雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 4月7日(木) 震災を「乗り越える」に何か違和感が

2011年04月09日 05時57分55秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月7日(木) 震災を「乗り越える」に何か違和感が

 「震災を乗り越える」でグーグルで検索したら、147万件、ヒットしました。

 ぼくは、この「震災を乗り越える」という言葉に、何か、すこし違和感を感じます。

 ネットのシソーラス(類語辞典)で見たら、「乗越える ・ 乗りこえる ・ 踏み越える ・ 打ち克つ ・ 超克 ・ 克服 ・ 乗りきる ・ 打ち勝つ ・ 乗り越える ・ 乗っ切る」と出てきました。

 
 4月6日の「雨宮日記」で破局災害について考えましたが、その中で広島・長崎の原爆について触れました。

 ぼくの語感では「広島・長崎の原爆災害を乗り越える」とは言いませんし、言えません。
 「原爆災害と向き合う」とか「原爆被害を継承する」のは、ぼくたちもよく使いますが。

 やはり「東日本大震災を乗り越える」のはやめたほうがいいと思います。

 もっと、震災の死者と向き合い、その死についてずっと考えていきたいと思います。
 
 「乗り越えて」,過去のものにしないほうがいいのではないでしょうか。

 戦争中のミッドウエー海戦の死者を、沢地久枝さんが、ぜんぶ調べて、一人ひとりの名前のある死者がどこで、どう死んだか、どういう生涯をたどったか、『蒼海よ眠れ』に書きました。
 
 そういう地道な作業を抜きにして「乗り越える」というのは空論だと思います。

 3万人以上の死者と、対話できるなら、したいです。
 
 そういう作業を、市町村別に分担して、ジャーナリストやボランテイアで一人ひとりの生と死を取材して発行したり、ネットでまとめていく作業をするべきなのではないでしょうか。

 死者…人、行方不明者…人という、数字だけでは、死者は浮かばれません。
 
 もちろん、いま活きている生存者への支援・救急(レスキュー)は、最重要時ですよ。それは否定することはないですが、同時並行で、死者のレスキュー・支援がないと、活きている生存者も、精神の安定が得られないと思います。