(スレッドアップするのは忘れるといけないので、ほんのタイトルのみのアップです。
後日、実質的な事柄を述べたいと思っています。)
本旨を追記します。
私は緑があるから自然だとは思っていません。
木が在り草が在り沢山の生き物を育成するゆりかごになる事は確かですが、ただ、木が在り草が在る有機物の世界だからだと言って自然だとは思っていません。
私は動物が居るから自然だとも思っていません。
(東京都内、それも23区内でも狸もアライグマもハクビシンも生息しています。
夜行性なのでただ、見かけないだけです。
奥多摩に行けば、熊も鹿も生息しています。
東京の水源林を維持するために、水道局は鹿の増殖に頭を悩めています。
下草を食い荒らす事で、森林の生えている表土を雨水で下流に流すために倒木してしまします。)
私は人が関与しない屋久島や小笠原諸島や白神山地こそ自然だと思っているからです。
自然とは人工的な影響を最小限に抑える事だと思っています。
森林の下草刈したり植林したりする事は自然だとは考えていません。
例えば植林した杉林の下草刈りを行わないと木が大きく育たなくなってしまいます。
それは潜在自然植生を無視した、人が大きく育って欲しいと願う木々を神の意志の如く選別しているにすぎないのです。
言葉を換えれば経済価値があるものを選別ないしは育成しているのです。
でも、ここでもう一度立ち止まり考えてほしいのです。
白神山地や屋久島で下草がリを行って自然に人工的な手を加えて自然を守っていますか?
最大の違いは:白神山地などと下草刈を行う森林との違いは、自然と思っている杉林も檜林も 実際は畑 なんです。
杉を言う植物、檜と言う植物を収穫する畑に他ならないのです。
水田でお米を収穫するのと何ら変わらない経済活動なのです。
お米や木材を収穫する手段にしか過ぎないのです。
私が思うものの自然とは全く異なるのです。
何も人の手が加わらない事が、自然だと思うのです。
林立した杉林も、下草が育たずに表土が流失して杉林は倒れてしまします。
でも、それでいいのです。
長い長い時間はかかりますが、自然がそこに育つべく選んだ木々が長い時間をかけて成長させるのです。
中には成長競争で敗北したり長い寿命を耐え忍び最後を迎えるものもいるのです。
樹木ですから、それこそその周期は何十年何百年何千年のサイクルで変遷し代をつないでいくかもしれません。
生存競争や何かの原因、例えば日照や風雨や表土の流失や木々の病気は害虫などに依って大地にその身を横たえて虫やバクテリアや菌により土に還り次の世代の生息域を構成するのです。
それが自然だと思うのです。
人間が自然に手を加えるなど、神をも恐れぬ悪行だと思う私はおかしいのでしょうか。
ここで誤解してほしくないのは、山などで経済活動をしては行けないと言っているのではないのです。
杉を育て檜を育て、山の景観を守り、山に一度に大量の雨が降っても保水し、酸素を輩出してくれる木々を育てる事は大切な事なのです。
自然とは違う経済活動ですが、沢山の人が小さな地球と言う星に生息するためには大事なことであることに変わりはないのです。
このことを否定しているのではないのです。
自然とは何ぞやと言う事を述べているんです。
自然とは神の領域に手を加えるべきではないと言っているだけなのです。
これは、以前に野生動物との関りで述べて給餌問題と同じなのです。
足尾銅山での公害問題から短期間で自然を回復する時に大々的に人の手を加えました。
これらの事を否定しているのではないのです。
病気に罹り一時、回復の手助けをしたと言う事なのです。
その復旧も潜在自然植生に則って行っているのです。
人間が引き起こした、山火事ではなく落雷による山火事のお陰で長い長い時を経てタネが開く次の世代をつないでいく壮大なスペクタルの自然(神の意思)が存在しているのです。
だからこそ、人は地球と言う小さな小さな私たちの生物が生きる世界を汚してはいけないのです。
後日、実質的な事柄を述べたいと思っています。)
本旨を追記します。
私は緑があるから自然だとは思っていません。
木が在り草が在り沢山の生き物を育成するゆりかごになる事は確かですが、ただ、木が在り草が在る有機物の世界だからだと言って自然だとは思っていません。
私は動物が居るから自然だとも思っていません。
(東京都内、それも23区内でも狸もアライグマもハクビシンも生息しています。
夜行性なのでただ、見かけないだけです。
奥多摩に行けば、熊も鹿も生息しています。
東京の水源林を維持するために、水道局は鹿の増殖に頭を悩めています。
下草を食い荒らす事で、森林の生えている表土を雨水で下流に流すために倒木してしまします。)
私は人が関与しない屋久島や小笠原諸島や白神山地こそ自然だと思っているからです。
自然とは人工的な影響を最小限に抑える事だと思っています。
森林の下草刈したり植林したりする事は自然だとは考えていません。
例えば植林した杉林の下草刈りを行わないと木が大きく育たなくなってしまいます。
それは潜在自然植生を無視した、人が大きく育って欲しいと願う木々を神の意志の如く選別しているにすぎないのです。
言葉を換えれば経済価値があるものを選別ないしは育成しているのです。
でも、ここでもう一度立ち止まり考えてほしいのです。
白神山地や屋久島で下草がリを行って自然に人工的な手を加えて自然を守っていますか?
最大の違いは:白神山地などと下草刈を行う森林との違いは、自然と思っている杉林も檜林も 実際は畑 なんです。
杉を言う植物、檜と言う植物を収穫する畑に他ならないのです。
水田でお米を収穫するのと何ら変わらない経済活動なのです。
お米や木材を収穫する手段にしか過ぎないのです。
私が思うものの自然とは全く異なるのです。
何も人の手が加わらない事が、自然だと思うのです。
林立した杉林も、下草が育たずに表土が流失して杉林は倒れてしまします。
でも、それでいいのです。
長い長い時間はかかりますが、自然がそこに育つべく選んだ木々が長い時間をかけて成長させるのです。
中には成長競争で敗北したり長い寿命を耐え忍び最後を迎えるものもいるのです。
樹木ですから、それこそその周期は何十年何百年何千年のサイクルで変遷し代をつないでいくかもしれません。
生存競争や何かの原因、例えば日照や風雨や表土の流失や木々の病気は害虫などに依って大地にその身を横たえて虫やバクテリアや菌により土に還り次の世代の生息域を構成するのです。
それが自然だと思うのです。
人間が自然に手を加えるなど、神をも恐れぬ悪行だと思う私はおかしいのでしょうか。
ここで誤解してほしくないのは、山などで経済活動をしては行けないと言っているのではないのです。
杉を育て檜を育て、山の景観を守り、山に一度に大量の雨が降っても保水し、酸素を輩出してくれる木々を育てる事は大切な事なのです。
自然とは違う経済活動ですが、沢山の人が小さな地球と言う星に生息するためには大事なことであることに変わりはないのです。
このことを否定しているのではないのです。
自然とは何ぞやと言う事を述べているんです。
自然とは神の領域に手を加えるべきではないと言っているだけなのです。
これは、以前に野生動物との関りで述べて給餌問題と同じなのです。
足尾銅山での公害問題から短期間で自然を回復する時に大々的に人の手を加えました。
これらの事を否定しているのではないのです。
病気に罹り一時、回復の手助けをしたと言う事なのです。
その復旧も潜在自然植生に則って行っているのです。
人間が引き起こした、山火事ではなく落雷による山火事のお陰で長い長い時を経てタネが開く次の世代をつないでいく壮大なスペクタルの自然(神の意思)が存在しているのです。
だからこそ、人は地球と言う小さな小さな私たちの生物が生きる世界を汚してはいけないのです。