アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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マッチョより自由、島耕作よりチェ・ゲバラ

2018年02月08日 23時06分02秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
 
ダブルワークの疲れを癒すべく、有休取って一泊二日の予定で四国・松山に行って来た。久しぶりの旅行だ。スターバックス店内の「坊ちゃん列車ミュージアム」に置かれた1号機関車の前で飲むコーヒーの味は格別。このミュージアムにはスタバの客以外も無料で入れる。もう夕方なので道後温泉に直行する事にする。松山城、子規記念館、JR下灘駅等は全て翌日に回す。内子・大洲方面はかなりの積雪らしいので今回は来訪を見送る。
 
 
道後温泉駅
 
道後温泉本館
 
(注)道後温泉駅や本館の写真は、夜に撮影したので暗くて見にくい物になってしまいました。申し訳ありません。
 
 
本館の休憩室(神の湯二階席)
 
 
湯上り後に二階席で出されたお茶菓子 

本日は道後温泉本館で打止め。ここは早い話が重要文化財の公衆浴場。1階の銭湯だけなら入浴料の410円だけで済む。それが2・3階の休憩室も利用すると貸浴衣代や茶菓子代が別にかかり、料金も840円、1250円…と跳ね上がる。休憩できるのは1時間以内でエアコンもない。但し、上級ランクになると休憩時間は1時間半に延びる。温まるだけなら銭湯だけで充分。しかし、それでは3階の「坊ちゃんの間」は見学できない。
 
  

「坊ちゃんの間」は夏目漱石と正岡子規が知人の誕生祝を催した場所らしい。床の間に漱石の胸像と「則天去私」の銘文が置かれていた。「則天去私」とは、私欲を捨てて自然に生きるという意味で、正に私の理想とする生き方。種田山頭火やキューバのチェ・ゲバラにも通じる処世訓。
 
  

翌朝、JR松山駅前で高速バス時刻表を入手。列車と比較したらバスの方が1時間半ほど遅いだけで3100円も安かった。列車では瀬戸大橋線経由で3時間51分の10410円。しかし同じJRでも高速バスだと神戸淡路鳴門道経由で5時間21分の6900円。早割で予約すれば何と5000円に。帰りは列車からバスに変更する。
 
  

遂にJR下灘駅にやって来た。海を前にした絶景ポイントで最近人気の秘境駅だ。駅の前の大海原を漁に出る漁船が次々と横切って行く。駅には「らぶらぶベンチ」。その一方で、写真の外のホーム下の道路を自家用車やトラックが行き交い、鉄道は2時間おきにしか来ない現実も。わざわざ早朝に来たのも、とんぼ返りに松山に戻らなければ後の予定が立たないからだ。(下記注参照)
 
下灘駅の「らぶらぶベンチ」 
 
(注)下灘駅時刻表(平日) 列車種別は全て普通列車。
下り(宇和島方面) 07:02 07:53 10:43 12:29 13:44 15:21 16:35 18:04 18:37 19:49 21:56
上り(高松方面)  05:57 06:48 07:35 08:56 10:30 13:00 15:08 16:20 17:51 19:33 21:10
松山から来て、とんぼ返りに(比較的短時間で)松山まで戻れるのは、07:02➔07:35と12:29➔13:00の2本しかない。  

以前は幹線ルートだった伊予灘線(予讃線の海沿いルート)も、内子回り(山間短絡ルート)の新線開通後は完全なローカル線に。以前はホーム下は海だけだった海岸も、今や車がビュンビュン行き交う道路に。駅前には寂れた集落。叩かれるのを覚悟で敢えて書くが、こういう現実を無視して、絶景や「らぶらぶベンチ」ばかり強調するのもどうかと思う。
 
 

松山観光の最後に「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。展示内容は、早い話が明治の近代化に尽力した軍人兄弟(秋山好古・真之(さねゆき))や歌人(正岡子規)の伝記物語。「当時の帝国主義政策には異論もあろうが、そこに理想の近代国家を見出し青春を賭けた人がいた。その人達の犠牲の上に今の日本の平和がある」と。まるで安倍晋三が大喜びしそうな歴史観。
 
 

しかし、敢えてキツイ言い方をすれば、秋山兄弟も正岡子規も所詮は元士族。今風に言えば、没落しつつあったが、それでもまだ中産階級。頑張ればギリギリ這い上がれる位置にいた。どう頑張っても這い上がれなかった貧農や労働者ではない。それに、当時は明治政府の基盤もまだ固まっていなかった。下克上の余地もまだまだあった。

上からの締め付けも後世ほどキツくはなく、比較的自由に振る舞えた。だから軍制改革や短歌の革新にも辣腕を奮えたのだ。彼らの一代記は、いわばブラック企業におけるワンマン創業者の伝記のようなもの。幾らブラック企業のワンマン創業者でも、創業者なりに苦労や美談はある。その頑張りには学ぶべき点もあるだろう。

 

でも、それも所詮は「ブラック企業の頑張り」でしかない。だから時代が下るにつれて当初は少しあった人間的な要素も徐々に無くなり、次第に冷酷無比な体制に変質していったのだ。日露戦争での捕虜に対する人道的処遇も、単に「名誉白人」として外国から先進国扱いして貰いたかっただけ。トルコ軍艦エルトゥール号遭難救助の美談も、トルコが当時、日露戦争の同盟国だったから。どちらも損得勘定だけで人権尊重とは無縁の産物。そんな物が関東大震災での朝鮮人虐殺や南京大虐殺の反証になる訳がない。

「おもてなし」の国で、礼儀正しい筈の国民が、なぜ在日コリアンや沖縄県民、社会的弱者に対して、ここまで冷淡になれるのか?「助け合いが大切だ」なんて言いながら、なぜ「貧乏は怠け者の自己責任」と切り捨てられるのか?礼節も道徳も、人権意識から出た物ではなく、単に体面取り繕っているだけだからだ。

少し批判が過ぎたかも知れないが、私はこの小説余り好きではない。それはマッチョな軍人小説であるだけではない。島耕作ばりのマッチョな出世物語でもあるからだ。この小説を読んでると、まるで「軍人・博士・大臣以外は人でなし」みたいに言われている様で、はっきり言って感じ悪い。

元公務員のウチの毒親が教師をやたら美化し、「年相応」という言い方で非正規労働者や独身者を心の中で見下す中にも、この小説の「末は博士か大臣か」称賛による悪影響が観て取れる。作家の司馬遼太郎が、この小説を戦争美化に利用されるのを嫌った事も知っているが、その種をまいたのは司馬自身だ。

 

それならまだ夏目漱石の「坊ちゃん」の方がまだマシだ。私はこの「坊ちゃん」に対しても、以前は余り良い感じを持っていなかった。女工哀史の搾取の上に胡座をかいた高等遊民の私小説みたいに感じていたからだ。でも「則天去私」の銘文を観て考えを改めた。地方の教師生活を描いた小説「坊ちゃん」こそ、明治のブログ「職場人権レポート」そのものではないかw。

司馬遼太郎も夏目漱石も、松山を代表する作家に違いはない。しかし、松山市民も前者より後者により親近感を抱いている様に思う。秋山兄弟や正岡子規が「坂の上の雲ミュージアム」から一歩も外に出ないのに対し、夏目漱石の「坊ちゃん」が市電や道後温泉観光の目玉になっているのが、その何よりの証拠だ。

 

旅先を四国の松山にしたのも、単に有休消化の為だけに取った休みで、冬なので暖かく鉄道趣味も満たせ、気軽に来れる大都会だったからだ。そんな軽めの旅行だったが、最後に少し重たい話題になってしまった。後はもう軽く食べ物(じゃこ天そば、タルト)と電車(今や郊外電車と路面電車の軌道平面交差が観られる全国唯一の地となった大手町の踏切)の写真で締めくくる事にする。

最後にひとつ言い忘れてた。私もここに来るまではJR松山駅が街の中心だと思っていた。しかし、どうやらJR松山駅よりも「いよてつ高島屋」のある松山市駅や、銀天街という繁華街のある大街道(おおかいどう)の方が街の中心らしい。松山に最初に鉄道が敷かれたのも、今の高浜・三津や大街道から道後温泉に至るルートだった。本州から瀬戸内航路で高浜や三津の港に上がり、軽便鉄道で松山の中心部に入るルートこそが、当時のメインルートだったのだ。今のJR駅は当時はまだ影も形もない。旧国鉄が松山まで開通したのは昭和に入ってからだ。

(注)今後は、ダブルワークの下でもブログ更新を継続できるように、ツイッターの「つぶやき」を手直ししたものを繋げる形で記事を書いていこうと思います。ツイッターは投稿字数に制限があるので、記事の文体も従来の「です・ます」調から、より字数の少ない「だ・である」調に変えざるを得ません。この文体の変化が、読む人によっては高圧的で偉そうに感じられるかも知れませんが、以上の事情がある事もお含み頂き、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

コメント (5)
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