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空襲から市民の命を救った大阪の地下鉄

2021年06月20日 11時38分30秒 | 映画・文化批評

先日、本屋に立ち寄ったら一冊の本が目につきました。坂夏樹・著「命の救援電車-大阪大空襲の奇跡」(さくら舎)です。1945年3月14日未明の大阪大空襲で、深夜で動いていないはずの地下鉄がその日は動き、市民を安全な場所まで運んだ…という逸話について調べた本でした。私もそういう話がある事は知っていましたが、公式記録は一切残っていません。地下鉄自体は空襲の被害を免れたとしても、空襲であたり一面焼け野原となった大阪で、電車を動かす余裕なぞあろう訳がありません。私は今まで、これは単なる「都市伝説」だろうと思っていました。ところが、実際にその証言を集め、真偽を確かめた本が、こうして目の前にあります。思わず購入し、2日間で一気に読み終えました。

実際に、「3月14日の未明も地下鉄だけは動いていた。その為に、都心の心斎橋から梅田・天王寺方面に、電車に乗って避難できた」という証言が、数多く存在し、新聞やNHKの朝のドラマでも取り上げられて来ました。その一方で、そのような公式記録は一切存在せず、真相は闇の中でした。その中で、本書は数々の証言を繋ぎ合わせる事によって、救援電車の全体像を浮かび上がらせる事に成功しました。

大阪の地下鉄は、1933年に梅田・心斎橋間で開業したのが最初です。そして、大阪大空襲の頃までには、梅田から天王寺まで繋がっていました。当時、地下鉄が開通していたのは東京と大阪だけです。東京の地下鉄は民間の手によって開業し、既存の道路に沿って建設が進められました。その為にカーブが多く、トンネルも浅く掘られた為に、空襲では大きな被害が出ました。それに対し、大阪は、御堂筋の建設など、当時の都市計画に沿って、大阪市主導で建設が進められました。その為に、幹線道路沿いにまっすぐに伸び、トンネルも深く掘られたので、空襲下でも電車を動かす事は可能でした。

しかし、それでも疑問は残ります。①空襲があったのは前日の深夜から未明にかけてです。普段でも送電は止められている時間帯です。ましてや空襲の混乱の中で、どのようにして送電が行われたのでしょうか?②当時の地下鉄路線は、梅田・天王寺間と、途中の大国町から枝分かれして花園町まで一駅の区間しかありませんでした。いずれも都心部で、どこも空襲の被害を免れる事は出来なかったはずです。どこにそんな「安全な場所」なぞあったのでしょうか?③当時の国民は防空法という法律で、空襲下においても初期消火の義務が課されていました。空襲だからと言って、簡単に避難なぞ出来なかったはずです。

それに対し、本書では次のように答えています。①大阪市の幹部の中には、3月10日に東京、12日に名古屋が大空襲に見舞われた事から、次は14日に大阪が狙われると予想していた人もいました。その為に、当日は夜も地下鉄への送電を止めないよう極秘指令が出ていたのです(当時は電力供給も大阪市が担っており、自前の変電所も所有していました)。②大阪大空襲では、米軍は市内の東西南北4ヵ所に照準を定め、逃げ道をふさいで市内を絨毯(じゅうたん)爆撃する焦土作戦を展開しました。そうする事で、戦意喪失を狙ったのです。しかし、その中で、北区扇町付近に設定された照準点だけは、他の3ヵ所とは違い、延焼範囲は小幅に収まりました。多分、梅田のビル街で延焼が食い止められたのでしょう。その結果、梅田方面に逃げた人は助かったのです。

上記は「命の救援電車」に掲載された空襲当時の大阪市街図。◎印の4ヵ所の照準点のうち、北区扇町の照準点(図中の爆撃中心点4=赤枠で囲った部分)のみ延焼範囲が小さい事が分かる。

勿論、戦時下の事ですから、地下鉄もダイヤ通りの運行なぞ出来るはずありません。車両が故障しても直す部品がなく、整備不良のままで地下鉄を運行していたので、常に事故の危険とは隣り合わせです。動かせる車両も限られ、間引き運転が常態化していました。空襲警報が発令されれば、もうそこで運転は取りやめです。そうやって前夜に運転を打ち切り、途中駅に止まっていた車両や、送り列車(始発電車を運転する運転手と車掌を運ぶ回送列車)や始発電車などが、救援電車として走ったようです。

③避難民を地下鉄の駅に誘導したのは駅員だけではありません。警察官や憲兵の中にも、少なくない人たちが避難民を駅に誘導しています。初期消火もせず逃げ出した市民なぞ、彼らからすれば、取り締まるべき「非国民」に過ぎないはずなのに。ひょっとしたら、彼らも、焼夷弾の威力を目の当たりにして、初期消火の非を瞬時に悟ったのではないでしょうか?燃えるガソリンが空中で一杯炸裂してあたり一面に降り注ぐ。それが焼夷弾です。消防車ですら手も足も出ないのに、初期消火の「バケツリレー」なんかで、焼夷弾に対応できる訳がないでしょう。

戦時中はマスコミは完全に統制されていました。この3月14日未明の大阪大空襲すら、実際は米軍のB29が274機もの大編隊で大阪に襲い掛かり、市内を焦土と化した挙句に、ほとんど無傷で生還しているのに、大本営発表では「90機中11機撃墜、60機以上に損害を与えた」事になっています。大阪大空襲の日の朝も、空襲の被害に遭わなかった梅田駅では、普段と変わらぬ服装で乗車し、心斎橋駅から乗ってきた避難民と遭遇して、初めて大空襲があった事を知った人もいたようです。その日、救援電車が走った事も、公式記録からは抹殺されました。

当時、国民には「時局防空必携」という冊子が配られ、「焼夷弾なんて発火する前に庭につまみ出せば大丈夫」「それよりも延焼を防ぐために焼夷弾の落ちた周囲に水を撒け」という、もうトンデモとしか言いようのない指示が、政府や軍部から出されていました。その為に、東京大空襲では10万人もの都民が焼け死ぬ事になってしまったのです。大阪大空襲の死者も、公式には4千人とされていますが、実際には数万人に上るだろうと言われています。

上記は大前治・著「逃げるな、火を消せ! 戦時下『トンデモ防空法』」(合同出版)に掲載の当時の防災ポスター。「焼夷弾の火を消すよりも周囲の延焼を防げ」と、トンデモな解説をしている。焼夷弾の火がついた瞬間、周囲の全ての物が黒焦げとなるのに。

これは何も戦時中の大阪の地下鉄だけに限った話ではないでしょう。今も、多くのコロナ重症患者が、医療崩壊で病院に入院も出来ずに、自宅待機のうちに亡くなっています。マスコミで報じられる毎日の感染者数や陽性率も、PCR検査もろくに行われない中で、少なく見積もられた数に過ぎません。ワクチン接種も、諸外国と比べ、遅れに遅れまくっています。その中で、五輪だけは小学生も動員して歓迎行事が行われようとしています。この隠ぺい・ゴマカシ・弱者切り捨て体質こそ、戦時中の「大本営発表」「時局防空必携」と瓜二つではないか!

その戦時中のマスコミ統制の中においてすら、大阪大空襲の日時を正確に言い当て、防空法違反に問われるのも承知の上で、市民に避難を促した人たちがいました。「非国民」であるはずの防空法違反者を地下鉄に誘導して、市民の命を救った警察官や憲兵も少なからずいました。ところが、空襲の夜に救援電車が走った事は、もはや隠しようのない事実なのに、いまだに公式記録からは抹殺されたままです。抹殺の理由については、戦後の戦犯追及を逃れるためだと言われていますが、私はそれだけではなく、防空法違反に問われるのをおそれたからでもあると思います。今からでも遅くはないから、史実の掘り起こしと関係者の表彰を行うべきです。

マスコミも「大本営発表」ばかり垂れ流さず、もっと真実を報道すべきです。市民もいたずらに「大本営発表」だけに頼るのではなく、自分でも真相を知ろうと努力し、行動すべきです。自身と仲間の命を守り、日本の民主主義を守る為にも。

コメント (1)
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