統制をしています。利用するのは軍人・軍属に限定をされています。食料・衣服・日用品などは軍から提供されています。無償で提供される場合もあります。軍医による定期的な性病検査も行われています。
公安委員会が管理する風俗営業は、政府とか自治体が作ったものではないはずです。それから公務員専用ではない。軍人・軍属は軍と特別な契約関係にある人たちですので、今風にいえば公務員ということになるでしょう。国家が公務員専用のそういう施設を作るというのは、極めて異常なことではないでしょうか。分かりやすい例でいうと、文科省が小・中学校の先生のために専用の慰安所を作れば一大スキャンダルですね。そういうことが平然と行われていたというところに、この問題の本質があるのではないか。
いずれにしても、軍「慰安婦」制度を作った主役は日本軍であるということは軍の公文書から否定できないようになっている。したがって、「公的な管理」に関する橋下説はまったく成り立たないということになります。
次に若干補足をしますと、これらの「慰安施設」はどういう性格のものなのかということなのですが、京都大学の永井和教授は、それは軍の後方施設、兵站付属施設として作られたもので、設置の法的根拠としては「野戦酒保規定」の改正で対応したんだと述べておられます(永井和『日中戦争から世界戦争へ』思文閣出版、2007年、第5章・附論)。
【資料7】を見ていただきたいのですが、1937年9月29日に「野戦酒保規定」が改正されて、第一条の傍線を引いた部分が追加されたわけですね。野戦酒保というのは、戦地にいる軍人・軍属のために飲食物とか日用品を提供する施設です。「野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」という規定が追加され、必要なる「慰安施設」として慰安所を作るわけです。軍といえども国家の機関ですので、法的な根拠がなくては慰安所は作れない。その法的な根拠をどうしたのか、「野戦酒保規定」改正で対応したのではないかというのが永井さんの説です。説得力のある議論だと思うんですが、軍というのは国家の官僚制組織ですので、法律に基づいて作らないといけない。その根拠はこういうところにあると思うんです。
次に、なぜ日本軍は「慰安婦」制度を必要としたのかという設置の動機から、軍が監督・統制に踏み込んでいく理由を検討してみたいと思います。公文書に現れている、日本軍が「慰安所」を作る理由は、つぎの四つです。ひとつは、戦地で日本軍人が住民をレイプするので、そのレイプを防止するために作るんだという動機です。これは軍の施設として作る必要があるという発想になります。こういう話をすると、それは良かったんじゃないかという人が出てきて困るんですが、これは実際には失敗したということを強調しておきたいと思います。軍「慰安婦」制度を作ったにもかかわらず、日本軍人による戦地での強かん事件はいっこうになくならない。慰安所で性暴力を公認しておいて、強かん防止に役立てようということがそもそも無理であったということになると思います。
もうひとつは、性病蔓延防止という理由です。これは日本軍の将兵が戦地にある売春宿に通うと、そこは衛生状態が悪くて性病が蔓延しているので、そこに通うことを禁止して、軍が完全に管理できる慰安所を作ろうという、こういう発想です。外部との接触を絶って、慰安所を軍の中に抱えこめば性病蔓延防止ができるというのが軍医たちの発想だったようなんですが、これも失敗してしまいます。
戦地で性病に新規感染した人数は、軍中央が把握した数によれば、1942年に1万1983人、1943年に1万2557人、1944年に1万2587人と、少しずつ増えていっている。後になるにつれて動員兵力は増えますので、比率としては減っているかもしれませんが、新規感染者の絶対数は増えている、ということになります。
もうひとつの問題は、戦場で性病に感染するというのは非常に不名誉なことなので、みんな隠すわけですね、自分で治療しようとしますのでその実数はなかなか把握できないことになります。実際はこれよりはるかに多かったと思いますが、軍「慰安婦」制度を作って性病蔓延防止をしようとしても失敗してしまうということになります。軍人の中にすでに性病に感染している人が非常にたくさんいますので、それが慰安所を介して拡大していくことになります。
強かん防止、性病蔓延防止にも役立たない慰安所がなぜ増えていくのでしょうか。戦場で劣悪な状況に置かれている兵士たちの不満を解消するために「慰安」の提供が必要だというのが最大の動機ではないかと思います。戦前の日本社会で「慰安」として最初に思いつくのは酒、それから女を提供すればいいという安易な、人権無視の発想の中で作れられていくわけです。
それから第4の理由として「防諜」というのがあります。スパイ防止ということです。これは、日本軍の軍人が戦地の民間の売春宿に通ってその女性たちとネンゴロになる可能性がある。もしそこにスパイが入っていると軍機が筒抜けになる。そこで、軍人が戦地・占領地にある民間の売春宿に通うことを禁止して、その代わりにスパイが入り込まないような、完全に軍の監督・統制下におかれた慰安所を作ろうとするのです。これが、日本軍が「慰安婦」制度をつくり、軍の中に抱えこんでいく、もうひとつの理由になっていたと思います。
したがってこれは、公安委員会が管理している風俗営業というのとはまったく性格を異にしていて、軍の責任は非常に大きいといわざるをえないような性格のものであると思います。
Ⅴ.強制の定義について。
次に、強制の定義について検討したいと思います。日本政府の定義は、河野談話が述べているように、本人の意思に反して行われたこと、というのが強制の定義です。これについて、橋下さんはこれでは広すぎるといっているんですね。本人が不本意に感じているとか、自分の意思で行ったけれども不本意であったというケースもこの定義の中に入るではないか、と。
橋下さんはこういうふうにいって、強制というのは、暴行、脅迫を用いて連れてこられた場合、略取の場合に限定しようとする。誘拐のケースや人身売買のケースは除外する。しかも、軍・官憲が直接それをやらない場合は免責しようとするわけです。
しかしながら【資料8】を見ていただきたいんですが、これは北朝鮮による拉致被害者について警察庁が認定した、あるケースです。田中実さんという人ですけれども、田中実さんは拉致された、と警察庁は認定している。その認定の仕方を見てみますと、「事案の概要」で、神戸市内の飲食店に出入りしていた被害者が、昭和53年6月、北朝鮮から指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人による甘言により海外に連れ出されたあと、北朝鮮に送り込まれたもの、とされています。これは官憲が行ったというケースではないですね。それから甘言により連れて行く場合も拉致だといっています。これは海外移送目的誘拐罪になる。
次に拉致であるとの判断に至った理由ですけれども、「警察において、拉致容疑事案としているものは、そのいずれも、北朝鮮の国家的意思が推認される形で、本人の意思に反して北朝鮮に連れて行かれたものと考えている」とされています。強制というのは「本人の意思に反して」連れて行かれるケースだということで、河野談話と同じ定義を用いているわけですね。橋下さんは、これは強制ではないとおっしゃるのでしょうか。
もうひとついいますと、認定の根拠として、「同人が甘言に乗せられて北朝鮮に送り込まれたことを強く示唆する供述証拠等を新たに入手」して拉致と認定している。文書からではなく供述証拠等から認定しているという点も重要です。
このように、本人の意思に反して行われた行為を強制と定義するのはあたりまえのことであって、橋下さんは非常におかしい文句をいっているといわざるをえないと思います。
Ⅵ.証言と文書・記録の信憑性について。
次に、証言の信憑性の問題を、文書・記録のそれと比較してどのように考えるのかということについて述べてみたいと思います。まず、自国の公文書を中心に考えるのは非常におかしなことだと思います。北朝鮮の拉致問題との比較でいいますと、田中さんのケースを拉致と認定したのは北朝鮮の公文書によってではないですよね。供述等によって認定していますので、当該国の公文書がないからというのは、重要な問題ではないということになります。
次は、文書・記録と語りは証拠として重さが違うのかという問題を考えてみたいと思います。裁判においては、文書記録は書証、語りは供述・証言ということになります。裁判において書証だけで、事実を認定するというのは難しい場合が少なくないので、尋問を行うことになります。裁判では必ず反対尋問が行われます。そして、反対尋問で崩されたものは証拠にならないのですが、反対尋問に耐えたものは、あるいはその部分は証拠になっていきます。歴史学では反対尋問に相当するのが史料批判です。これは文書・記録についても行いますし、語りについても行います。さまざまな点から史料批判をして、史料批判に耐えたものが、あるいはその部分が事実として用いられ、史料批判をへた諸史料を構成して歴史的な事実を明らかにするということになりますので、どちらが重いというものではないのです。
被害女性の証言についても、裁判でいうと反対尋問、歴史学でいうと史料批判に耐えたものが証拠、歴史像を構成する根拠になっていくということになります。
どこまでいけば、客観性が保障されるのかということになりますが、ドイツ史の西川正雄さんは、その事柄について、反証不可能性ということが非常に大事だという趣旨のことをいっておられます(『歴史学の醍醐味』日本経済評論社・2010年)。そのような反対尋問、あるいは史料批判を重ねた上で残ったものが、反証をくつがえせれば客観性が保障されることになる。そういう意味で、どっちがどっちということではなくて、両方を吟味していく中から事実が確定されていくということになるのではないかと思います。
最後に、兵士の語りと「慰安婦」の語りで、重要なことのひとつは、痛覚があるかどうかではないか、ということを述べてみたいと思います。
【資料9】は、中国の湖北省のある村で中国人の女性たちが「慰安婦」としてかり出され時に、女性たちの性病検査をした山口時男という軍医さんの日記です。1940年8月11日のことです。僕は大学の講義でもこれを何度も紹介しているのですけれども、山口さんは性病検査をやらざるを得なくなったときに、このように感じています。
さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、〔女性たちは〕なかなか褲子(クーツ)(ズボン)をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘〔クーニャン〕も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
なかにはお金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。
ちょっと読むのがつらい文章ですが、山口時男軍医は、無理やりかり出されて慰安所に入れられる女性の性病検査をしている時に、これは人間性を蹂躙している、と強く感じている。非常にヒューマンな感覚を持っている日本軍人だと思います。こういう感覚はまともであって、この日記は信じられるのではないかと僕は思います。こういう記録もあるということです。
次に、【資料10】は、台湾に連れて行かれた李容洙さんの証言です。彼女は誘拐されて台湾に連れて行かれるわけですけれども、自分の体験をこのように正確に述べています。1944年、満16歳の時に、非常に貧しい生活をして暮らしていたのですが、ある日、友だちの家に遊びに行くと、その友だちのおかあさんが、
お前は履物ひとつ満足に履けなくてなんというざまだ。いいかい、お前もうちのプンスンと一緒にあのなんとかいうところに行くといいよ。そこに行けばなんでもあるらしいから。ご飯もおなか一杯食べられるし、お前の家族の面倒もみてくれるって話だよ。
と、いわれた。そこで、誘われて行ってみると、日本人の男の人が立っていた。
その人は私に服の包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。包みをそうっと開けてみると、本当に赤いワンピースと革靴が入っていました。それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで、即座について行くことにしました。
といっています。赤いワンピースと革靴を見せられて、誘拐されてしまう李容洙さんの心情はなんとも切なく、リアルだと思います。また、こういう形で、朝鮮人の若い少女を誘拐で連れて行くということが、1944年においても行われていたことが分かるのです。ほかの証言等々と照らし合わせても、これが事実ではないと反証するのは難しいのではないかと思います。
Ⅶ.責任問題と解決について。
最後に責任問題についてひと言ふれて終わりにしたいと思います。国家の責任というのがやはり非常に大きい。軍というのは国家の中枢ですので、軍の犯した責任は国家の責任であることは否定できないですね。
もう一つの問題は、慰安所に通った兵士の責任はどのように問われるのかということですが、性の商品化の中で、慰安所に通うことがごく当たり前の状況として受け入れられ、それに慣らされていく。それは、軍が普通の兵士を非常に惨めな状況に追い込んでいくことになったのではないか、と僕は思っています。
【資料11】をご覧いただきたいと思います。これは迫四会大隊史編纂委員会編『迫撃第四大隊史』(迫四会本部事務局・1,985年)という兵士たちの日記を収録した貴重な記録の中に出てくる、ある一人の兵士の日記を分析した、僕の文章です。Bというのは『迫撃第四大隊史』では実名で書いてありますが、本人の名誉を考えて、記号にしてあります。Bさんの日記を見ると、中国の揚州に軍慰安所が開設されるのが1938年2月ですが、中隊に事故が多いため、酒・賭博が禁止され、徴発品が回収されるという状況が生まれています。
三月五日には、〔上官〕の曹長から枕絵(春画)はないかと質問され、〔このBさんは〕憤慨している。二一日には、外出にあたって准尉から、「淫売」を買うな、大酒を飲むな、服装を正しく、徴発物品を売買するな、という注意を受けている。このような禁止と注意を繰返さなければならないほど乱れた情況の中で、彼は欲望を煽られ、軍慰安所通いを続け、班内では「妣(ピー)〔ここでは「慰安婦」のこと〕の話などをして夜を更かす」ようになり、そのような自分を「愚かな愚かな私」と自嘲するようになる。
このように、日本軍は、軍慰安所をつくり、兵士の性欲を肥大化させることによって、兵士たちを惨めな情況に追い込んでいったのである。
と、いうのが僕のひとつの結論というか、気づいたことです。
*
最後に、問題を解決するためにどうしたらいいのかということですが、2007年12月13日に出された欧州議会の決議が、非常によく出来ているのではないでしょうか。欧州議会は次の①から⑤のような趣旨の勧告を日本政府に対して行っています。
① あいまいさのない明確な認知と謝罪を行うこと
河野談話は、日本軍の責任をほぼ認めていると思います。問題があるとすれば、このような問題を起こした主役が誰だったのかということをあいまいにしている点でしょう。業者に責任があるのか、軍に責任があるのか、主役はどっちだったのかということは、現在の史料状況ではもはや明白だと思うのですが、「あいまいさのない明確な認知」という点では、はっきりさせることが必要だと思います。
それから、さきほど引用しましたように、河野談話で「慰安所における生活は、強制的な状況のもとでの痛ましいものであった」とされています。これでほぼ十分だといえるかも知れませんが、性奴隷制度であったということに踏み込むべきではないかと思います。
つづいて、欧州議会の決議は
② 補償を行うための効果的な行政機構を整備すること
③ 裁判所が賠償命令を下すための障害を除去する法的措置を講ずること
を要請しています。それから、4番目も非常に大事だと思うんですが、次のことが必要だといっています。
④ 事実を歪曲する言動に対して公式に否定すること
河野談話で認めたことに反するような、否定的な発言があちこちで出ているわけです。橋下さんもそれをいっているわけですが、そのような発言に対して日本政府は「それは事実と違う」と公的に否定しなければ、きちんと責任を認めたということにならないのではないか。残念ながら日本政府は一度もそういう否定的な発言を、公式に否定するということはやっていない。
それから、5番目の
⑤ 史実を日本の現在と未来の世代に教育すること
という欧州議会の勧告は重要ですが、実は河野談話はこれとほぼ同様の事柄を認め、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と、対内的にも、対外的にも約束しているわけですね。これは非常に重要なことですが、実際には守られていない。逆に、中学校の歴史教科書から「慰安婦」の記述が全部なくなってしまうという、河野談話が約束していることとは反対のことが進行しているわけです。
問題を解決するということは、勧告に書かれているようなことが、きちんと実現しているような状態になることでしょう。その目標からいくと、まだ遠い状況にあるといわざるをえないのですが、そういう状況は、事実を解明し、訴えていけば、いつか変わっていくのではないか。日本が、東アジア世界で生きていくためには、そういう認識が変わらなければやっていけないと思います。今は非常に悲観的な状況ですけれども、将来的にはそれが克服されていくようになるべきだし、そうならなければ、日本の未来はないと思います。
ご清聴ありがとうございました。
Ⅲ. 強制使役について。軍「慰安婦」制度は性奴隷制度であり、そこでの使役は自由意思とはいえない。
もうひとつの問題は、強制使役だと思います。女性たちがどんな形で連れて来られたにしても、たとえば豪華客船に乗せられて、陸上に上がっては高級車のメルセデス・ベンツに乗せられて連れてこられたとしても、慰安所で強制されれば、それはもう強制使役という他ないわけです。強制使役の問題が一番重要な問題ですが、橋下さんはそのことについて何もいっていないんです。
軍「慰安婦」制度は性奴隷制度だったということはあとで申しあげますが、もしそうであるとすれば、そのような制度のもとで兵隊の性の相手をさせられる女性たちは、自由意思でやっているとはいえないわけです。
この点について河野談話は「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」とのべています。この認定はごくまともなものです。
この点については、被害者の証言がそうであり、また実際に慰安所に通った、すべてとはいいませんが、かなりの軍人・軍属たちが慰安所の凄まじい状況を見てたじろいでいるように、被害者の証言と一致する。このような証言はたくさん出てきています。『戦争責任研究』でも載せていますし、岩波新書の僕の本でも紹介している。これだけでアウト、といえますが、先ほど申しましたように、誘拐とか人身売買という犯罪により連れて来られたことが分かっても犯人を逮捕せず、被害者を解放しなかったという点でもアウトです。
次の表は、軍「慰安婦」制度と、日本国内にあった公娼制度とを比較したものです。結論からいうと、公娼制度も軍「慰安婦」制度もともに性奴隷制度であるわけですが、若干の形態上の相違がある。
公娼制度
居住の自由 なし。
外出の自由 なかった。1933年からは認めるよう内務省が指導。
自由廃業 法律上の規定はあった。しかし、実現することは極めて困難だった。
拒否する自由 建前は自由意志ということになっていたが、拒否することは困難だった。
軍「慰安婦」制度
(前述の自由についてはいずれも)なし、若しくは殆ど不可能。
(注:上述の)表を見てみますと公娼制度と軍「慰安婦」制度では、ともに女性たちに居住の自由がない。ある決められた、管理・統制された一角、あるいはその住居に住まなければならないということで共通しています。
外出の自由があったのかどうかということですが、公娼制度では、女性たちは「籠の鳥」といわれ、外出の自由が認められていなかった。しかし、1933年から内務省は許可制であれば、外出の自由はないということになるので外出の自由を認めるように、という指導をしています。なぜ、そういう指導をせざるをえないかというと、外国からの批判で、公娼制度は性奴隷制度ではないかという批判を受けるわけですね、その理由のひとつが自由に外出できない、許可制であるということです。その批判をかわすためにそういう指導をするわけです。
公娼制で実際に自由に外出が保障されるようになったかどうかということは別ですけれど、軍「慰安婦」制度では外出の自由をそもそも認めていないということが重要です。【資料6】の軍が作った軍慰安所規定を見ますと、外出の自由を認めないという規定がいくつか出て来ている。
たとえば中国の常州に駐屯していた独立攻城重砲兵第二大隊が作った「常州駐屯間内務規定」では、「営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス」といっています。「営業者」とは「慰安婦」のことです。ある一定の許可した場所以外に外出を禁ずるということは外出の自由がなかったことになります。
その次は、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の規定、パナイ島イロイロ市にあった陸軍の慰安所の規定ですが、ここでも許可なく「慰安婦」の連れ出しを禁ずとか、「慰安婦」の散歩は午前8時から10時まで、その他にあってはイロイロ出張所長の許可をうくべし、と書かれています。許可制ですので外出の自由はなかったということになります。それから散歩区域については、図に「亜細亜会館」というのがありますが、これが慰安所です。「第一慰安所」も慰安所ですが、公園を囲む1ブロック区画以内が散歩区域で、この外には出てはいけないようになっていますので、外出の自由はなかったといわざるをえない。
次に、自由廃業とは何か、ということですが、公娼制度では、それが性奴隷制度ではないというために、自由廃業の規定を内務省が作っていた。自由廃業というのは遊郭の中で売春をさせられている女性が辞めようと思えば、すぐに辞められるという権利を認めるということです。
ただし、これは実際には機能しない。機能しないのはなぜかというと、自由廃業の規定があることを遊郭に入れられている女性たちはそもそも知らない。仮に知ったとしても、これは警察に届けないといけないんですが、業者が妨害して警察に届け出られないという事情があります。運良く警察に届け出たとしても業者は必ず裁判を起こします。女性には借金があるのだから、借金を返せというわけです。裁判を起こすと、売春で借金を返すという契約は公序良俗に違反しているので無効だけれども、借りた借金は返さなければいけないという判決が必ず出るのです。そうすると借金を返せない女性は、自由廃業の規定があっても、そのまま遊郭に拘束されてしまう。
売春で借金を返すという契約は全体として無効だ、とする判決が出るのは戦争が終わって10年後の1955年までかかります。1955年に初めて最高裁でそういう判決が出る。つまり売春によって借金を返すという契約は無効だから契約を全体として破棄する、女性たちは借金を返さなくてもいいという判決が初めて出るんですね。それまでは自由廃業規定があるけれども、これはほとんど機能していない。したがって公娼制度は、事実上の性奴隷制度だといわざるをえない。
これに対して軍「慰安婦」制度はどうであったかというと、自由廃業の規定はそもそもないわけですね。始めから、はなから、無視されていることになります。
次に拒否する自由があったのかということですが、公娼制度では建前では自由意思となっていますが、借金を返さなければいけないので、拒否することは困難だったと思います。軍「慰安婦」制度の下では拒否はほとんど不可能だったと思います。拒否すれば業者から殴られるか、軍人から殴られるのが関の山ということになります。
こういうふうに見てきますと、公娼制度も軍「慰安婦」制度も共に性奴隷制度であった。違いがあるとすれば、公娼制度は、市民法下の制度なので一応性奴隷制度ではないような外見を伴っているけれども、実質は性奴隷制度であった。軍「慰安婦」制度は軍法下の性奴隷制、文字通りむき出しの性奴隷制度であったといわざるをえない。したがって、そのような制度のもとで使役される女性たちは強制使役されたといわざるをえないのです。
Ⅳ.軍「慰安婦」制度を創設し、監督・統制し、維持し、拡大した主役は日本軍だった。業者は手足として使われた。
次に、軍慰安所について、軍は、公安委員会が風俗営業を管理するのと同じような「公的な管理」しかしていなかったと橋下さんがいっている議論について検討しましょう。
両者には、明らかに大きな違いがあります。それは「慰安婦」制度を作ったのは軍ですし、それを監督・統制したのも、維持したのも、拡大していったのも主役は軍だったからです。これは公文書主義の立場から見ても、そのことを示す公文書は非常にたくさん出ていますので、否定することは不可能だと思います。
まず、慰安所設置は軍の命令(指示)によります。それを示す公文書があるのです。正確にいうと参謀部が指示する場合が多いので、軍の用語では「指示」というんですが、命令であることは間違いない。軍が慰安所を作ることを決定して、はじめて設置されます。
女性たちの移送は、船を用いる場合は軍用船を用います。それから軍のトラックなどで移送することになります。建物は軍が現地で調達します。内部の改装も軍がやっています。それから慰安所の規定は軍が作っています。料金も軍が決めています。利用日の割り当ても軍が設定しています。業者に運営させる場合も、軍が監督・統制をしています。利用するのは軍人・軍属に限定をされています。食料・衣服・日用品などは軍から提供されています。無償で提供される場合もあります。軍医による定期的な性病検査も行われています。
公安委員会が管理する風俗営業は、政府とか自治体が作ったものではないはずです。それから公務員専用ではない。軍人・軍属は軍と特別な契約関係にある人たちですので、今風にいえば公務員ということになるでしょう。国家が公務員専用のそういう施設を作るというのは、極めて異常なことではないでしょうか。分かりやすい例でいうと、文科省が小・中学校の先生のために専用の慰安所を作れば一大スキャンダルですね。そういうことが平然と行われていたというところに、この問題の本質があるのではないか。
いずれにしても、軍「慰安婦」制度を作った主役は日本軍であるということは軍の公文書から否定できないようになっている。したがって、「公的な管理」に関する橋下説はまったく成り立たないということになります。
次に若干補足をしますと、これらの「慰安施設」はどういう性格のものなのかということなのですが、京都大学の永井和教授は、それは軍の後方施設、兵站付属施設として作られたもので、設置の法的根拠としては「野戦酒保規定」の改正で対応したんだと述べておられます(永井和『日中戦争から世界戦争へ』思文閣出版、2007年、第5章・附論)。
【資料7】を見ていただきたいのですが、1937年9月29日に「野戦酒保規定」が改正されて、第一条の傍線を引いた部分が追加されたわけですね。野戦酒保というのは、戦地にいる軍人・軍属のために飲食物とか日用品を提供する施設です。「野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」という規定が追加され、必要なる「慰安施設」として慰安所を作るわけです。軍といえども国家の機関ですので、法的な根拠がなくては慰安所は作れない。その法的な根拠をどうしたのか、「野戦酒保規定」改正で対応したのではないかというのが永井さんの説です。説得力のある議論だと思うんですが、軍というのは国家の官僚制組織ですので、法律に基づいて作らないといけない。その根拠はこういうところにあると思うんです。
次に、なぜ日本軍は「慰安婦」制度を必要としたのかという設置の動機から、軍が監督・統制に踏み込んでいく理由を検討してみたいと思います。公文書に現れている、日本軍が「慰安所」を作る理由は、つぎの四つです。ひとつは、戦地で日本軍人が住民をレイプするので、そのレイプを防止するために作るんだという動機です。これは軍の施設として作る必要があるという発想になります。こういう話をすると、それは良かったんじゃないかという人が出てきて困るんですが、これは実際には失敗したということを強調しておきたいと思います。軍「慰安婦」制度を作ったにもかかわらず、日本軍人による戦地での強かん事件はいっこうになくならない。慰安所で性暴力を公認しておいて、強かん防止に役立てようということがそもそも無理であったということになると思います。
もうひとつは、性病蔓延防止という理由です。これは日本軍の将兵が戦地にある売春宿に通うと、そこは衛生状態が悪くて性病が蔓延しているので、そこに通うことを禁止して、軍が完全に管理できる慰安所を作ろうという、こういう発想です。外部との接触を絶って、慰安所を軍の中に抱えこめば性病蔓延防止ができるというのが軍医たちの発想だったようなんですが、これも失敗してしまいます。
戦地で性病に新規感染した人数は、軍中央が把握した数によれば、1942年に1万1983人、1943年に1万2557人、1944年に1万2587人と、少しずつ増えていっている。後になるにつれて動員兵力は増えますので、比率としては減っているかもしれませんが、新規感染者の絶対数は増えている、ということになります。
もうひとつの問題は、戦場で性病に感染するというのは非常に不名誉なことなので、みんな隠すわけですね、自分で治療しようとしますのでその実数はなかなか把握できないことになります。実際はこれよりはるかに多かったと思いますが、軍「慰安婦」制度を作って性病蔓延防止をしようとしても失敗してしまうということになります。軍人の中にすでに性病に感染している人が非常にたくさんいますので、それが慰安所を介して拡大していくことになります。
強かん防止、性病蔓延防止にも役立たない慰安所がなぜ増えていくのでしょうか。戦場で劣悪な状況に置かれている兵士たちの不満を解消するために「慰安」の提供が必要だというのが最大の動機ではないかと思います。戦前の日本社会で「慰安」として最初に思いつくのは酒、それから女を提供すればいいという安易な、人権無視の発想の中で作れられていくわけです。
それから第4の理由として「防諜」というのがあります。スパイ防止ということです。これは、日本軍の軍人が戦地の民間の売春宿に通ってその女性たちとネンゴロになる可能性がある。もしそこにスパイが入っていると軍機が筒抜けになる。そこで、軍人が戦地・占領地にある民間の売春宿に通うことを禁止して、その代わりにスパイが入り込まないような、完全に軍の監督・統制下におかれた慰安所を作ろうとするのです。これが、日本軍が「慰安婦」制度をつくり、軍の中に抱えこんでいく、もうひとつの理由になっていたと思います。
したがってこれは、公安委員会が管理している風俗営業というのとはまったく性格を異にしていて、軍の責任は非常に大きいといわざるをえないような性格のものであると思います。
Ⅴ.強制の定義について。
次に、強制の定義について検討したいと思います。日本政府の定義は、河野談話が述べているように、本人の意思に反して行われたこと、というのが強制の定義です。これについて、橋下さんはこれでは広すぎるといっているんですね。本人が不本意に感じているとか、自分の意思で行ったけれども不本意であったというケースもこの定義の中に入るではないか、と。
橋下さんはこういうふうにいって、強制というのは、暴行、脅迫を用いて連れてこられた場合、略取の場合に限定しようとする。誘拐のケースや人身売買のケースは除外する。しかも、軍・官憲が直接それをやらない場合は免責しようとするわけです。
しかしながら【資料8】を見ていただきたいんですが、これは北朝鮮による拉致被害者について警察庁が認定した、あるケースです。田中実さんという人ですけれども、田中実さんは拉致された、と警察庁は認定している。その認定の仕方を見てみますと、「事案の概要」で、神戸市内の飲食店に出入りしていた被害者が、昭和53年6月、北朝鮮から指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人による甘言により海外に連れ出されたあと、北朝鮮に送り込まれたもの、とされています。これは官憲が行ったというケースではないですね。それから甘言により連れて行く場合も拉致だといっています。これは海外移送目的誘拐罪になる。
次に拉致であるとの判断に至った理由ですけれども、「警察において、拉致容疑事案としているものは、そのいずれも、北朝鮮の国家的意思が推認される形で、本人の意思に反して北朝鮮に連れて行かれたものと考えている」とされています。強制というのは「本人の意思に反して」連れて行かれるケースだということで、河野談話と同じ定義を用いているわけですね。橋下さんは、これは強制ではないとおっしゃるのでしょうか。
もうひとついいますと、認定の根拠として、「同人が甘言に乗せられて北朝鮮に送り込まれたことを強く示唆する供述証拠等を新たに入手」して拉致と認定している。文書からではなく供述証拠等から認定しているという点も重要です。
このように、本人の意思に反して行われた行為を強制と定義するのはあたりまえのことであって、橋下さんは非常におかしい文句をいっているといわざるをえないと思います。
Ⅵ.証言と文書・記録の信憑性について。
次に、証言の信憑性の問題を、文書・記録のそれと比較してどのように考えるのかということについて述べてみたいと思います。まず、自国の公文書を中心に考えるのは非常におかしなことだと思います。北朝鮮の拉致問題との比較でいいますと、田中さんのケースを拉致と認定したのは北朝鮮の公文書によってではないですよね。供述等によって認定していますので、当該国の公文書がないからというのは、重要な問題ではないということになります。
次は、文書・記録と語りは証拠として重さが違うのかという問題を考えてみたいと思います。裁判においては、文書記録は書証、語りは供述・証言ということになります。裁判において書証だけで、事実を認定するというのは難しい場合が少なくないので、尋問を行うことになります。裁判では必ず反対尋問が行われます。そして、反対尋問で崩されたものは証拠にならないのですが、反対尋問に耐えたものは、あるいはその部分は証拠になっていきます。歴史学では反対尋問に相当するのが史料批判です。これは文書・記録についても行いますし、語りについても行います。さまざまな点から史料批判をして、史料批判に耐えたものが、あるいはその部分が事実として用いられ、史料批判をへた諸史料を構成して歴史的な事実を明らかにするということになりますので、どちらが重いというものではないのです。
被害女性の証言についても、裁判でいうと反対尋問、歴史学でいうと史料批判に耐えたものが証拠、歴史像を構成する根拠になっていくということになります。
どこまでいけば、客観性が保障されるのかということになりますが、ドイツ史の西川正雄さんは、その事柄について、反証不可能性ということが非常に大事だという趣旨のことをいっておられます(『歴史学の醍醐味』日本経済評論社・2010年)。そのような反対尋問、あるいは史料批判を重ねた上で残ったものが、反証をくつがえせれば客観性が保障されることになる。そういう意味で、どっちがどっちということではなくて、両方を吟味していく中から事実が確定されていくということになるのではないかと思います。
最後に、兵士の語りと「慰安婦」の語りで、重要なことのひとつは、痛覚があるかどうかではないか、ということを述べてみたいと思います。
【資料9】は、中国の湖北省のある村で中国人の女性たちが「慰安婦」としてかり出され時に、女性たちの性病検査をした山口時男という軍医さんの日記です。1940年8月11日のことです。僕は大学の講義でもこれを何度も紹介しているのですけれども、山口さんは性病検査をやらざるを得なくなったときに、このように感じています。
さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、〔女性たちは〕なかなか褲子(クーツ)(ズボン)をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘〔クーニャン〕も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
なかにはお金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。
ちょっと読むのがつらい文章ですが、山口時男軍医は、無理やりかり出されて慰安所に入れられる女性の性病検査をしている時に、これは人間性を蹂躙している、と強く感じている。非常にヒューマンな感覚を持っている日本軍人だと思います。こういう感覚はまともであって、この日記は信じられるのではないかと僕は思います。こういう記録もあるということです。
次に、【資料10】は、台湾に連れて行かれた李容洙さんの証言です。彼女は誘拐されて台湾に連れて行かれるわけですけれども、自分の体験をこのように正確に述べています。1944年、満16歳の時に、非常に貧しい生活をして暮らしていたのですが、ある日、友だちの家に遊びに行くと、その友だちのおかあさんが、
お前は履物ひとつ満足に履けなくてなんというざまだ。いいかい、お前もうちのプンスンと一緒にあのなんとかいうところに行くといいよ。そこに行けばなんでもあるらしいから。ご飯もおなか一杯食べられるし、お前の家族の面倒もみてくれるって話だよ。
と、いわれた。そこで、誘われて行ってみると、日本人の男の人が立っていた。
その人は私に服の包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。包みをそうっと開けてみると、本当に赤いワンピースと革靴が入っていました。それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで、即座について行くことにしました。
といっています。赤いワンピースと革靴を見せられて、誘拐されてしまう李容洙さんの心情はなんとも切なく、リアルだと思います。また、こういう形で、朝鮮人の若い少女を誘拐で連れて行くということが、1944年においても行われていたことが分かるのです。ほかの証言等々と照らし合わせても、これが事実ではないと反証するのは難しいのではないかと思います。
Ⅶ.責任問題と解決について。
最後に責任問題についてひと言ふれて終わりにしたいと思います。国家の責任というのがやはり非常に大きい。軍というのは国家の中枢ですので、軍の犯した責任は国家の責任であることは否定できないですね。
もう一つの問題は、慰安所に通った兵士の責任はどのように問われるのかということですが、性の商品化の中で、慰安所に通うことがごく当たり前の状況として受け入れられ、それに慣らされていく。それは、軍が普通の兵士を非常に惨めな状況に追い込んでいくことになったのではないか、と僕は思っています。
【資料11】をご覧いただきたいと思います。これは迫四会大隊史編纂委員会編『迫撃第四大隊史』(迫四会本部事務局・1,985年)という兵士たちの日記を収録した貴重な記録の中に出てくる、ある一人の兵士の日記を分析した、僕の文章です。Bというのは『迫撃第四大隊史』では実名で書いてありますが、本人の名誉を考えて、記号にしてあります。Bさんの日記を見ると、中国の揚州に軍慰安所が開設されるのが1938年2月ですが、中隊に事故が多いため、酒・賭博が禁止され、徴発品が回収されるという状況が生まれています。
三月五日には、〔上官〕の曹長から枕絵(春画)はないかと質問され、〔このBさんは〕憤慨している。二一日には、外出にあたって准尉から、「淫売」を買うな、大酒を飲むな、服装を正しく、徴発物品を売買するな、という注意を受けている。このような禁止と注意を繰返さなければならないほど乱れた情況の中で、彼は欲望を煽られ、軍慰安所通いを続け、班内では「妣(ピー)〔ここでは「慰安婦」のこと〕の話などをして夜を更かす」ようになり、そのような自分を「愚かな愚かな私」と自嘲するようになる。
このように、日本軍は、軍慰安所をつくり、兵士の性欲を肥大化させることによって、兵士たちを惨めな情況に追い込んでいったのである。
と、いうのが僕のひとつの結論というか、気づいたことです。
*
最後に、問題を解決するためにどうしたらいいのかということですが、2007年12月13日に出された欧州議会の決議が、非常によく出来ているのではないでしょうか。欧州議会は次の①から⑤のような趣旨の勧告を日本政府に対して行っています。
① あいまいさのない明確な認知と謝罪を行うこと
河野談話は、日本軍の責任をほぼ認めていると思います。問題があるとすれば、このような問題を起こした主役が誰だったのかということをあいまいにしている点でしょう。業者に責任があるのか、軍に責任があるのか、主役はどっちだったのかということは、現在の史料状況ではもはや明白だと思うのですが、「あいまいさのない明確な認知」という点では、はっきりさせることが必要だと思います。
それから、さきほど引用しましたように、河野談話で「慰安所における生活は、強制的な状況のもとでの痛ましいものであった」とされています。これでほぼ十分だといえるかも知れませんが、性奴隷制度であったということに踏み込むべきではないかと思います。
つづいて、欧州議会の決議は
② 補償を行うための効果的な行政機構を整備すること
③ 裁判所が賠償命令を下すための障害を除去する法的措置を講ずること
を要請しています。それから、4番目も非常に大事だと思うんですが、次のことが必要だといっています。
④ 事実を歪曲する言動に対して公式に否定すること
河野談話で認めたことに反するような、否定的な発言があちこちで出ているわけです。橋下さんもそれをいっているわけですが、そのような発言に対して日本政府は「それは事実と違う」と公的に否定しなければ、きちんと責任を認めたということにならないのではないか。残念ながら日本政府は一度もそういう否定的な発言を、公式に否定するということはやっていない。
それから、5番目の
⑤ 史実を日本の現在と未来の世代に教育すること
という欧州議会の勧告は重要ですが、実は河野談話はこれとほぼ同様の事柄を認め、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と、対内的にも、対外的にも約束しているわけですね。これは非常に重要なことですが、実際には守られていない。逆に、中学校の歴史教科書から「慰安婦」の記述が全部なくなってしまうという、河野談話が約束していることとは反対のことが進行しているわけです。
問題を解決するということは、勧告に書かれているようなことが、きちんと実現しているような状態になることでしょう。その目標からいくと、まだ遠い状況にあるといわざるをえないのですが、そういう状況は、事実を解明し、訴えていけば、いつか変わっていくのではないか。日本が、東アジア世界で生きていくためには、そういう認識が変わらなければやっていけないと思います。今は非常に悲観的な状況ですけれども、将来的にはそれが克服されていくようになるべきだし、そうならなければ、日本の未来はないと思います。
ご清聴ありがとうございました。
「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実 | |
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大月書店 |
標記の講演録が「慰安婦問題関西ネットワーク」HPに掲載されています。非常に長文ではありますが、慰安婦問題に関する重要な資料だと思いますので、このブログにも後学の為に転載させて貰います。以下、2012年10月23日に大阪で行われた吉見義明・中大教授による講演録からの抜粋です。長文なので二部構成の記事にしましたが、それでも各々一万字以上もの分量になりますので、講演録本文のみの転載に止め添付資料や参考文献については割愛させて貰います。それらはリンク先の原文で参照して下さい。(以下転載)
緊急講演会
橋下市長に反論! 吉見義明さん語る~「強制連行」はあった 日本軍「慰安婦」問題の本質は強制連行と強制使役
はじめに
中央大学の吉見です。今日は集会にお集まりいただきまして、ありがとうございます。
午前中に橋下市長宛に抗議の申し入れをしました。明白な事実誤認であって、私の人格を否定し、名誉を毀損するものですから、この発言を撤回し、謝罪することを要求しますという内容です。(参考注:吉見教授の抗議の発端となった橋下の記者会見動画)
今日、これを申し入れまして、橋下さんの方からどういう反応があるのか、あるいはないのかということを見つめていきたいと思いますが、撤回されるまで僕は追及し続けるつもりでおります。(拍手)
今日は、強制連行があったかどうかというよりも、強制連行と強制使役、両方が日本軍「慰安婦」問題の本質ですので、それをお話ししてみたいと思っています。
橋下さんの発言の内容を見てみますと、四つぐらいで構成されているように思います。
ひとつは強制を、①軍・官憲による、②暴行・脅迫を用いた連行があったかどうかと、非常に狭く限定しているわけですね。①②の二つが重なっていないと強制連行ではないということですが、非常におかしな議論ですね。橋下さんはご自分の会見で、鳥のように視野を広くして見なければいけないといっておられますが、最初から小さく見ていると思います。その記者会見の映像を見ていますと、繰り返し同じ言葉が出ますね。「証拠がなかった」「証拠がなかった」「証拠がなかった」と、もうひとつは、官憲による暴行・脅迫を用いた連行があったかどうかという言葉が何度も出てきています。同じ言葉の繰り返しであるという点が大きな特徴だと思います。
それから2番目に、軍慰安所の経営での軍の責任を否定しようとする。公安委員会が風俗営業を管理するのと同様の構造だという。どう見てもこれは成り立たないですね。軍が主役であるということは、公文書でだけでも、もう十分に立証できるようになってきているのです。これは後で述べます。
3番目ですが、強制の定義自体を極小化しようとするわけですね。1993年の河野洋平内閣官房長官談話では、本人の意思に反して行われたことを強制だといっている。それから、後でも触れますが、北朝鮮による、いわゆる拉致問題の時に、警察庁の強制の定義も、本人の意思に反して行われたものが強制だといっているわけですね。橋下さんは北朝鮮による騙しや甘言による誘拐は強制ではないといわれるのでしょうか。河野談話の定義は、広すぎるのではなく、ごく当たり前のことではないでしょうか。それを否定しようとしているのはあまりに無理があると思います。
それから4番目に、証拠がなかったといっていますけれども、それはどうも、日本の公文書に書いてあるかどうかということを問題にしているようにも受け取れます。証拠は、被害者の証言、加害者側の証言・記録、それから内外の公文書と、それらを通して問題にしなければいけないわけですが、証拠を日本の公文書に限定しようとしているような気がします。問題を起こしたのは日本軍ですので、「強制せよ」とか、「強制した」と、公文書に書かれるという可能性はそもそもないわけです。強盗犯を捕まえて、強盗自身が、自分が強盗をやったと書いてないので無罪だと判定するのはいかにも乱暴な議論ですが、それに類したような議論になっているのではないでしょうか。
Ⅰ.軍・官憲による暴行・脅迫を用いた連行は数多くあった。
証拠がないとおっしゃっていますので、順番に証拠を並べてみたいと思うんですが、まず、軍・官憲による、暴行・脅迫を用いた連行があったかどうか。暴行・脅迫を用いた連行は刑法では「略取」といいますが、軍・官憲による略取があったかどうか。中国・東南アジアでは、数多く確認されています。
たとえば、インドネシアでは、スマラン慰安所事件というのが起きました。これは現地の日本軍部隊がインドネシアのスマランというところで、抑留所に収容されているオランダ人女性たちを無理矢理連行して来て、軍慰安所に入れて使役したというものです。すくなくとも24名の少女を連行して使役をしています。これは河野談話が発表される前年の1992年に、『朝日新聞』が大きく報道しています(7月21日夕刊・8月30日)。ですから、河野談話は、こういう事件があったということを前提にして書かれていると僕は思うんですが、そのことが無視されているということになります。
2008年に梶村太一郎さんたちが『「慰安婦」強制連行』という本を出されました(株式会社金曜日)。この中にスマラン事件とともに、マゲラン事件、スマラン・フロレス島事件を含めて、被害者の供述が翻訳されています。有力な証拠になると思うんですが、そういうものがあるということです。
次に、1994年にオランダ政府は、日本軍「慰安婦」問題でのオランダ人の被害をまとめた報告書を出しています。これは翻訳されて、日本の戦争責任資料センターが出している『戦争責任研究』(4号・1994年6月)に載っているんですが、梶村さんたちの本にも翻訳されて載っています。これを見ますと、実に様々な事柄が書かれているのですが、これもオランダ政府の公文書です。そのもとになっているのは、オランダ政府が持っている文書で、それをもとにして述べているわけです。その中の7件については、僕の『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(岩波ブックレット・2010年)の中に要約して書いていますので、それをご覧になっていただければわかります。さらに詳細は、梶村さんたちの本に全文が翻訳されていますので、ぜひ皆さんに読んでいただければと思います。
その一端をちょっと紹介してみますと、スマラン慰安所事件の他に、マゲラン事件というのがあります。これは1944年1月に抑留所に入れられているオランダ人女性たちを日本軍と警察が選別をして、反対する抑留所住民の反対を抑圧して連行したというものです。その一部は送り帰されて、代わりに「志願者」が送られていますけれども、帰されなかった残りの13名はマゲランに連行されて、売春を強制されたと書かれています。これがマゲラン事件です。
それから2番目のスマラン・フロレス島事件というのは、1944年4月に、抑留所に入れられているのではない女性たち、町にいる女性たちを憲兵と警察が数百人検束して、慰安所で選定を行って、20名の女性をスラバヤに移送したというケースです。そのうち17名がフロレス島の軍慰安所に移送されて売春を強制されたと記されています。
スマラン・フロレス島事件の供述調書は梶村さんたちの本に載っていますけれども、それを見てみますと、たとえばこんなケースがあります。フロレス島に送られたある女性は、慰安所で午前中、兵隊だけ20人、午後は下級将校2人、それから夜は将校1人を相手にしなければならないというのがノルマでした、といっています。夜の1人の客が短時間で帰った場合には別の客の相手をさせられたともいっています。
それから別の女性は、毎週少なくとも100枚の切符を渡さないと殴られた。100枚というのは軍人がやってきて、一人ひとりが1枚づつ切符をその女性に渡すわけですね。1週間に100枚というのがノルマになっている。それを達成しないと殴られたと書かれていますので、フロレス島の慰安所に入れられた女性たちがいかにひどい目に遭ったかということがわかります。
そのほか、シトボンド、ボンドウオソ、マランで、ソロとパダンというところは未遂だったようですが、同様のケースが起こっているのです。
オランダ政府の報告書は、自分のところで持っている資料に基づいて、主としてオランダ人、白人の被害者を中心に記述をしているんですが、軍・官憲による略取だけでも、これだけのものがあります。インドネシア人女性の被害についてはあまり注意が払われていないんですが、その数はもっと大きなものになると思われます。
次に中国ですけれども、中国の山西省のケースでは3件が被害者により提訴され、裁判になりました。それから海南島のケースも裁判になっております。裁判の結果、被害者の請求は棄却されましたけれども、日本の裁判所はいずれも事実認定をしています。その事実認定はこの4件すべて、女性たちが軍によって暴力的に連行されて、強制的に使役されたということを認定しています(坪川宏子・大森典子『司法が認定した日本軍「慰安婦」』かもがわブックレット・2011年)。裁判の判決は証拠ではないんでしょうか。
山西省のケースでは、石田米子さんと内田知行さんが『黄土の村の性暴力』(創土社・2004年)という本を刊行しておられます。これは実際に山西省の村に入って、被害者の女性、それから、その村に住んでいる被害者ではない村人の証言を詳細にとって、記録したものです。
これが事実ではないと反証するのは無理だと思うんです。軍・官憲による略取、暴行・脅迫を用いた連行と使役があったということは否定できない段階に来ていると思います。
次に、フィリピンでのケースは、裁判所は事実認定をしませんでしたけれども、実際に訴えた女性たちのほとんどは、軍によって暴力的に連行されて監禁・レイプされたというケースですね。藤目ゆきさんが、フィリピンで最初に名乗り出られたマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんの聞き書きを行っていますが、ヘンソンさんのケースもそうです(『ある日本軍慰安婦の回想』岩波書店・1995年)。彼女は日本軍に対抗するゲリラに協力をしていたわけですけれども、軍に捕まって連行され、監禁されレイプされるというケースです。フィリピンでも数多くあった、いうことになります。
インドネシアでも同様のケースが色々と起こっています。これは女性たちの証言だけではなくて、軍人側の証言もいくつか出ています。代表的なものを【資料1】として引用しておきましたので、見ていただきたいと思います。僕の『従軍慰安婦』(岩波新書)の中にもこの資料は引用していますが、アンボン島にいた、海軍の主計将校だった坂部康正さんという元将校の人が回想記の中でいっていることです。1945年3月以降に起こった出来事です。
M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け、約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に原住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
坂部さんは「慰安婦狩り」が行われたといっておられます。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと、強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。
これは海軍将校の側から、橋下さんが「ない」といった、軍・官憲による略取が「あった」と明白に述べているわけですね。
このような回想はいくつか確認されています。日本の戦争責任資料センターでは国会図書館に所蔵されている部隊史や戦争体験記をチェックして、そのようなケースがあったという証言をいくつか見つけ出しております。略取以外のケースを含め、代表的なものを『戦争責任研究』の中に載せていますので、ご覧ください(5号・66号・67号・68号・70号・77号)。
もうひとつは、暴行・脅迫を用いた連行ではなくて、だまして連れて行く、あるいは楽な仕事だといって、甘言を用いて連れていくケースを、法律用語で誘拐というんですけれども、軍・官憲による誘拐が行われたということを示す資料もいくつかあります。
非常に有名なものは、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決に書かれています。中国の桂林で、軍は女性たちを工場で働くとだまして連れて行き、兵隊の性の相手を強要した、次のように認定しています。
桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。(『極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店・1968年)
インドネシアでは、元軍人や軍属などがそのような場面に直面したということを記している記録を資料センターは見つけているんですが、ひとつだけ紹介してみたいと思います。
インドネシアのパレンバンという石油がとれるところがあって、そこに三菱石油の社員が派遣されていたのですが、1945年にバンカ島という島から若い女性たちを、誘拐と人身売買が絡んだ方法で、軍が連行したということを、この社員は回想しています。「軍では、昨年〔1944年〕あたりから慰安婦の数に不足をきたしてきた。日本から女性を連れてくるには船便が少なくなったので、現地で調達するようになった。軍はその事を当然のことと考えていたようだが、彼女達こそ、戦争がもたらした不幸な犠牲者であった。……女性を徴発する時は、米や金品を親達に与え、別の目的であるかのごとく偽って連れてきて、売春の用に供したものであった」と、この三菱石油の社員はいっています(田尻啓『石油に散った火焔樹の花――ある陸軍徴員の従軍記』菁柿堂・1993年)。
この人は、慰安所が出来たというので見に行くのですが、その時のことをこう記しています。「初めのうちは物珍しさと好奇心で眺めていた田中も〔自分のことを田中というふうに回想しているんですが〕、バンカ島から連れて来られた殆どの女達が二十歳になるかならないかの生娘達であることに驚いた。彼女達が遣手婆さんにおどかされて、無理やり客を取らされ泣き叫ぶ有様は、まさに地獄絵に等しく、その日は、恐ろしく逃帰った」と。自分も遊びに行こうと思ったんだけれども、あまりのすさまじさに怖くなって逃げ帰ったという回想を残しているんです。
以上を見ていきますと、橋下さんが「証拠がない」といった軍・官憲による暴行・脅迫を用いた連行は数多くあったと確認される段階に来ているということです。それは今確認されるというだけではなくて、「河野談話」が発表される前からすでに明らかになっているものもあるわけですね。オランダ政府報告書のもとになっているのは、オランダが行ったBC級戦犯裁判ですけれども、これは戦後すぐに行われている。それから東京裁判の判決は、軍による誘拐ですが、1948年に出された。そして、日本政府はサンフランシスコ平和条約で東京裁判とBC級戦犯裁判の判決を受諾しているわけですから、これは否定できない。そういうことを考えれば、河野談話の段階ですでに十分そういうものがあったということはいえたということになります。現在になりますと、ますますそうだということになる。
Ⅱ.朝鮮・台湾では、軍または総督府が業者を選定し、業者が誘拐や人身売買などにより連行した。これも強制連行。
次に、朝鮮・台湾ではどうだったのか、みてみましょう。朝鮮・台湾では、軍または総督府が業者を選定して、業者が誘拐や人身売買によって連行するということが普通に行われていた。これも強制連行になります。なぜ強制といえるのかということですが、戦前の日本・朝鮮・台湾に施行されていた刑法第226条が非常に重要になります。刑法第226条には略取・誘拐・人身売買は犯罪だと書かれている。法律用語でわかりにくいですが、こう書かれています(【資料2】参照)。
帝国外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐したる者は二年以上の有期懲役に処す
日本・朝鮮・台湾から海外に人を移送する目的で、略取または誘拐した場合は2年以上の懲役に処するということです。略取というのは暴行または脅迫を用いて連れて行くことですね。誘拐というのはだまして、または甘言により連れて行くことです。たとえば看護婦さんのような仕事だとか、レストランのようなところで働くとかいうのはだましですし、非常に楽な仕事だということは甘言で、どちらも誘拐罪になります。
226条はあとふたつの罪を規定しています。次の段落です。
帝国外に移送する目的を以て人を売買し、又は被拐取者もしくは被買者を帝国外に移送したる者亦同じ
人身売買により海外に連れて行くことも犯罪である。それから、略取または誘拐または人身売買された者を「帝国外」に移送した者も2年以上の有期懲役に処すると書かれています。人身売買罪も規定されているということですね。
戦前の日本でも、戦後の日本においても、2005年までは人身売買は犯罪ではなかった。ただし、海外に連れて行く場合は、人身売買は犯罪だったのです。アメリカ国務省から日本は人身売買に非常に寛容な国だという報告書が出されて、慌てて刑法を改正したのが2005年になります。それまでは人身売買罪というのは国内についてはなく、人身売買に非常に甘い国であったわけですけれども、それでも海外(「帝国外」)に連れて行く場合は犯罪だとされていたのです。「慰安婦」にされた女性たちはほとんど海外に連れて行かれたので、ほとんどのケースがこれに該当するわけですね。したがって、橋下さんが問題にする略取だけでなく、誘拐・人身売買も強制連行、あるいは犯罪であるとはっきりいうべきでしょう。
次に、民法および国際法の問題がありますが、国際法違反については、僕の『従軍慰安婦』に書いているので省略し、民法だけ申し上げます。
戦前の日本においても、売春によって借金を返させるという契約は民法第90条がいう公序良俗に違反するとされていました。日本の公娼制度のもとでは、女性たちはほとんど人身売買により遊郭に拘束されていた。本当はそれは違法であったのですが、さまざまな抜け道があって、まかり通っていた。しかし、売春によって借金を返させるということは民法90条違反だったということは確認しておきたいと思います。
朝鮮・台湾で女性たちを集めるときに、日本軍はどうしたかというと、軍・官憲が直接徴募するのではなくて、業者に行わせた。業者は誘拐とか人身売買を日常的に行っている、女衒といわれる人たちです。そういう人たちに任せると、略取・誘拐とか人身売買になることはわかっていたはずなんですが、軍の強い要請があるから警察は大目に見ていたと解釈せざるをえないわけです。
どういう証拠があるのかということですが、被害者の証言以外のものを三つあげてみましょう。【資料3】はアメリカ軍の公文書です。これはアメリカ戦時情報局心理作戦班がつくった有名なものです。「日本人捕虜尋問報告」第49号で1944年10月1日に作られたものです。ビルマでアメリカ軍が20人の朝鮮人「慰安婦」を保護し、日本人業者2人を―これは夫婦ですが―捕獲します。この20人の朝鮮人「慰安婦」と業者からのヒアリングをまとめたものがこの資料です。
一九四二年五月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的にいえば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。
と書かれています。だまして連れて行くので、誘拐罪に該当します。次に、
これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地―シンガポール―における新生活という将来性であった。
と書かれていますが、これは甘言にあたりますので、これも誘拐罪を構成します。次に
このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。
と書かれています。前渡し金を渡して女性たちを拘束して連れて行くので、人身売買でもあったということになります。米軍の資料によってもそのことが確認されるということですね。
次に【資料4】を見てください。これは長沢健一さんという元軍医大尉が書いた『漢口慰安所』という有名な本です。今でも古本屋で簡単に見つけられるものです。長沢健一軍医は、女性が誘拐・人身売買されたと分かっていても軍は業者を逮捕せず、女性を解放しなかったという事実を自ら語っています。長いので全部読みませんが、日本から売春の前歴のない若い女性が漢口の慰安所に連れてこられる。彼女は次のように泣きながら抗議していた。
私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く。
慰安所で働くということは聞いているけれど、慰安所とは何かは聞かされていない。だまされて連れてこられたので、誘拐された女性ということになります。それから、あとのほうでは重い借金を負っていると書かれているので、人身売買でもあります。しかし、この女性が日本から誘拐され、人身売買により連れて来られているにも関わらず、軍はこの女性を解放せずにそのまま慰安所に入れるわけです。連れてきた業者はもちろん逮捕されていない。これは、こういうことが一般的に行われていた、ということを示すものではないでしょうか。
刑法第226条の規定が全く無視されている。別のいい方をすると、それを無視することによって慰安所というものが成り立っていた、ということになるのではないでしょうか。
もうひとつ、【資料5】を見てください。これは朝鮮人女性が誘拐されてビルマのラングーンの慰安所に連れてこられたという記録です。小俣行男さんという読売新聞記者、従軍記者が戦後に回想して本に書いたものです。
ラングーンに朝鮮から4、50名の女性が上陸した。慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、というので大喜びで慰安所に行った。ところが実際に小俣さんの相手になった女性は23、4才の女性で、「公学校」で〔正確には一九四一年以降は初等学校は朝鮮でも国民学校とよばれていた〕先生をしていたという。学校の先生がどうしてこんなところに来たのかと聞くと、彼女はだまされて連れてこられたと語っている。その女性の話によると16、7の娘が8名いる、この商売が嫌だと泣いている、助かる方法はありませんかとこの読売新聞記者に相談する。何か助ける方法があるだろうかと考えた末に、これは憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい、これらの少女たちが駆け込めば何か対策を講じてくれるかもしれない、あるいはその反対に処罰されるかもしれない。しかし、今のビルマでは他に方法はあるだろうか、と。この少女たちは憲兵隊に逃げ込んで救いを求め、憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って結局8名の少女が将校クラブに勤務することになった。その後少女たちがどうなったのか。将校クラブが何なのか、怪しい気がしますが、結局この少女たちは朝鮮に送り帰されていない。
じゃあ、国民学校の元先生はどうなったのか。そのまま慰安所に入れられている。解放されていない。連れて行った業者も逮捕されていない。こういう状況がまかり通っていた。それを「強制ではない」といえるのでしょうか。
(→第2部に続く)