アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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すぐ近くにこんな桜の名所があったなんて

2018年03月28日 22時47分42秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ

 

 ついこの間まで寒かったのが嘘のようです。この一週間ですっかり春めいて来て、遂に大阪でも桜が咲き始めました。まだ満開までは間があるものの、今でも充分お花見が楽しめます。私も近くの天王寺にお花見に行ってきました。

 まず行ったのは天王寺動物園前の芝生広場、通称「てんしば」です。桜はまだ三分咲きの状態でしたが、芝生の上は既に多くの若者や家族連れで賑わっていました。あべのハルカスの高層ビルを眺めながらの桜見物も、また良いものです。

 

 ちょうどお昼になったので、近くのデパ地下で買った富山の鯖寿司で昼食にしました。その上、芝生の物産展売り場で売っていた紀州勝浦産マグロのメンチカツもおいしそうだったので、これも食べる事にしました。もう満腹です。

 しがないプレカリアート(非正規のプロレタリアート=労働者階級)にとっては、野菜や果物だけでなく魚介類を取るのも一苦労なのです。それは実際にコンビニ弁当やホカホカ弁当のメニューを観れば分かります。その大半が、肉類や揚げ物ばかりのメニューでしょう。近くの格安レストランで、ようやく野菜も毎日食べられるようになったものの、魚類やヨーグルトはまだまだ不足しがちでした。これで少しは動脈硬化を防ぐDHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)などの不飽和脂肪酸が取れたのではないでしょうか?w

 

 ご飯も食べて、さて帰ろうと新世界方面に向かう坂道を下っていると、「右に行けば茶臼山」の道標が。天王寺には今まで何度も来た事がありますが、茶臼山なんて行った事が無かったので、一度行ってみる事にしました。来て正解でした。桜もこちらの方がずっと咲き誇ってて、もう満開に近い状態でした。

 天王寺公園の横にある標高26メートルの茶臼山は、今まで前方後円墳だと言われていましたが、最近はそれに異を唱える説も出て来ています。但し、古墳であっても誰の墓なのかは今もって分からないそうです。

 茶臼山の周囲に広がる河底池も、私はてっきり古墳を囲む堀だと思っていましたが、全然違いました。大阪市内も、大昔は上町台地以外は全て低湿地帯でした。大和川も、今の堺方面ではなく北に向かって流れ、大阪城付近で旧淀川(今の大川)に合流していました。その中で、奈良時代に和気清麻呂が、治水工事に着手したものの、工事は失敗に終わり、中途半端に残された窪地に水が溜まったのが、河底池になったと言われています。池にかかる赤い橋の名前を和気橋というのも、きっとその名残なのでしょう。赤い橋と噴水、桜が、見事に周囲の景色に溶け込んでいました。

 

 和気橋から望む河底池の桜と通天閣の組み合わせも見事でした。橋を渡って茶臼山を上ると、山頂には真田幸村の伝説を伝える幟(のぼり)や銘板が立てられていました。

 実は大阪市内には、この茶臼山を始め、名前の付いた山だけでも8つもあります。決して、ただのだだっ広い、まっ平なだけの土地ではないのです。そのほとんどは上町台地上の低山や古墳ですが、中には中世以降の土木工事によって出来た山もあります。いずれも標高40メートル以下の低山ですが、中には「山岳救助隊」が組織されていたり、「登山証明書」がもらえる山もあるそうです(標高の低い順から、天保山、真田山、御勝山(おかちやま)、聖天山、帝塚山、茶臼山、昭和山、鶴見新山。詳しくは参考資料参照)。この茶臼山も、後述する一心寺の社務所で、一部100円で登山証明書を買う事が出来るそうです。

 

 ここ茶臼山は、戦国時代最後の激戦地になった古戦場でもあります。大坂冬の陣(1614年)に徳川家康の本陣が置かれたかと思えば、翌年の夏の陣では豊臣方の真田幸村の本陣が置かれたりするなど、ここを舞台に壮絶な戦いが繰り広げられました。

 その中で、豊臣方と徳川方に兄弟が分かれて戦ったのが、真田幸村などの真田一族でした。真田幸村は実は架空の人物で、モデルになったのは信繁(のぶしげ)という人物です。戦に勝った徳川家康に背いた賊将の名前をそのまま戦記物に取り上げる訳にはいかないので、誰かが幸村と言う架空の人物に仕立て上げたのです。

 真田幸村(信繁)は知将として、劣勢の中でも徳川勢を大いに苦しめました。台地の狭い谷間に徳川勢をおびき寄せ、谷の両側から挟み撃ちにする、一種のゲリラ戦法で徳川勢を総崩れに追い込み、一時は家康に敗北を覚悟させるほどでした。しかし、所詮は多勢に無勢で、最後には敵に討ち捉えられてしまいます。

 幸村の残した言葉の中に「恩義を忘れ私欲を貪(むさぼ)り人と呼べるか」という台詞(せりふ)があります。知将としての才能を見抜き、徳川勢への寝返りを勧める敵の使者に対して、言い放った言葉だそうです。これなぞ、森友・加計疑惑で、かつて熱烈な安倍信者だった籠池・森友学園前理事長をも平気で見捨て、国政私物化をほしいままにする安倍晋三にとっては、もっとも痛い台詞ではないでしょうか。

 その一方で、真田一族も兄弟が敵・味方に分かれて戦ったりしています。しかし、これも単なる損得勘定だけで動いたのではないと思います。常に一族や領民の繁栄を思えばこそ、どちらが勝っても行き延びる為の苦肉の策だったのではないでしょうか。これも、バカの一つ覚えみたいに対米一辺倒で、米朝急接近で梯子(はしご)を外されても何も言えない安倍とは大違いです。

 

 茶臼山を降りて、ふと横を見ると、横のお寺で何やら法要が行われているようです。参列者が大勢降りて来ます。私もつい、そちらに行ってみました。

 行ったら大勢の方がローソクを灯して線香を上げていました。そのお寺は一心寺という浄土宗の古くからあるお寺で、盆・正月以外にも、いつでも参拝して先祖供養する事の出来るお寺として、有名な所でした。だから、彼岸過ぎの今も参拝者が絶えないのでしょう。そこも桜が満開でした。

 そのお寺にも、真田幸村が大阪夏の陣で抜け穴に利用した井戸の跡などがありました。今はもう、その井戸も埋められ、史跡である事を示す標柱だけが残されています。

 

 一心寺の前の坂道も、逢坂(おうさか)という名前で、今の大阪の地名も、ここから来たと言われています。実際に、江戸時代以前には、地名も今の「大阪」ではなく「大坂」でしたから。その逢坂も含め、「天王寺七坂」というのがあり、坂巡りのスタンプラリーが行われたりもしています。坂の名前は、北から順に、真言坂、源聖寺(げんしょうじ)坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂です。清水坂(きよみずざか)にある清水寺(きよみずでら)の境内には、何と大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」まであります(参考資料)。

 一心寺境内の桜や、帰る途中で観た大阪市立美術館の前の桜も見事でした。それにしても、私の住んでいる新今宮界隈から歩いて行ける所に、こんな桜の名所があったとは思いもよりませんでした。この暖かさだと、もう次の休みには桜も散り始めるのではないかと思っていたので、ちょうど良かったです。

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もはや佐川も安倍も御用済み

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森友疑惑 官僚たちの「順法闘争」【山田厚史の闇と死角】180319

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