素敵なという形容詞がそぐわない気もしますが、語彙不足でご容赦ください。大徳寺塔頭の龍源院です。2023.05.21.07.20.21
今回の京都旅の目的の一つが大徳寺の特別公開です。
大徳寺は自分の好きな寺社ですが、特別公開の時間待ちの為に塔頭である龍源院に参拝しました。こちらも特別公開されていたのでお邪魔してきましたが、枯山水のお庭が少し変わっていて感動しました。その良さが伝わればと思いますが。
次にウキペディアからの引用させていただきます。
歴史[編集]
文亀2年(1502年)に東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登守護の畠山義元、豊後守護の大友義長、周防守護の大内義興らが創建した[1]。創建年次については永正元年(1504年)など諸説ある[2]。大徳寺の塔頭の中では最も古いものである。
寺号の由来は大徳寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と中国・臨済宗松源派の祖・松源崇嶽(しょうげんすうがく)の禅を正しく継承し、臨済宗で唯一残っている松源一脈の「源」の2文字を採ったものである。
明治時代の初めに大阪・住吉大社内の慈恩寺と、岐阜県・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併している。
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2 龍源院には公開宝物として、重要文化財の鎌倉時代の釈迦如来坐像などが安置されています。
3 洛北の苔寺 名称庭園・大徳寺塔頭の龍源院を参拝してきました。
龍源院の沿革(頂いた資料よりの引用です。)
京都紫野の臨済宗大徳寺塔頭で、南派の法源地本院として、由緒の殊に深く、朱色の大徳寺山門の前に、厳然と位置している大徳寺中で最も古い寺である。その名称も大徳寺の山号 [ 龍寶山 ] の ” 龍 ” と、今日の臨済禅で唯一つのみ存続している松源一派の ” 源 ” の両字よりなって居る。
今より約500年前、文亀2年(1502年)大徳寺の開祖、大灯国師より第八代の法孫である東渓宗牧禅師を開祖として、能登の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公らが創建された。明治の初め頃、神仏分離によって現在の大阪の住吉神社の内に在った往時の慈恩寺と、岐阜県高山城主金森長親公が大徳寺に創建した金竜院とを合併して、今日に至っている。
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5 拝観入口に東滴壺が印刷されたポスターが飾られていました。
6 方丈です。
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7 つぎの写真は方丈の東にある我が国で最も小さい石庭のポスターに成っていた東滴壺です。小さな侘び寂を感じる石庭ですが、宇宙を表すが如くの石庭の小砂利のうねりが非常に高い事が何処か新鮮さと言うか強烈な印象を受けました。
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8 ここからの三枚の写真は方丈の東にある我が国で最も小さい石庭のポスターに成っていた東滴壺です。小さな侘び寂を感じる石庭ですが、宇宙を表すが如くの石庭の小砂利のうねりが非常に高い事が何処か新鮮さと言うか強烈な印象を受けました。
訂正します。次の三枚の写真はこ沱底(こだてい)です。
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10 今となっては庫裏の屋根なのか方丈の屋根なのか定かではありませんが、匠の技による素晴らしい檜皮葺の屋根でした。
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12 こちらの碁盤は秀吉と家康が対局した四方に蒔絵を配した貴重な美術品です。
13 こちらは天正11年(1583年)の日本最古の種子島銃です。
14 右手は書院で、左手は庫裏で入って来た玄関を撮影しています。
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18 龍源院の方丈前庭の ” 一枝担 ” (いっしたん)です。写っているのは方丈前庭の手前に配置されれている亀島です。
19 奥に配されている石は蓬莱山です。
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21 開祖東渓禅師の塔所で、檜皮ぶきの一重入母屋造りの開祖堂です。
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24 濡れ縁に座り大徳寺の集合時刻をまちました。
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その二に続きます。
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大徳寺には参りましたから、側を歩いているはずですが、惜しくも見逃しています。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/2aeeeae82a97f95c58f221f6f7952adb
「この国のかたち」著:司馬遼太郎は、日本というものをわかりやすく解きほどいてくれています。
どうにも、日本人は匠の技などは得意分野ですが、大所高所から見定めることが不得手な印象を抱きます。
お出かけしますので帰宅後にご返事させて頂きます。
塔頭を従える如くの大寺院が京都には沢山在りますが、塔頭と本山が整然とした雰囲気満々の所がだいすきです。
哲学的と言うか、宗教的というか、自分に欠けている面を感じて精神的に落ち着きます。
昔も今も殆ど読書しない人生を歩んできました。
学者や作家などが思想的な事を書いた本は全くと言って良いほど読んでおりません。
読むべきだと思いつつ興味がわきません。で、思想や哲学的な物は積読の対象ですらありませんでした。お恥ずかしい限りです。
いつもコメントありがとうございます。