週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

#0059 -’19. 嵯峨野から渡月橋を越えて桂離宮へ

2019年06月26日 21時45分58秒 | 国内旅行
昼食を済ませて次の向かったのは天龍寺ですが、事前予約してある桂離宮の時間とにらめっこです。
天龍寺の拝観を済ませても十分に時間があります。
最初の予定通り一時間以上ありますから渡月橋を徒歩で渡り、阪急電鉄の嵐山で電車に乗り桂駅に向かい徒歩にて桂離宮に向かう予定でした。
自分にとっては歩いて渡月橋を渡る事が大きな意味のあるイベントだったのですが。
それでなくても曇天の予報がしっかりと太陽が顔を出す天気です。
お腹もきついですし、暑いしタクシーをと考えると以心伝心で前から空車のタクシーです。
誘惑には勝てず捕まえて桂離宮に向かう事にしました。

桂川に出る所の交差点です。
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正面は桂川です。
河原に下りると川下りの(川上り)の船が沢山停泊していました。
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軟弱な肉体には軟弱な精神しか宿らないようです。
直ぐにタクシーを止めてしまいました。
前の方を下ろしたばかりのようでお金を受ける受け皿が載っておりました。
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右手に見えるのが桂川と歩いて渡る筈だった渡月橋です。
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徒歩ではありませんがそれでも渡月橋の橋の上です。
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船が遡上して行く上流方面です。
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右側の下流方面です。
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予約時間の45分も早く到着してしまいました。
桂離宮の駐車場直前で左手が駐車場で右手が桂離宮です。
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雨に降られるより暑くても晴天の方が良いに決まった居ます。
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#0058 -’19. 京都 嵯峨野 宝筐院を訪ねて(6月23日の日記)

2019年06月26日 11時49分50秒 | 国内旅行
人力車に乗って色々と由緒ある仏閣を説明頂いた。
一時間の中で下車して拝観料を収めてお参りしたのがこちらの宝筐院です。
参拝者が私達しか居なかった事もありますが、落ち着いた気に入ったお寺でした。
その後、同じオフの車夫さんが彼女と共に入ってきました。
素敵な心休まる仏閣です。



宝筐院(ほうきょういん)の歴史等をHPから引用させて頂きます。
1 宝筐院とは?
宝筐院(ほうきょういん)とは、京都嵯峨野にある臨済宗の寺院です。
紅葉の美しさに定評がある当寺院は、テレビ・雑誌・書籍等のメディアで幾度となく紹介されました。庭園の写真がジグソーパズルやカレンダーに使用されることもよくあります。また、秋の紅葉シーズン以外でも、四季折々の花が咲き、風情ある庭園が楽しめます。
2 宝筐院略史
宝筐院は、平安時代に白河天皇(1053~1129)の勅願寺として建てられました。勅願寺とは、勅願によって鎮護国家・玉体安穏のために建立された寺のことをいい、東大寺・大安寺・薬師寺などがこれに当たります。
宝筐院は、建立当時から「宝筐院」と呼ばれていたわけではなく、元々の名は「善入寺」といいました。平安の末から鎌倉時代にかけては、数代にわたって皇族が入寺し、住持となりました。
南北朝時代になり、貞和年間(1345~50)から夢窓国師の高弟である黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興させ、中興開山となりました。そして、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗のお寺となりました。
室町幕府の二代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)は、貞治四年(1365)に母の死去にあいました。その法要の席において、黙庵から経典の講義を聞き、更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依しました。そして、師のために善入寺の伽藍整備に力をいれました。
当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていました。寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わっていません。
貞治五年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となりました。そして、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院にちなみ、寺名は宝筐院と改められました。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛でした。しかし、応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微してゆきました。寺領も横領されるなど、経済的に困窮していったからです。
江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院となり、門の位置は今とは異なり、南に向けて設けられていました。
幕末には廃寺となりましたが、五十数年を経て復興されました。


京都市の宝筐院の説明の高札ですが、読めるようにトリミングしました。
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天皇家につながる格式を示す五本線の壁です。
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楓や紅葉も多く秋の紅葉には素晴らしい景観を与えてくれそうです。
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南北朝時代敵味方に分かれた楠木正行と足利義詮の墓が仲良く並んでいる。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれる。
右の家紋が楠木家で左が足利家です。
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一部、枯山水の庭園になっています。
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本堂側から入り口を撮影しました。
御本尊は、十一面千手観世音菩薩です。
十一面千手観世音菩薩立像に般若心経を半分程度読経しましたが、先があるとの事で中断しました。
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障子の先のお庭はまるで額縁に収まった絵画の如くです。
紅葉が織りなす季節にその自然の絵画を愛でに再訪してみたいものです。
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心休まる穏やかな素晴らしい仏閣の宝筐院でした。
車夫さんに案内されなければ今回お邪魔する機会は無かったと思います。
感謝です。
コメント (2)
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#0057 -’19. 湯豆腐嵯峨野(6月21日の昼食)

2019年06月26日 00時17分38秒 | 訪問した食事処、お茶処
人力車の車夫さんに何件か教えて頂いた食事処の中の一軒ですが、お店の近くまで来て頂いたので湯豆腐 嵯峨野 で昼食をいただく事にしました。
人力車を降りたのは嵐電・嵐山駅の前、天竜寺の入り口の所です。
素敵なお店で大満足でした。

お食事も良かったですが、室内の装飾などにも魅かれる所がありました。

今回のスレッドの写真はニコンとエクスペリアの両方が含まれています。

お店の佇まい自体が京都そのものです。
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枯山水の如くです。
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赤いレンタサイクルが止まっている所が入り口でした。
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ウキペディアから引用です。
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)[編集]
 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み 
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嵐山羅漢です。
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わびさびの庵を感じさせる門構えです。
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ネットのHPにはメニューが載っていないテーブルに乗っている、お得な嵯峨野ランチセットのようです。
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イギリスを初め沢山の磁器がヨーロッパに運ばれてその芸術性や技法を伝えたものです。
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秦の始皇帝の兵馬俑から出土したレプリカと浮世絵などが飾られていました。
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お座敷にするかカウンター席にするか希望を聞かれましたのでカウンター席をお願いしました。
荷物は前に置いて頂きます。
今回は小さなスーツケースではなく二人ともザックで行きました。
陶磁器や兵馬俑などが並んでいました。
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私の選んだ湯豆腐ですが、湯葉の汁物の架かったご飯も付いてきました。
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精進料理的ですから、ビーガンの方にも問題無く美味しく頂けそうです。
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湯豆腐と基本料理が付いてきます。
そうめんにするか湯豆腐のどちらかを選択してその他は同じ料理です。
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ビールと湯葉の汁のご飯は私の物です。
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こちらは家内にも自分にも付いてくる基本料理です。
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こちらは家内の注文したものです。
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毛氈が敷かれた所でお茶をするのも最高ですが、当日は外はキャンバス布で覆われて使用されていませんでした。
外は暑くてお茶なら可能かもしれませんが、食事は無理かもね。
使用していなくても毛氈の朱色が映えるのですが。
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領収書を見て書いていないので正確では無いかもしれませんが。
〆て
食事が:2000円X2=4000円
ビールが600円だったかと思います。
合計 4600円です。



湯豆腐嵯峨野の道路側にある羅漢像です。(追加)
奥に写っている建物は湯豆腐嵯峨野さんです。


コメント (2)
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