自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアラニー戦争 「この地には主がいる!」

2024-10-31 | 移動・植民・移民・移住

ミッション七か村を率いてスペイン・ポルトガル連合軍と戦ったグアラニーの伝説的英雄セペ・ティアラジュの宣言「この地には主がいる」 左からサン・ミゲル大天使像 背景は裸馬を乗りこなす戦士群像(弓から槍への武器の進化に着目) サン・ミゲル教会、牛、神父たち 右端に攻撃軍の騎馬と銃列と砲車 
出所 州都ポルトアレグレの地下鉄メルカド駅の入り口にあるリオ・グランデ・ド・スル叙事詩記念碑壁画の左半分
作品名は「グアラニー ミッション アート」(ブラジル語)  作者はリオグランデ・ド・スルの視覚芸術家ダヌビオ・ゴンサルベス(10月に逝去/享年94歳)

南米では永らくポルトガルとスペインが実効支配を巡って領土争いを繰り広げていた。とくに大西洋岸南部地方では、ブエノス・アイレスの対岸に位置するコロニア・ド・サクラメント(現ウルグアイ)が、立地上の理由(密貿易と領土化の拠点)から争奪の対象だった。サン・ミゲル等7か村もまた実効支配が二転三転した。

1750年、突如、両国が国境線画定に動いた。西はウルグアイ川、南はラプラタ川までを領土にしたいポルトガルにとって、サン・ミゲル等7か村は広大な放牧地をもつ一大障壁であった。一方、サクラメントも、ラプラタ湾を制して広義のラプラタ地方の商権を握りたいスペインにとって、喉から手が出るほど確保したい要所だった。
スペインがサン・ミゲル等7か村をポルトガルに譲渡する代わりにサクラメントを領有するという約束でマドリード条約(1750年)が締結された。
最終的にサクラメントがスペイン領と確定したのは1578年である。その間に、サン・ミゲル等七か村に引き続き、イエズス会ミッションそのものにも存亡の危機が訪れた。

ミッション7か村にとって突然のポルトガル領化は青天の霹靂であった。二、三代前にたびたびバンデイランテの奴隷狩りで被害にあってきたグアラニーは、ポルトガル人をヒトの姿を借りた悪魔とみなしていた。ポルトガル人の支配を受けいれることは考えられないことで論外であった。
法王と国王に絶対忠誠を誓って設立されたイエズス会は、王命に従うほかなかった。大ミッション地方のイエズス会本部はミシオネス州(現アルゼンチン)のカンデラリア村にあったが、「インディオの保護官」である管区長以下5名から7名の神父が自村をふくめて30のミッションの行政を監督していた。
この人員では、本国からの命令を各ミッションに伝達することと本国に要望書、報告書をおくることぐらいしかできなかったと思われる。各ミッションが自給自足しながら自治を行なっていたことがこれでわかる。各ミッション間は同腹の兄弟のように親密で、交流、交換があったが、連合したクニではなかった。
王命を確認した七か村が大混乱に陥ったことは想像にかたくない。それまで「神父は彼らにとって父であり、母であり、聖職者であり、その他すべてであった」という、もっともな現地報告があるが、神父はミッションの一大事に際して王命に従うことしかできなかった。神父はグアラニーに移動するよう説得した。神父のカリスマ性(全能感、預言と雄弁)が薄れた。

国難が英雄をつくるといわれるが、七つのミッションでもそうであった。経過を追ってみよう。
条約締結から15か月後、ようやくカンデラリア村の本部にローマのイエズス会総長から退去命令の手紙が届いた。管区長は大ミッション地方の全会士60名を招集し、条約の内容を伝えて、事態を冷静に受け止めるよう求めた。
条約には、七つの村は、教会、建物や土地、領有権とともにポルトガル王室にひきわたされる、「インディオは、家具、家畜、武器、火薬などをもっていくことを許される」と記されていた。村々は、マテ茶畑、棉畑、70万頭のの野性牛と10万頭の羊が育っていた大平原(ミッションを含めると日本とほぼ同面積)も失うことになる。
誰しも3万の住民と数十万の家畜を渡河させることなどできる訳がないとすぐさま思うであろう。管区長とサン・ニコラス村の一人を除いて残る全会士が、絶対に不可能という意見であった。
1752年2月、スペイン政府新国境設置委員会がブエノスアイレスに本部をかまえた。委員長バルデリリオス侯爵、執行委員にイエズス会士アルタミラノ神父。執行軍司令官にブエノスアイレス司令官アンドナエギが指名された。
1752年7月、アルタミラノ神父がサント・トメ教化村(西岸沿い)に居を構え、七か村の布教長(在カンデラリア)に「移動しなければ会士を引き上げ、村人を破門にする」と脅しをかけた。神父はしぶしぶ移住の適地を探したがみつからなかった。グアラニーは移住拒否を決めた。
1752年10月、サン・ファン村が移住に傾く。一部村民がアルタミラノはイエズス会士に化けたポルトガル人だと騒ぎ出し、村は騒然となり移動は中止された。
サン・ミゲル村では、村長が罷免されたうえカケと村民に暴力を振るわれ深手を負った。名前不明のリーダーの助けで何とか神父が傷を縫合することができた。他の村でも、村役が神父の身代わりにされて、怒りをぶつけられた。移動先を探そうとする神父はしつこく邪魔立てされた。村から逃げ出そうとした家族は阻止されて、ひどい扱いを受けた者もいる*。
管区長は「われらはもはや統治してない。グアラニーに従うだけだ」と嘆いた*。


サン・ミゲル教会の正面と鐘楼

1753年2月27日、国境目印の杭打ちをしながら北上していた西=葡合同の新国境設置団が、サン・ミゲル村の放牧場のなかにあるサンタ・テクラで300の武装グアラニーに行く手をさえぎられた。旗手サン・ミゲルのセペ・ティアラジュの口上「自分たちはブエノスアイレス司令官からこの地を守ることを任されているから、スペイン人は通すが、ポルトガル人の通行を許すことはできない」。
一行は三日間足止めをくったあげく、サクラメントにひきあげた。グアラニーは帰途の糧食として西・葡それぞれの隊に60頭、30頭の牛を贈り、道案内までつけている。
この一件はグアラニー蜂起のニュースとなって大きな衝撃をもって伝えられ、サンタ・テクラの名はヨーロッパにまで鳴り響いた。イエズス会は各方面から非難の集中砲火を浴びた。
スペイン政府新国境設置委員長はブエノスアイレス司令官アンドナエギを通じて退去しようとしないミッションに最後通牒をつきつけた。神父アルタミラノも期限付きで全会士の破門、追放を予告した。
管区長は軍事介入を思いとどまるよう嘆願書を送る一方、教化村に対して勝ち目のない戰をさけるよう文書を送った。
グアラニー側も態度を硬化させ、外部からの書類、手紙をいっさい遮断した。交通路であったウルグアイ川の渡河点を封鎖したうえに神父の居室に見張りを立てた。一方で、外部へ盛んに訴え(グアラニー語を神父、村長、カケがスペイン語に翻訳した)を発信した。なかでも村議会(カピルド)を代表してニェエンギルーが発したアンドエナギ司令官あての要望書は名文で知られている。
板挟みになった17名の神父は、「神父としてアルタミラノの命令に服することはできない。村にとどまって中立を保ちながら、グアラニーたちに精神的な支援を送る」という結論に達した。
単発的に村々で不祥事が起きた。
東岸に大きな放牧場をもっていた西岸沿いのジャペジュ村の極端な例をあげる*。
二人の指導的有力者[カケと思われる]が非戦を口にする村長(コレヒドール)を罷免し、村の女たちを「大きな祭」というところに避難させた。神父(複数、以下同じ)が女たちをエンコメンデーロに引き渡すのではないかと恐れたのである。その後、神父から鍵を取り上げて村の倉庫を開け、備蓄、織物、道具などすべてのアイテムを村民に分配した。
神父が逃亡を図ったため拘束し、犯罪者のように扱った。神父が教えてきたこととは裏腹に謙虚さに欠け高圧的であると非難し、鞭で打ち、キリストにならって裸足で歩いて、居室に帰らせた。しかし神父のミッショネーロとしての活動は禁じなかった。
ちなみに、西岸沿いにも六つの村(西方全体では23の村)があり、それぞれ大平原に放牧場か茶畑もしくは棉畑をもっていた。それらコンセプシオン、サント・トメ、ラ・クルス、ジャペジュ、サン・ハビエル、サンタ・マリア・ラマヨルおよび中部の村々は、後日、放牧場を通過する合同軍の部隊を阻止しようとしたが、多勢に無勢、無駄に終わった*。
1754年2月、サン・ルイス、サン・ロレンソ、サン・ファン3か村のグアラニー350人からなる部隊がパルド川にあったポルトガル軍の駐屯地を襲い、グアラニー側30人、ポルトガル側16人の死者をだした。
5月、スペイン軍はモンテビデオ(ブエノス アイレスの進出拠点)を出発し、教化村まで130キロ地点に迫ったが、思いがけない寒波に見舞われ、霜で牧草が枯れはてて、連れてきた6000頭の牛馬やロバが餓死していった。一戦も交えることなく撤退を余儀なくされた。
ポルトガル軍の方は、ジャクイ川付近で2000人のグアラニー軍に包囲されて身動きがとれなくなり、和議を申し込んで辛くもブラジルに逃げ帰った。この時のグアラニー軍はセペ・ティアラジュを総司令とする総軍であった。「この地には主がいる」と宣言してポルトガル軍を追い返したと伝承されている。穏やかな短い宣言にセペの人柄と戦争の目的が表明されている気がする。

長い休戦が終わった1756年初頭、つまりサンタ・テクラの蜂起から数えて3年後、万全の準備をして、スペイン軍(1700人、大砲20門)とポルトガル軍(1200人、大砲10門)が前進を開始した。合同軍の補助兵には黒人のほか白人との混血(ムラート)がいたが、反乱に同調しかねない先住民は部族を問わず(グアラニーの宿敵チャルークをふくめて)いなかった*。
グアラニー軍はゲリラ戦で西葡合同軍にかなりの損害をあたえた。ところがあろうことか、2月7日、ある小競り合いで、70人の小部隊を率いていたセペが、乗っていた馬が穴に躓いて落馬したところを撃たれて戦死した。
彼はグアラニー族の戦時カリスマとなっていた。村役の弱腰に憤慨してスペイン人の町に離脱していたグアラニーの名工たちがかれを慕って舞い戻ってきたほどに名声が高かった。セペに代わる指導者はいなかった。西岸沿いのコンセプション村のコレヒドールでセペを補佐していた雄弁で名文家(前出)のニェエンギルーが選ばれて後を継いだが、かれは軍事経験がなかった。兵士たちは氏族ごとにカケのもとに固まって指導を仰いだという話もある。
3日後の2月10日、カイバテの丘での戦いでグアラニー軍は壊滅した。兵士の数は3000に対して半分強だったが武器の差が開き過ぎていた。大砲対竹筒砲、旧式銃、槍と弓矢では、会戦では、勝負にならなかった。
「それよりも前に、戦場においてカリスマ的な存在であったセペを失ったとき、すでにグアラニ軍は精神的に瓦解してしまっていた。大砲の音におじけづいて塹壕にうずくまってしまったかれらのうえに襲いかかった合同軍は阿鼻叫喚の殺戮をくりひろげた。戦闘はたった一時間あまりであったが、グアラニ側は死者1511人、捕虜154人という甚大な被害を被ったのにひきかえ、合同軍はわずかに死者4人、負傷者40人をだしただけであった。[中略]その年の暮れには、七村の住民はすべてウルグアイ河を西へわたり、移動は完了した。」

わたしがほぼ丸写しでこの章をまとめてきた種本『幻の帝国』の著者・伊藤慈子さんが、早々にグアラニー戦争を全村移住で締めくくってしまったので、全村移住の実態と合同軍の戦後処理策を別の史料*で追ってみたい。
まず、結果的に決戦となった戦いには、相当数の遠方からのグアラニー部隊が欠けていた。サン・ホセとサン・カルロスの部隊はサンミゲルに近い放牧場で合同軍を待ち構えていて敗戦を知った。サン・トメとサン・ボルハの部隊はそこに行く途中で通りかかってカイバテの丘の惨状を見た。諸部隊はそれぞれの村に引き返した。サン・ボルハ以外はウルグアイ川より西のミッションである。
グアラニー総軍はカイバテの戦いで全滅していなかった。サン・ミゲル以下4か村の2000人が敗戦後も放牧場に半円の陣を敷いて合同軍と戦い、相互に数人の死者を出している。読んでいて何か腑に落ちないものが残るのは私だけではないだろう。
元々グアラニー戦争はグアラニーが仕掛けた戦争ではなかった。二、三代前の先祖がイエズス会の指導で築いたミッションと土地を守る自衛戦争であった。三里塚闘争に似ている。
セペのよく考え抜かれたスローガン「この地には主がいる」が示すとおり、反国王、反政府、反イエズス会でなかった。反軍、反スペイン人でもなかった。したがって、西葡合同軍も討伐軍ではなく、全村退去執行軍であった。討伐軍なら、両軍は反抗した村と村人を地上から消し去ったであろう。いわゆる、今日も繰り返されている「正義の戦争」という名のジェノサイドである。
カイバテの虐殺の反省もあったであろう。総司令官アンドナエギは15日以内に武器を放棄すれば罪をとわないと布告した。これが戦死者が僅かだった理由であると考える。
戦士たちと避難者たちは家族共々見込みのある土地を求めて集団移動した。サン・ミゲル村がそうであった。
サン・ミゲル村では300家族が神父に従って移動に応じた。7か村で14000人が移動に応じた。16000人が村を捨ててあちこちの放牧場の丘に避難した。
サン・ニコラス村は神父の説得をきかず300のスペイン軍に強制移住をさせられた。投石で抵抗して少なくとも9人が死亡した。
占領軍は、当たり前のように略奪と性暴力をおこなった。畑を荒らし牛や羊を食料にした。第二次大戦までは戦時のこうした悪事は当たり前であり報道も資料も少ない。
総司令官だったアンドナエギがラプラタ地方長官に任命されて戦後処理の最大眼目である西岸への移動を取り仕切った。おもな移動先は西のミッション村であった。それぞれの村に移動した人員の記録があるがパスする。7か村の神父たちと布教長がグアラニー保護の誓いを果たしたことだけはメモしておきたい。
護送途中、密林に逃亡した者、逃げてスペイン人の牧童になった者等がいたが、大半は西のミッションの仕事についた。
アンドナエギは17人中11人の神父を反乱扇動の罪で審問にかけたが全員無罪になった。セペの後継キャプテン・ニェエンギルーは生き残り、イエズス会がコンセプション村からトリニダード村へ形だけの追放処分を科した。アンドナエギは、コロネロスの反乱時に偽総督を公開処刑して再び反乱に火がついた苦い教訓を生かしたのであろう。捕虜が軍の補助員として護送に関わった記事はあるが、罪を問われた記録はない。
スペイン軍政がグアラニーの移動と審問に忙殺されていたとき、ポルトガル側の司令官ゴメス・フレイレは、国境線の杭打ちなんか忘れたかのように、のらりくらりと国境画定を遅らせ、心を閉ざしたグアラニーの歓心を買うことに集中した。兵士による略奪を非難し、グアラニー家族に個別に当たって衣類を施した。多分リオ・グランデでの集団生活を保障したのであろう。700家族と15万頭の牛を引き連れて占領地からパルド川の前線基地に撤退した。
村民はスペイン国王の臣民である。抗議を受けて200家族をかえしたが500家族はリオ・パルデ移住を選んだ。移住先でいくつか村を建設した後、ポルトガル人の牧場で働き、砦と砲台建設に従事した。軍は、バンデイランテがやった拉致による労働力確保を、巧言と物資をもって実現したと言える。貧しかったのであろう、牛泥棒をしてポルトガル人入植者の不信をかうグアラニーが現れた。
1761年、両国はマドリード条約を破棄した。突然締結された条約は唐突に廃棄されるものなのか。両国ともバンダ・オリエンタルの北7か村と南サクラメントの交換に不満を抱くようになっていた。
この年、グアラニーは14000人が元の東岸7か村に戻った。16000人が戻らなかった。戦後から数年間、蔓延した疫病で数千人、とくにこどもが亡くなった。
1764年のイエズス会の調査によると、再建された7か村の総人口は21209人、6519人が帰還しなかった。
1767年、スペイン国王が全領土からイエズス会士の追放を始めた。イエズス会士が居なくなった全ミッションは崩壊した。保護者、先導者のいない世俗化の道がどれほど険しいか、新大陸先住民の歴史と現状をみればたちどころに想像がつく。

の出典:Barbara Anne Ganson, The Guaraní under Spanish Rule in the Río de la Plata , Stanford University Press, California, 2003. 


イエズス会グアラニー布教区の興亡/理想郷を創ったカリスマ性とタレント

2024-09-27 | 移動・植民・移民・移住

良し悪し関係なく歴史的大事業は、盟約と宣言で始まる。キリスト教会と聖職者の腐敗堕落に抗して興った宗教改革運動に対抗して、1534年8月15日、パリ郊外モンマルトルの丘の礼拝所に集まったロヨラ、ザビエルら七人のパリ大学同窓生が、生涯を神にささげることと、エルサレムへの巡礼と清貧・貞潔を誓いあった。
これはモンマルトルの誓いとして知られ、イエズス会創立日となった。フランス人1名を除く、ロヨラ(初代総長)、ザビエルら6名はイベリア半島(現スペイン、ポルトガル)出身者である。
余談だが、教科書等で広く知られるザビエル像は高槻城主高山右近の元領地千提寺の旧家で発見され神戸市立博物館に現存する。2020年、発見100周年を記念して里帰りした実物を鑑賞できた。同地には、重要文化財級の、磔にされたキリスト像(木製)があるが非公開である。

 
「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント」と万葉仮名で記されている。

イエズス会士は最高の学識を身につけただけでなく、いくつも学院を興し大学を設立して、後に続く多くの修道士を輩出した。エルサレム行は叶わなかったが、北欧、中欧で結果を出し、法王の望むところならどこへでも行く、という誓い通り、アジア、アメリカ大陸に進出した。極東の日本と新大陸の臍にあたる大ミッション地方は、ヨーロッパから見ればまさに地の果てであった。イエズス会士の高い志が窺がわれる。

今回のテーマは、ヨーロッパ文化の華ともいうべきイエズス会神父と、地の果てで文字と貴金属をもたない野生グアラニー族の出会い(1610年)から150年経った大ミッション地方の村々の完成形、グアラニー文化である。

布教村づくりは神父みずからの力仕事ではじまった。首長の協力が無ければ何も始まらなかったことは勿論である。神父は大勢の人が安住できる適地を決めて、原木を切り倒して運び、雨露をしのぐ掘っ立て小屋を建てて起居し、礼拝所を建てた。さらに教会が板壁を経て石壁になるまでには、相当の歳月と技術の蓄積を要したことは容易に想像がつく。
その間、製材所、石切り場、煉瓦工場、作業場、木工、大工、石工などが揃っていく。教育を受けたグアラニーの新世代がそれらの活動をになった。ここまでは神父の自活力で開発できただろう。
最初の教化村となったサン・イグナシオ・グアスの設立(1611年)の立役者ロケ神父の八面六臂の働きを同僚が記している。「彼自身が建築家であり、大工であり、左官であり、自ら斧をもって木を切り、それを牛につないで現場まで運んだ。」(幻の帝国)北パラナのLondrina開拓にあたって、一からすべてを始めた父母の苦労が思い出されて感慨深い。

大ミッション地方の文化遺産は、世界遺産に登録された石造りの建造物ばかりが目立って、石像、木彫、絵画、音楽、宗教行事は紹介されることも、観光の対象になることも少ない。木と紙の素材が滅失しやすい所為seiもあるが・・・。前出の伊藤慈子著『幻の帝国』は訪問者による鑑賞から漏れがちな文化遺産を丹念に掘り起こして記録している。画像が鮮明でないのが残念だが、記事と併せて随時紹介したい。

やはり建築からはじめるのが順序だろう。
1730年ごろから最盛期に入った教化村に建築ブームが訪れた。木造の教会は石やレンガ造りのヨーロッパ風の大伽藍に建て替わった。イエズス会から派遣された優秀な専門家の一群が建築に携わった。イタリア人ブラッサネリは多くの村の建設にかかわった。そのほとんどは跡形をとどめないが、
サン・イグナシオ・ミニ(アルゼンチン)は地上30mあった教会の正面が12mのこっている。

撮影 市川芽久美氏「最も美しいイエズス会伝道所」2014.9.23

建物、造作、彫刻の指導、指揮はその道の専門家だが、造ったのはグアラニーの職人である。前出のザビエル像(絵画)もキリスト像(彫刻)も同じように作成されたと思う。ホモ・サピエンスの脳力構造に優劣がないことを改めて確認した。

前章で掲げたトリニダード遺跡(パラグアイ)と次章に掲載するサン・ミゲルの教会正面遺跡(ブラジル)はともにミラノ出身のプリモリが建てた。注目して欲しいのは、トリニダードの主祭壇上部を飾る天使の音楽家の彫刻である。



写真では欠けているが、一連の見事な彫刻は、音楽と踊りがグアラニーの生活に深く根付いていることを鮮やかに描き出している。その合唱団には200人のこどもが所属していた。ちなみにグアラニーの労働時間は6時間で木・日が休日である。

伊藤慈子さんが「息をのむばかりの美しさ」と評したこの石像は、著者が掬い取っていなかったら、今なお、人知れず片田舎の小さな祈禱所でたたずんだままでいることだろう。

大天使サン・ミゲル(ミカエル)は新世界征服の象徴として愛好され、従軍神父が常にその像を携行した。イエズス会神父とて同様である。その像のモチーフは剣か槍を持ちドラゴンに化けたサタンを踏みつけている姿である。
模倣から美術に昇華したグアラニー作成の像では、それがグアラニーの好み、グアラニーの姿に変容した。
上掲のサン・ミゲル像には、剣もサタンも描かれていない。稀有のことである。その優しい笑顔はぜんぜん西洋的でない。


バンデイランテを踏みつけるサン・ミゲル像

サン・ミゲル教化村近くの博物館で伊藤さんが目を停めたこの大天使像は、グアラニーの衣服をまとっている。両像とも指を出したブーツを履いているようだ。

イエズス会ミッションが後世に残した最大の文化遺産は、詳細を省くが、グアラニー語の実用化である。グアラニー語はパラグアイとボリビアでスペイン語と並んで公用語となっている。グアラニーのアイデンティティは生き残ったのである。


グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現

2024-08-22 | 移動・植民・移民・移住

パラグアイのトリニダ遺跡 世界遺産 出典 web : Jesuitas y Guaraníes en la Sudamérica colonial
広場の右奥に教会。手前は長屋風アパート。イエズス会は家族ごとに壁で仕切って居住させ、一夫一婦制を推進した。グアラニーはそれまでマロカとよばれる藁ぶきの大きな平屋に、家を支える柱を目安にして家族ごとにかたまって、カシーケを中心にせいぜい100人が共同生活を営んでいた。グアラニーは住居の外見が似ていたので抵抗なく受け入れた。伊藤慈子著 p73.

後年、大ミッション地方の布教区は、イエズス会の名を冠し、帝国とも共和国とも呼ばれるようになる。私は、カトリックの世界布教を掲げたイエズス会によるグアラニーのコミューン(自治区)と定義する。
先例として、コミューンなる語を史的用語に変えたパリ・コミューン(1871)がある。ロシア革命もコミューンを至上目的とした時期があった(戦時共産主義、1917~21)。いずれも、周りを取り囲む世俗世界の壁と敵意に阻まれ、短期間で歴史の幕を閉じ、ユートピアの語源のとおり、どこにもない国になった。
どこにもないから私にとってひいき目もしくは憧憬の対象にもなるのである。それでは、布教区はいかにして創られたか考えてみよう。

布教区成立の制度的・組織的条件
まず、イエズス会が法王庁に所属し、国王によって直接管理されたカトリック修道会であったことをおさえたうえで、その布教村がスペイン人の立ち入り制限を法令によって保障されたことが挙げられる。布教村はクニ境をもったクニである。
さらに、グアラニー語族はインカ文明からも隔絶した地で、自給自足できる自然環境に恵まれたため、トゥピー語族と違って、部族間に深刻な対立がなかった。せいぜい200人ほどの集落をカシーケがまとめていた。集落の人口が限界を超えると「分村」が起きるのはミツバチと同じである。
このような集落を各2名ほどのイエズス会士が武力ではなく説得で集住、定住させた。改宗で集住した村をレドゥクシオンという。大ミッション地方には最盛期に30のレドゥクシオンがあり14万の住民が居た。その領域はフランスほどもあったから驚く*。まとめてミシオネスmisionesというが単一のレドゥクシオンをミシオンmisiónということもある。
*村外の立ち入り禁止でない遊牧地をふくむ。ウルグアイ川左岸は大西洋まで領土未確定で、野生の牛馬が繁殖していた。グアラニー人を主とする先住民、スペイン人、ポルトガル人が争奪戦を繰り広げた草原である。サン・ミゲルなど七村は最盛期にその地をそれぞれの牧場、茶畑にしていた。
先住民の集住はスペイン人のエンコミエンダにとっても絶対条件であった。一か所に住まわせないかぎり働かせることは不可能であるからだ。
イエズス会は集住と改宗を成功させ、あわせて集団労働を実現させた。
集住村の人口は平均して4000人前後であった。人口の多い村を一村あたりせいぜい3名の会士が指導運営できる道理はない。グアラニーの伝統であるカシーケ(首長=呪術師)と戦闘指導者の協力で始まり、次第に役割が決まり役職化された。村長(コレヒドール)以下、法秩序*、労働監督、祭祀、財務、寄合議長、書記等の役員が毎年選挙によって決められた。
*法秩序の例として財務監査、規律の維持、懲罰をあげることができる。
以下、前掲『パラグアイを知るための50章』中の武田和久論文に依拠しながら論述する。
イエズス会はグアラニーの風俗習慣を尊重したからほとんどのコレヒドールは終身だった。役員就任にはミッション全体を監督するイエズス会管区長、国王が派遣する総督の承認が必要だった。多分、会士の意向に沿った人物が役員に選ばれたと思う。
ほかに村々に複数の自営組織ミリシアが設けられ役職が振り分けられた。成人男性はいずれかの部隊に所属することを義務付けられた。軍隊経験のある会士が、銃や馬の扱い方をはじめ必要なスキルと戦闘訓練を指導した。イエズス会パラグアイ管区長モントヤは国王に銃の保持許可をたびたび請願していた。1649年、既述のカルデナス騒動の最中、ついに銃の保持とミリシアのスペイン正規軍化が副王によって制度化された。

軍事 ミリシアの国軍化
布教村のグアラニーは保護と特権を与えられた替わりに軍事動員の義務を負った。費用は布教村負担である。その出動は多岐にわたった。ラプラタ湾両岸の植民都市防衛のほか、より野性的で好戦的な先住民の討伐で活躍した。イエズス会ユートピアの限界の一つである。
中でもアスンシオン市民の反総督の乱(コムネロスの乱 1721~35)鎮圧は大ミッション地方の政治・経済的および軍事的優位を如実に物語っている。アスンシオン市民は、マテ茶輸出の減益(高い関税とブエノスアイレス商人が取るコミッションが原因)とエンコミエンダの減退で、イエズス会布教村寄りの総督と繁栄する布教村を敵視するようなり、チャルカス(現ボリビア)の国王出先機関アウディエンシアに窮状と対策を訴えた。総督の留任決定に憤激した市民は総督を監禁し、別の人物アンテケラを越権就任させた。アンテケラは「パラナ川北岸の4つのミッションを襲撃し50人近くのグアラニーを捕虜とし、支持者[エンコメンデーロ]に分配した。」
ペルー副王はアスンシオンのライバル、リオ・デ・ラプラタ総督サバラに事態の収拾を命じた。1727年、サバラが動員した2000のグアラニーと3000のアンテケラ軍がアスンシオン南部で戦ったが決着がつかなかった。グアラニー軍が6000に増員されるに至ってアンテケラは市内から脱出し、紆余曲折を経て1731年ペルー副王によって処刑された。
アスンシオンでは20カ月間監禁されていた総督が解放され、騒乱は収まるかに見えたが、アンテケラ処刑の報に市民は激怒してさらなる蜂起を準備した。みずからコムネーロス(自治体comúnの自由市民の意)を名乗り、評議会を結成した。新総督を追い返し、1733年には再派遣された新総督を阻止し殺害した。
1735年、反乱は頂点に達し、合戦を経て、数で勝るグアラニー軍に鎮圧された。                                                                            

「ミッション独自の土地制度と生産物」
イエズス会のミッションは単に布教することではなかった。明確なクニ造りのプランを有してグアラニーを説得して集住させ、集団労働、共同利用という新生活になじませた。ロシア革命も中国革命も農業集団化で躓いたことと照らし合わせると、イエズス会ミッションの成功は興味深いばかりでなく高い評価に値する。
まず土地制度である。土地を「人間の土地」と「神の土地」に分け、前者を自給自足用として家族と親族に分け与え、後者を公用のための共同生産の場とした。
公共用の土地では、飢饉・軍事のための備蓄作物、副王域内の輸出用マテ茶が主に生産された。牧場、石切り場、美術工芸品作業場、武器製造所もあった。集住・定住社会に不可欠の、遊動民時代には全くなかった生産活動である。
大ミッションの東部では牛馬の牧畜が、中・西部ではマテ茶生産が盛んで、域内で産物の交換がおこなわれた。また、「教会用の鐘の鋳造、銀細工、織物、鉄鉱石の抽出、鉛丹生産や聖像の作成、本の出版などが始まり、各ミッションの特色が徐々に開花していった。」
特産物は村々の間で交換された。言うまでもないことだが、貨幣のない社会だった。

興味深いのは、ロシア、中国では、集団農場の生産性が自家用に比べて低かったが、ミシオンでは逆だったことである。先住民は蓄える習慣がなかったから自家用地では余分な労働をしなかったのである。
「神の土地」では生産性が高かったばかりでなく、製品の品質が高く、布教村のマテ茶は高値で取引された。彼らの労働意欲が高かった理由はグアラニーがキリスト教を受け入れ、信者集団として労働に勤しんだからである。また、労働の成果が平等に分配され、石造りの聖堂、聖像、家族ごとに空間を仕切った石造の長屋住居、学校、病人・未亡人用施設、集会場、作業場、畑、倉庫、墓地、牢屋、行事が行われる中央広場といった目に見える風景となって還元されたからである。グアラニーは十分に創造の喜びを感じながら労働したのだ。
イエズス会士はそれを神の恩寵と説いたにちがいない。もともと厄災も死もない地上の天国をもとめて移動する旅の風習があったと言われるグアラニー族だから、感激して涙を流しながら会士の説教に聞き入ったと思われる。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     


グアラニー族布教区の興亡/大ミッション地方とバンデイランテ

2024-07-26 | 移動・植民・移民・移住


再移動、再建、新設と変遷を重ねたこれらの教化村は「1720年代の時点で、ミッションの総数は30に達し、人口も12万1168人を数え、その繁栄ぶりは遠くヨーロッパへも伝わった。*

*田島久蔵・武田和久編集『パラグアイを知るための50章』  配置図出典は『幻の帝国』

グアイラ地方から移動後のスペイン人町ビリャ・リカもロレトとサン・イグナシオ・ミニも移住先を確認できる力作画像である。スペイン人町が三つしかないことが、イエズス会ミッション村の自立性を物語っている。イエズス会ユートピアは確かに存在したのだ。

まずは、その後のバンデイランテの爪痕をたどってみよう。
上掲図で、パラグアイ北部にイエズス会ミッション村が無いのが目立つ。そこイタティン地方にはグアイラ地方から撤退したイエズス会外国人会士4人が創った200から400家族からなる四つの教化村があった。
1648年末バンデイランテにより三つの村が破壊された。布教長スエルクが陣頭に立って守り通した一村は、バンデイランテとエンコメンデロ双方の魔手から逃れるため、点々と移動をつづけ、10年後の1659年、南部にサンタマリア・デ・ラ・フェとサンティアゴを築き今に至っている。上掲図のパラグアイ側ミッション「パラナ右岸地方」にその名がある。

イエズス会のパラグアイ管区教化地はパラナ川とウルグアイ川によって三つの地方に分かれる。パラナ川右岸地方(現パラグアイ)とパラナ川左岸地方(現アルゼンチン、ミシオネス州)とタペ地方(現ブラジル、リオグランデ・ド・スル州)である。地図では一目瞭然分かれているが、布教は一体として行われた。したがって、以後ひっくるめて大ミッション地方と呼ぶことにする。大ミッション地方布教の最大の貢献者は二人のメスティソ(混血)神父、ロケとモントヤである。

ウルグアイ川の東南部のタペ地方はグアラニー語で大きな村の意味のとおり人口が多かった。大西洋に流れ出る川が多く水に恵まれた土地だが、地形が険しく先住民(勇猛で知られる狩と漁の遊動民も居た)の抵抗も激しかった。ミッション地方のパイオニア、ロケ・ゴンサレスの主導で教化村は13村にまで発展していた。その間ロケは一部のカケに恨まれて殉教した。
イエズス会管区長はバンデイランテ襲来に備えて、ブエノスアイレス司令官に少数の銃の所持を求めたが拒否された。管区長は許可を得ないまま銃を購入し、元兵士であった修道士に銃の扱い方、戦闘訓練を開始させた。
1636年末、予期した通りバンデイランテの大部隊がタペを襲った。
かのモントヤが指揮をとったが戦力差は如何ともしがたかった。教化村はじりじりとウルグアイ河畔に追い詰められていった。13あった教化村の名は最終的には入れ替わって上掲図では一つしかない。サン・ミゲル(世界遺産「グアラニーのイエズス会伝道所群」の一つ)である。
モントヤはアスンシオン、ブエノスアイレスの両司令官に援軍を求めたが黙殺された。モントヤは以後現地を離れて、スペイン王室、ペルー副王に長年陳情し続けた。
その間グアラニー語の辞典を作り布教手引きを発行した。王室にパラグアイの布教活動を広く知ってもらうために書いた『パラグアイの精神的征服』は、グアラニーミッションの旗手としてのモントヤの名を不動のものにした、と伊藤慈子さんは綴っている。
1639年1月、モントヤたちの努力が実って国庫から得た150丁の鉄砲と弾薬に勇気百倍のグアラニー軍がアサバ・グアスの戦いでバンデイランテを初めて打ち破った。しかし、布教長アルファロ(法令発布者の息子)は戦死した。捕虜になった2000のマメルーコと17人のパウリスタは罰せられることなく釈放された。教化村には罰する権限がなかったのである。

1641年3月、バンデイランテの大部隊、450人のパウリスタと2500人のマメルーコが250艘の船と多数のカヌーで 、ウルグアイ川を下ってきた。
アサバ・グアスの戦い以来、ミッションの村々は厳戒態勢を敷き、戦備を整えていた。秘かに銃を購入し、二人のカケに陸軍と水軍を分担させた。事前に来襲予報をつかんで川の上流に見張りを配置した。総指揮は元兵士の修道士がとった。黒澤明監督の名作「七人の侍」はフィクションだが文明社会からもっとも遠い、隔絶したミッション地方で類似の現実ががあったことに心が弾む思いをした。
ムボロレー河畔を戦場に選んで待ち伏せして、差し掛かった船団に不意撃ちを加えた。あわただしく上陸して隊列を整えるバンデイランテを4000のグアラニー部隊が包囲した。八日間のにらみ合いの末、バンデイランテは和平を申し出た。拒否されて夜陰に乗じて血路を開いた。翌日の昼すぎまで続いた激しい戦闘でバンデイランテの損失は2000人に達し、600艘のカヌーと400丁の銃が残された。
ムボロレー教化村はウルグアイ川西岸にある。グアラニー軍の勝利は期せずして西岸がスペイン領(今日のアルゼンチン領)になる根拠となった。ムボロレーの戦いの後、グアラニーの軍事組織は次第にアスンシオンとブエノスアイレスの軍司令官に頼られる存在になっていく。勝利の報に感動した国王は翌年、グアラニー教化村を領土防衛に利用する計画を発案した(武田和久論文 takeda2010.pdf)。
バンデイランテの矛先も大ミッション地方をあきらめて西北方面、ラ・プラタ湾方面に方向転換した。グアラニーの民兵がその方面の領有権防衛のためにその都度動員された。スペイン国王の保護に対する見返りである。

この間、イエズス会教化村は、その特権と繁栄をねたむアスンシオンのパラグアイ管区司教カルデナス(フランシスコ会士*)とエンコミエンデーロ、市会議員と市民に長年中傷、告発され続けていた。暴動になった例をあげる。
* アスンシオン周辺のグアラニーはフランシスコ会教化村に属しエンコミエンダ制に服していた。
上掲イタティン地方が1641年末からバンデイランテに侵寇されたとき、アスンシオンは珍しく「援軍」を送った。バンデイランテが住民を捕らえて去ったあと、スペイン人は唯一残った村に入るやいなやイエズス会士に替えて在俗教会の神父を後釜に据え、住民をエンコミエンデーロに分配しようとした。グアラニーたちは逃げ隠れしたり、派遣されてきた役人や神父に食べ物を供給することを拒んだりして、スペイン人たちを撤退させた。
折しもアスンシオンではパラグアイ総督が死亡し、それを奇貨としてカルデナス司教は全市民の集会を招集して拍手で己を総督に選ばせた。聖俗両権を握ったカルデナスに扇動された市民は暴徒と化し、異端と目された同市のイエズス学院=コレジオを襲い内部を焼き払い、会士を追放した。司教が「有る」と宣伝していた金銀は探したがなかった。学院の牧場から牛や羊を残らず奪い去った。
カルデナスの暴挙と勝手な統治は王室の怒りを買い、新司令官が大ミッション地方から招集したグアラニー・ミリシア(民兵)3000人によって鎮圧された。

次回はイエズス会教化村の150年間の繁栄と終焉を対象とする。


イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアイラ地方とバンデイランテ

2024-06-21 | 移動・植民・移民・移住

イエズス会によるペルー布教は1568年に始まった。エンコミエンダ制の行き詰まりのかたわらで、先住民布教にめざましい活躍をするイエズス会のミッションに目を付けたペルー副王トレドは、海抜4000メートルのティティカカ湖畔のフリ村(人口9000人)の布教をイエズス会に委ね、イエズス会士以外のスペイン人の立ち入りを禁止した。
「会士たちは布教に携わるだけではなく、村のカケ[首長]と一緒になって、行政や経済活動、あるいは村人の生活にいたるまでをこと細かに指導し、フリの住民の生活をめざましく改善することに成功した。*」
この章においても、典拠を明記してない出典はすべて前記伊藤慈子著『幻の帝国』である。それだけではない。ほかに類書が無いので、関連の章は創作ではなく、主題の文脈にあわせて同書の「まとめ」で代用した。

1578年、副王はフリにスペイン王の直轄地にするという恩恵を与えた。普通、他教団は住民の改宗に成功するとその村を在俗教会の手に委ね、次の部族の布教に向かう。失敗すれば、武力制圧に任せる。
「いずれの場合も、スペイン人が入ってきたとたん、村にはエンコミエンダ制が敷かれ、村役人や在俗教会の僧、エンコメンデロ(エンコミエンダの持ち主)から徹底的に搾取される、というのが先住民をコロニアル社会にくみこんでいく一般的な図式だった。」
イエズス会はこうした図式の改革を理想としていて、フェリペ2世にミッションを認められて、フリで初めて自治的村づくりに成功したのであった。
「太陽の沈まぬ帝国」の王として名をはせたフェリペ2世のこの施策は、過酷な強制労働と反抗・討伐に加えて、伝染病で、急激に減少する先住民の人口・使役対策であった。したがって、布教村に、自治と保護を与える代わりに労働徴用に応じる義務を課した。「住民は一年のうち三ヵ月は漁業、牧畜、農業など各自の仕事に従事し、残りの九ヵ月はこれまでと同じようにポトシに出向いて王室の鉱山で働かなければならなかった。」
厳しい労働条件であるが、徴税、徴発を免除されていたので、村内の四つに分かれた教区は、イエズス会士の指導により、それぞれ住民の手で細部にインカの伝統を活かしたヨーロッパ風教会を建設することができた。この建築様式と自治の制度はその後のミッション村建設の模範となった。


南米におけるイエズス会グアラニー布教村の最初の成功例はグアラニーの人口が多いグアイラ地方に1610年に創設されたロレトとサン・イグナシオ・ミニである。グアイラはパラナ川の支流パネマ川の南岸地方を指し、肥沃なパラナ高原の一部である。Londrinaをふくめたパラナ州のほとんどを占めている。ただしグアラニーは大河川にそって居住していた。パネマ川の北岸はサンパウロ州である。

初代イエズス会パラグアイ管区長ポリョ(フリで布教村を統率した経験者)は各地に会士を派遣して布教村の設立に務める一方、スペイン王室にエンコミエンダにおける先住民の悲惨な状況を訴え、その保護を懇願した。巡察使が派遣されポリョが同行して調査が行われた結果、「アルファロの法令」(1616年)が発布された。
それは、イエズス会のグアラニー教化村の先住民はなんらかの新しい措置がとられるまで、エンコミエンダでの使役と納税を免除される、という優遇措置を前面に出した、画期的で徹底した先住民保護法であった。先住民をエンコミエンダで働かせる場合は、契約に基づかねばならず、給料は一日一レアル以上[未満で再検討]、徴税は年間五ペソ・労働で支払う場合は一ヵ月[六ペソ・二ヵ月]、そのうち一ペソを僧に渡す、とされた。
当然在地スペイン人は死活問題として猛列に反対し本国に撤回を求めた。王室のインディアス審議会は1618年若干の修正(上記[])を加えて法令を正式に承認した。

アルファロ法令が追い風となってグアイラ地方とパラナ地方の布教村は大発展を遂げた。この章ではグアイラ地方に絞ってグアラニー族布教村の転変を扱う。

グアイラ地方の布教村は、スペイン人を父、「インカ人」を母とするイエズス会布教長モントヤの指導で大発展を遂げ、10万人が洗礼を受けた。1629年1月、大部隊のバンデイランテ(パウリスタ900人、マメルーコ2000人)がサン・アントニオ村を襲い、宗教祭で集まったグアラニー人を捕らえ、鎖でつないだ。
抗議に駆け付けたモントヤを邪教を伝える悪魔とののしり耳をかさなかった。メンドサ(後にタペ地方最初の殉教者となった)は矢を受けて負傷した。モントヤは僧衣の胸をはだけて撃てるものなら撃てと叫んだと伝えられている。ブラジル側では足元にひれ伏して村人の釈放を乞うたと伝えられている。
侵寇は3年にわたって繰り返され、10万のうち6万人がサンパウロに連行され、奴隷市場で売られた。ロレトとサン・イグナシオ・ミニの12000人は無事だった。襲われた村は焼き払われた。
同地にはマテ茶生産のスペイン人町が二つあった。ロレトとサン・イグナシオ・ミニの住民は、村を建設してから10年の免税期間を過ぎていたため、年に2ヵ月間スペイン人町で労働することで税金を代納していた。皮肉なことに二村はエンコミエンダの使役に救われた形になった。
しかし逃亡者を受け入れて保護したスペイン人町ビリャ・リカがバンデイランテに包囲され降伏するに至って、布教長モントヤは布教村二村を安全な場所に移すほかないと決心した。移動先はパラナ川を600キロ下った現アルゼンチン・ミシオネス州*で、そこにはすでにイエズス会の布教村がいくつかあった。
ミッション州。上掲地図で言うとパラグアイの「パラナ地方」と「ウルグアイ地方」の中間である。以下、仮に「ミシオネス地方」と呼ぶ。

大移動の様相をモントヤの記録でたどる(すべて前掲書に拠る)。
「川原はにわか仕立ての造船所となり、カヌーやいかだを建設する物音がひびくなかを人びとは家財道具をまとめ、食料を準備するために忙しくたち働いた。」総勢六、七人の会士は指導をとるかたわら、教会の装飾品や装具をまとめ、埋葬されていた三人の神父の遺骨を壺に納めた。
700のカヌーといかだに1万2000人と家畜と必要な物を乗せて大移動が始まった。
途中川幅の狭い所で、労働力の流失を阻もうとしてグアイラのもう一つのスペイン村シウダード・レアルが総出でバリケードを築いて抵抗したが無事突破できた。「七つの滝」と呼ばれる実際は15の滝があった難所*では、試みに300のカヌーを放ったがすべて無に帰した。
現在は世界一の発電量を長江三峡ダムと競い合うイタイプ―水力発電所が築かれ観光名所となっている。
一行は残ったカヌーと荷物をかついで高巻きしてカヌーを出せる岸辺まで道なき森林を歩いた。その距離130キロというから声を失う。食糧やあらたにカヌーを作る大木を求めて密林に消えた人々もいた。制止を振り切ってにわか仕立ての小舟や筏で勝手に川をくだろうとして命を落とした集団もいた。事故や傷病で亡くなったひとも数知れずいたであろう。「やっとミシオネス州の教化村からの救援がとどいたのは、旅がほとんど終わりかけていたころである。グアイラをでて八ヵ月、無事目的地に着くことができたとき、隊はわずか四〇〇〇人になっていた。」ちらっと紅軍の大長征の物語が脳裏をよぎる。

その翌年にあたる1632年、大掛かりなバンデイランテの侵寇によりグアイラ地方の先住民は消滅し、したがって二つのスペイン人村もパラナ川を越えて西に移動を余儀なくされた。それ以来、グアイラ地方はポルトガル人の占有地となり、最終的にはブラジルのパラナ州となった。
次章「大ミシオネス地方・・・」につづく。


イエズス会グアラニー族布教区の興亡/前史 グアラニー族とスペイン人の出会い

2024-05-24 | 移動・植民・移民・移住

   同成社  2001年

当ブログ記事もようやくイグアス―瀑布の滝下流域、イエズス会士の指導で築かれたグアラニー族の教化村の世界に到達した。最大の大河パラナ川を挟んでパラグアイ川とウルグアイ川を配した流域である。大西洋への出口は、スペインの最初の遠征隊(1516年)に太平洋に通じる水路と間違われたラ・プラタ川(銀の川)である。


イエズス会ミッション遺跡群 Londrina とイグアスーの滝も確認できる。
 
スペイン人遠征隊は三度パンパスの先住民との抗争に敗れて撤退した。残留して上流に向かい適地を探求していた一隊が、首長の許しを得てパラグアイ川東岸Távaに砦を築いた。1541年、ブエノスアイレスを放棄した残留者を加えて、役所と教会を設けてアスンシオン市となった。その地は各地へのスペイン人進出の根拠地となり、のちにパラグアイの首都になった。ブエノスアイレスでは残された馬が自然繁殖しやがて先住民の資源となった。
パラナ川の両岸地方は水量の多い支流に恵まれ、気候、地質もブラジルのパラナ州に似ていて、肥沃で暮らしやすい、なだらかな丘陵地帯であった。「グアラニ族は川の近くに住み、焼畑農業、狩猟、採取などで暮らしていた。農業ではとうもろこし、マンディオカ[キャッサバ。タピオカの原料である芋]、かぼちゃ、さつまいも、ピーナツ、そらまめ、タバコ、綿などを栽培していた。」
その社会構造は『悲しき熱帯』で見てきたブラジル中部高原のボロロ族のそれと基本的に同じであった。利用できる土地が広くかつ肥沃である分だけ集落の規模が大きい。といっても首長が通常の役目を果たすうえでスタッフを要するほどの規模ではなかった。したがって役所もなかった。
首長は権力者ではなく統率者であった。安全で食料が有る遊動先の選定、集落づくり、他族との平和共存あるいは戦い、狩り、祭り、農作にかかわる見通しと決定が指導者の役割であった。平時首長のために雑務に従事したのは一夫多妻の妻たちであった。教授は、もっとも多妻であることが首長の唯一の特権であると言っている。
原始から首長は呪術者であった。さらに、体格に優れた戦士であった。男たちは戦を狩り同様に好んだ。ヨーロッパで「首長の役割は何か」と問われ、ある首長が「先頭に立って戦うこと」と答えて知識層を驚嘆させたという挿話をどこかで読んだことがある。
スタッフをもたない首長が統率者足りうるのは以上の役割を遂行できるか否かによるが、トゥピ・グアラニー語族特有のホスピタリティをおいては首長制だけでなく集落自体が成り立たない。
集落の安全は他集落との交換、交流によって保障される。物と情報が交換の対象である。互いに、つまらないものであると謙遜しながら交換する。対価なしだが、気前の良さが最高の価値であることを疑う者は居ない。
集落内でも、首長はだれよりも雄弁で気前良しがあたりまえであり、獲得物を平等に分配した。「グアラニ族の上下関係はつねに上のものが下のものに贈り物をすることで成り立っていた。」
宣教師が首長を立てながら実質首長の代わりをできたのは先住民に鉄製品、農工芸の技術、音楽と楽器、祝祭行事等をスキルと一緒に与えたからである。
親族を増やすために未婚の娘が贈られる。義兄弟と親族は多いほど心強い。困ったときに惜しみなく助け合うのが慣わしだった。
Távaのグアラニー支族はスペイン人探検隊を友好的に迎えた。「アスンシオンでは初期の段階から混血がはじまり、グアラニ族は白人を‘’義兄弟‘’として助けた。」そこに居ついた彼らはたちまち一夫多妻の社会に溺れて、本国から赴任してきたラプラタ地方長官カベサ・デ・バカ(牝牛の頭の意。バカにしたあだ名?)は、まるでハーレムのように堕落している、と国王に報告している。
労働には気が入らない先住民の男たちも戦いには燃えた。グアラニーの元の意味は戦士である。幻の銀山ポトシ(現ボリヴィア)を探求する残留組のボス・イララ(「牛頭」を本国に送還した有力者)の遠征隊には250人のスペイン人に2000人のグアラニーが加わったという。勝てば、逃げ遅れた女子供を連れ帰り、各家族の将来の婚姻資産とするならわしがあった。

ポトシ銀山がインカ帝国を征服したスペイン人によってすでに開発が始まっていることが知られると、スペイン人は金銀目的の探検を地味な植民に変えざるを得なかった。当然労働力の調達をどうするかが緊切の問題となった。
1556年、司令官イララ(同一人)はグアラニー族を300人のスペイン人に分配し、公式には中南米で撤廃されていたエンコミエンダ制を施いた。それは国王が征服者、植民者に先住民を使役する許可を与える制度で、はじまりはコロンブスにまでさかのぼる。
エンコミエンデーロ=使役者は、労働徴用権や徴税権をエンコミエンダ(委託)される代わりに先住民を改宗させて保護する義務を課せられた。金銀と稼ぎが目的の植民者が義務を果たすはずがない。また労働になじみがないグアラニー族が従順に応じるわけがない。勢い強制労働となり、導入されたところでは奴隷労働に反抗して先住民が蜂起した。

すでにカリブ海地方では20年間たらずで先住民が絶滅していた。たとえば私がチェックし続けた来たキューバ革命の書物には先住民がただの一人も出て来ない。マタンサスという州名さえあるが、その名の由来は1510年に始まった先住民の反乱である。徴発した先住民漁船で河を渡っていたスペイン軍兵士が河の真ん中でボートを転覆されて重装備だったせいで30名全員が溺死した。事件をきっかけに「正義」の虐殺(マタンサス)がはじまって州名となった、とわたしは考えている。

エンコミエンダ制の義務(教化)を肩代わりしたのがイエズス会である。制度がもたらした新世界先住民の急激な人口減と実質的奴隷化に苦慮していた王室はイエズス会の進出を歓迎し優遇した。
イエズス会は、忠誠を尽くす法王公認のもとに日本を含む新天地に宣教師を派遣した。各地に布教の足跡を遺したが、イグアス―の滝下流域の、三国にまたがる歴史遺産だけが突出している。西から入ろうとしても東から入ろうとしても、スペイン本国から≪もっとも遠い≫遠隔地に、同時代人に危険視され後世の人に憧憬されるイエズス会指導のグアラニー族コミューンが実現した。次回につづく。

本章は伊藤滋子著『幻の帝国』を種本としている。「」はすべ同書からの引用である。多くの方に読んで欲しい良書である。


皆既日食/Londrina で幼時に体験

2024-04-07 | 体験>知識

 皆既日食   Londrina  1947.5.20
4月6日の朝日夕刊に、「北米縦断  皆既日食フィーバー」と題する記事が掲載された。8日昼前からメキシコとテキサス~ニューヨークの各州で観測されるとNASAが発表した。大勢の人の移動に伴う混乱が懸念されている。
記事を見て幼い時の記憶がよみがえり、古い写真をひっぱり出した。その裏に父の筆跡で地名と日付が書かれていた。私が日食を観たのは8歳の時だということが判った。

ブラジルでも観測フィーヴァーがあった。ニュースの入らない田舎生活の私でも日食があることを知っていた。「南方」の空の高い所で日が欠けていき、夜のように暗くなった。明るくなりはじめると雄鶏があちこちで時を告げていた。

今回の下調べで私は自分の不安定だったLondrinaに関する
位置・方向感覚をいくらか正常化することができた。私は8歳の時ウチの地所にいた。ほかの所ではなく・・・。これまで確認できなかった居所がわかったことが一つ。
二つ目はこれまで太陽が南方を通過するという錯覚に悩んでいたが、今回写真を見て浮遊感が薄らいだ。
Londrina は南回帰線上にある。太陽が赤道の真上を通過し、Londrina からみて北方の東(右)から太陽が昇る。論理的にはわかる。今回写真がそれを視覚的に納得させてくれた。
ただ方角は地形上に足で立って目で見てはじめて完全に自分と一体化する。それまで、わたしの幼児の錯覚は完全には修正できない。
錯覚の原因は来日にある。日本では太陽は南方を移動する。


鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想

2024-04-04 | 体験>知識

4月3日午後2時半過ぎ、宮崎市にある鵬翔高校サッカー場でピッチサイドに落雷があり、熊本から試合に来てウオームアップ中の鹿本高校の選手18名が負傷して救急搬送され、9人が入院、このうち、1人が意識不明の重体となっている。「その場の天候は、雨がぱらついてきたというくらいの状況だった。落雷音が全くしなかった。いきなりドンと(雷が落ちた)」 2日午後4時ごろから県内全域に雷注意報が出ていた。鵬翔高校教頭先生のインタヴィユー記事 mrt宮崎放送 配信 

鵬翔高校サッカー部といえば、わたしが高槻フットボールクラブの監督をしていたころ、ウチの卒業生が毎年入部していた。2013年には全国高校選手権で優勝実績がある強豪校である。

これも因縁か、わたしは2013年の8月18日に、その17年前の1996年に高槻市営グラウンドで起きた同様の重大事故を扱った記事をブログに投稿している。以下に再投稿する。参考にしてほしい。

なお、高槻市での事故を受けて、日本サッカー協会は、落雷事故防止対策の指針を定めてルールブックに掲載している。
「活動中に落雷の予兆があった場合は、速やかに活動を中止し、危険性がなくなると判断されるまで安全な場所に避難するなど、選手の安全確保を最優先事項として常に留意する」

「落雷事故と裁判 長居競技場落雷死/高槻市落雷失明」
2012年8月18日午後2時15分ごろ、去年の今日、長居公園南西入り口付近で樹木に落雷があり福岡県の20代の女性2人が病院に搬送されたが死亡した。
二人はEXILEなど人気アーティストの野外ライヴの入場を待っていて難に遭った。
さらに3時過ぎ会場前の同イヴェント・グッズ売り場の幟に落雷があり6人が軽傷を負った。
その後ライヴは1時間遅れで挙行された。
今年7月30日遺族は主催者に対して損害賠償訴訟を起こした。
[結果は上告審で棄却、遺族敗訴]

1996年8月13日、全国的に落雷対策を促す結果を招く重大事故が身近な高槻市で起きた。
市体育協会主催のユースサッカーフェスタで試合中の土佐高校の生徒が直撃を受け重篤な不治の障害を両眼と四肢に負った。
(財)市体育協会と土佐高校は保護者と損害賠償裁判で最高裁まで争って敗訴した。[保護者勝訴]
財団法人は銀行口座を差し押さえられ解散した。
延滞金を含めると5億円に近い賠償金のほぼ80%を土佐高校が負担した。

わがクラブは最初の稲妻、雷鳴で競技を中断、放棄することを心掛けている。
さらに中断、離脱の決定権を指導者だけでなく選手個人、その保護者にも与えている。
団体競技であるにもかかわらず個人の意思が優先される。

それでも危険回避が難しいと感じることがある。
逃げる間がなく逃げ場がないとき、たとえば上記長居事故のような場合、個人あるいは小集団の自助、共助だけではどうにもならない。
主催者の対応不足は論外だが、施設管理者[この件では大阪市]の無策を問わなくてもよいのか?
屋根のある全施設の門を開放して避難させる人道的責任を負わなくてよいのか。[この件では長居スタジアムは対応しなかった]
この件では施設を貸す側にもできることがあった、と確信している。
ちなみに避難小屋を兼ねる山小屋は緊急の場合定員に関係なく避難者を収容する。
逃げ場がないとき公共施設を開放する・・・これが常識になっていない。

マニュアル命のお役人と頭でっかちの裁判官たちはどう思う?


「正義の戦争」と抵抗部族の根絶 ブラジル1550~1650

2024-03-28 | 移動・植民・移民・移住

16世紀後半、総督によるキャピタニア回収、統治により砂糖キビのファゼンダ(先進のペルナンブーコを中心とする)が軌道に乗ると植民地の奴隷不足が発展のネックになった。黒人奴隷の輸入が始まっていたが本流になっていなかった。
大農場主(ファゼンデイロ)は先住民の奴隷化を望み、総督(カピタ~ン・ジェラウ)は洗礼を受けていない先住民の奴隷化を認めて先住民に改宗をせまった。イエズス会は改宗者を保護した(布教所が「駆け込み寺」になった)が奴隷化の流れに抗しきれない。
しかも移民の数は増える一方で、移住者が持ち込んだ伝染病で先住民集落の人口が激減したこともあって、力関係が逆転した先住民は、服従(改宗と定住)するか蜂起して逆襲するか、ほかに選択の余地がない窮地に陥る。
抵抗した主要部族は、ペルナンブーコのカエテー族をはじめとして、バイーア(サルヴァドールが首都)のナンバー族、サンパウロ~リオ間のタモイア族(5部族の連合名、総称)、バイーアとサンパウロ間のニキン族等である。抵抗部族は、勇敢に執拗に消滅するまで戦った。時にはフランス人と同盟を結んでフランス人が指揮し洋式武器を使用して、あるいは諸族と連合して戦うさまは、旧幕府軍の東北・函館戦争を想起させる。
戦う相手は大農場主と総督軍であるが、兵士は帰順したナンバー族、ニキン族、混血のマメルーコである。最初の供給源はサルヴァドールのカラムルーの一族、サンビセンチのラマーリョ率いる一族であった。サンパウロ防衛戦では老齢のラマーリョがマメルーコを指揮してタモイオ連合軍と戦った。
植民者の反撃は、サルヴァドールに総督府が置かれ、総督軍による計画的な討伐行が実施されるようになったことで可能になった。総督が「正義の戦争」を宣言し、植民者の熱狂に支えられた討伐行は時をおかずして殲滅戦に移行した。集落が灰燼に帰し、奥地に向かって四散した者を除くと、奴隷として使える者だけが生かされた。奴隷は短命だったので死ぬために生かされたと言えなくもない。
沿岸部から吹き荒れる虐殺の嵐に乗って、治安維持の討伐行は後背地の奴隷狩り遠征に移行した。奥地への浸透(エントラーダ)は総督軍が最初で、バンデイランテスの登場は、1600年代中頃、沿岸部の掃討で奴隷源が尽き、かつサンパウロに植民者が増え植民地が根付いてからである。

先駆していたイエズス会宣教師にも転機と苦難の選択が訪れた。
サルヴァドールに最初のカトリック司教区が設置され、サルジーニャ司教が着任した。司教は改宗が神への愛からではなく恐怖(総督による非洗礼者→奴隷化の脅し)からであることを問題視し、イエズス会の先住民布教を脅かした。
「聖戦」で沸き立つ植民地の世論に押されてイエズス会の宣教師までが軍に非改宗民族討伐を進言したり、軍が布教所のカエテー族の改宗者を捕らえて奴隷化したりした。
新世界ではイエズス会と世俗司祭との対立が一般的だったが、他と違ってブラジルではイエズス会士の理想主義が芽吹く余地がなかったように見える。ブラジルには世界遺産に指定されたブラジル・イエズス会のミッション遺跡が一つもない(次章で説明)。

封建領主然とした大土地所有者とイエズス会の布教団の対立をレヴィ=ストロース教授は次のようにまとめている。
「ファゼンデイロと呼ばれる農場主は、自分たちの徴税を妨げ、農奴のようにこき使える労働源を奪いさえしている布教団の世上権を嫉んでいた。彼らは見せしめに討伐を行い、布教団やインディオを四散させた。」

奥地奴隷狩り遠征隊は、その隊旗からバンデイラ(旗の意)あるいは構成員に重点を置いてバンデイランテスと呼ばれた。サンパウロの有力なファゼンデイロの家父長的指導者が組織し、ならず者の自称capitãoが少数のポルトガル人と大勢の先住民(トゥピニキン族)及びマメルーコ(mameluco  先住民とポルトガル人の混血)で構成した隊を指揮した。
彼らに特有の話し言葉を Lingua Geral paulista(パウリスタ=サンパウロ出身者)という。トゥピ語中心の共通語である。トゥピ語とグアラニー語は兄弟ほどに共通点が多い。トゥピ=グアラニー語族という大きな分類で語られる所以である。
元々一つの民族でアマゾン川支流沿いと北部海沿いに南行して両語族に分かれたと考えることができる。
グアラニー語族は中部高原のいくつもあるパラナ川支流伝いに下って現パラグアイ・アルゼンチン・ブラジルの広大な草原地帯(乾燥地帯と湿地帯)を生活圏としていた。

パラナ川とイグアス川の落合 三国国境 左上PY,右上BR,手前AR 

そこでは、スペイン人・イエズス会が布教所を構えて、堕落した旧教の刷新を実践しながら、ルネサンス後に芽生えた西欧のユートピア思想の影響を受けて先住民の平等社会を実現していた。最盛期にはスペイン人集落よりも豊かで、侵略したバンデイランテスがそこにあるはずの金塊、金鉱を無駄に探し回ったと言い伝えられている。

バンデイランテスは、現サンパウロの海岸山脈を水源とするチエテ川をカヌー船団で一千キロ以上蛇行して南米第二の大河パラナ川に至ったと考える。出発地は都心から百キロ以上離れたオウムが岸壁のミネラルを求めて集う岸辺である。クイアバー(現マトグロッソ州都)で金が発見されると、その船着き場は黄金の陸揚げ港として栄え、「天国の出入口」ポルト・フェリスと名付けられた。グアラニー人にとっては「生き地獄の窯の蓋」ポルト・インフェルノだったと想像する。


背中を寝違えたような痛み/寝ていて発症

2024-03-05 | 高い枕が原因

胃もたれが治ったと思ったら、間を置かず、寝ていて突然右肩に激痛が走った。右腕を動かすと痛くて力が入らない。左腕一本では起き上がることができない。寝返りしようにも肩と腕が痛くて動けない。寝不足のまま朝を迎えた。
右足で蹴ってマットの左側に転がって、残りの肢(てあし)を使って起き上がった。立った状態では、ふつうに体を動かすことができた。
幸いにもその日は通院予定日だった。自転車をこいで病院に行った。まず胃カメラの受付に行った。消化器内科主治医に症状を告げると、救急に行くレベルだから、と予定の変更を提案された。わたしも不安だったのでそうすることにした。
次に飛び込みで循環器内科の診察を受けた。肩の痛みが心筋梗塞の前兆(放散痛)ではないか、と心配だったからである。いろいろ調べて、頸椎が圧迫され、首筋の筋肉が緊張している状態が原因だから、心配なら整形外科を受診するようにと助言された。
思い当たることがあった。夜間に中途覚醒して二度寝が難しいので、枕を高くして横向きに寝ていたのが良くなかったようである。
その晩から、マットレスを買ったときのおまけ、薄いウレタン枕5cmを使って仰向けの姿勢で寝ている。結果は上々で、痛みも消え、睡眠も順調になった。


胃もたれ・胃下垂・腸閉塞/食物繊維とりすぎ・消化不良

2024-02-26 | 胃下垂肥満

ここ2週間ほど、夜間にお腹がすかなくなった。食事の量が増えたわけでもないのに体重が2kgほど増えた。上腹部、臍から上方が肥満して突き出ている感じになった。パートナーが以前からそうなっていたのを冷やかしていたが自分がなるとは思いだにしなかった。
妻は胃が弱く長らく食事制限をしている。孫たちを放課後迎えにいって母親の仕事が終わるまで世話をしている(土日だけ休み)ので過労でダウンしてしまった。内科医の診断は胃下垂だった。それがわたしの自己診断のヒントになった。
わたしの場合、お腹がすかなくなったのと同時に胃もたれでえずくようになった。昨晩は目が覚めたとき嘔吐しそうだったので洗面器を用意した。
そのご眠れなくなって、いろいろ思考をめぐらして原因を探った。妻と違って胃腸が丈夫な私が胃下垂らしい症状になるとすれば食べ過ぎによる消化不良しか考え付かない。
一昨年の大腸癌発見のきっかけとなった腸閉塞を引き起こした食材は食物繊維だった。作り過ぎたネギの始末に困ってひとりせっせと葱を食べた。このたび2週間もそのことに気づかなかった自分が悔しい。
今回の作りすぎ・食べ過ぎ食材はターサイとサラダ菜である。原因がわかれば回復の目途が立つ。やや元気が出て対策に取り組んだ。朝食を抜き、昼食を控えめにして今ブログをUPしようとしている。
下痢便が少し出た。えずきはほぼ消えた。超回復が体重減少につながることを期待したい。


ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ

2024-02-24 | 移動・植民・移民・移住

 河出書房新社 2022年 
本章記述中の数字はこの一冊に依拠している。

 植民地ブラジルの創成期は三期に分けることができる。
「パウ・ブラジルと先住民」収奪期 封建制 ブラジル人祖型
「サトウキビと奴隷」搾取期 カピターニア制 先住民蜂起 
「大ファゼンダとイエズス会」植民地確立期 総督制 三結合
項目分けはしてないが記述の流れで見えてくると思う。

ブラジル史は贈り物の交換から始まった。
1500年、発見者カブラルの到着地は後にポルト・セグーロ(現バイーア州の南部、州都サルヴァドールから700キロ)と呼ばれた。カブラルは10日間滞在し、トゥピニキン族から水と食料と薪を贈られた。パウ・ブラジルを発見し即ポルトガル王に報告のための船を先発させた。他日役立たせるために二人の受刑者を残置した。

1502年、領土と資源を独占所有するポルトガル王が大商人貴族ロローニャに利益の5分の1前後を与える条件でパウ・ブラジルの伐採と輸出を許可した。フランス人商人に許可した例もある。先住民がその労働をになった。斧、山刀、小刀、針、釣針、ハサミ、装身具、布地、銃等などとの不等価物々交換。
 
1510年、ポルトガルから一攫千金目的で「ブラジル」に向かった船が嵐で北東部海岸バイーアに漂着した。船乗りジオゴ・コレイア(以下Diogo)がトゥピニキン族の敵対者トゥピナンバー族の虜(異説あり)になった。鉄砲のお陰もあって畏敬を得て、有力者となった最初のポルトガル人と云われている。さらに、人種的・文化的に混交した家族をもったブラジル人の祖型として伝説の人となった。
後にDiogo(トウピ語のあだ名カラムルー)は首長の娘グアィビンパラーと結ばれてフランスに旅行した。グアィビンパラーはヴェルサイユ宮殿に招かれた最初の先住民となった。フランス国王フランソワⅠ世立会(異説あり)の下でカトリック式の結婚式を挙げた。洗礼親は船長夫妻だった。1528年のことである。
ブラジル在住の作家・中田みちよさんは、ポルトガル人のDiogoがフランスに行ったことから、それはパウ・ブラジルの密貿易支援に対する船長からの褒美だったのではないか、とWEB : 女たちの「ブラジル物語」(このブログ記事の基になった)で真相に迫る見解を述べている。そのころはまだ統治機構がなかったし、Diogoのような通訳、仲介人はパウ・ブラジルの取引に欠かせない存在だった。
グアィビンパラー(洗礼名カタリーナ)は才色兼備の女性で、ポルトガル人とIndigena(インジオの正式名称)の間に立って調停、宥和に努め、晩年サルヴァドールにベネディクト会礼拝所を建立した。遺言により全財産を寄付している。
また、子や孫の教育に熱心で、貴族、王室と婚姻関係を結んだ。ポルトガル人貴族と結ばれた娘マダレナはブラジル語識字者第一号でしかも黒人奴隷解放を格調高い手紙(1561年)で司教に訴えた(後出)。3人の息子は総督によりナイトに叙せられた。
夫Diogoの勤務と出世がそれを可能にした。

1530年、ブラジルの植民地化は、ポルトガル王が沿岸部に遠征艦隊(武装船7隻、植民者400人)を送り込むことで始まった。その目的は長大な沿岸部を探検調査して入植地と砦を建設し、先有=占有の実効をあげることであった。フランスが沿岸部を侵犯してパウ・ブラジルを伐採、密輸していたから、それの駆逐と防砦の築造が焦眉の急であった。
そのためにポルトガル国王(占領地と貿易を独占していた)はしかるべき功臣(貴族、貿易商人)に「封土」capitaniaを授与、領有させて自主財源で防衛と植民と砂糖生産を義務付けた(カピターニア制)。

写真出典   関 眞興 『一冊でわかるブラジル史』 河出書房新社   2022年 
 
沿岸部から西へ短冊形に区切られた15のカピターニアが創設され、Diogo はバイーアのカピタ~ン・コウチーニョに仕えた。そして現サルヴァドールで植民地開拓を支援した。コウチーニョがナンバー族を奴隷扱いしたためナンバー族の蜂起を招いて植民事業は崩壊した。板挟みになった仲介役のDiogoの苦労が思いやられる。

定住と労働の習慣がない先住民をいかにして働かせるか、労働力の供給がネックになったことはいうまでもない。初期には先住民(主食の生産はしていたが貨幣も経済もなかった)の社会規範であるホスピタリティ・マインドを利用していたが、ほどなくポルトガル人の監督が銃と鞭で先住民に労働を強いる奴隷化に移行した。奴隷にされたのは先住民間の戦いに敗れた種族である。
どのカピターニアも資本不足と先住民の襲撃で行き詰まった。15のカピターニアのうち経営が成り立ったのは南部のサンヴィセンチと北部のペルナンブーコだけだった。いずれにも有力な先住民首長の娘と結婚したポルトガル人がいて両民族の関係を調整できたという共通点がある。
レヴィ=ストロースがボロロ族で観察した半族間交差いとこ婚の慣習が異なった形でこの期の首長の娘とポルトガル人男性との結婚でも観ることができる。
交差いとこ婚の社会では、男が首長の妻(つまり娘の母親)一族のために「気前よく」働くことを伝統としている。本来一族の安寧と安保のためにできた社会慣習であるが、白人たちはその伝統をパウ・ブラジル労働のリクルートに逆用した。つまり、多重婚で得た多くの「妻」の親族を労働に動員したのである。
その上、半族社会のあらゆる社会的祭祀的行為は、相手方半族の補助、協力を前提としていたから、パウ・ブラジルのための動員は部族全体に及んだ。
なお、先住民社会はハチやアリの社会に似ていて首長あっての集団である。首長次第で友好か反抗が決まった。パウ・ブラジルの伐採、運搬の重労働も首長が首肯したから従事したと考えられる。

1532年以後のことであるが、遠征艦隊の提督マルチン・アフォンソがサンヴィセンチ・カピターニアのカピタ~ンとして最初の植民地を今日のサントスの隣町サンヴィセンチ島に設置した。ついで西のピラチニンガ高原に本拠地を構えた。
ここに至るまで2,3年かかっているが、その間ペルナンブーコを奪還してフランス交易所を破壊している。ポルトガルにもっとも近いペルナンブーコは交易の最先進地だった。1516年に早くもマデイラ島からサトウキビを移植している。
サンヴィセンチにはニキン族の首長チビリサの娘バルチラ(洗礼名イザベル)と結婚した漂流者ラマーリョが先住民に混じって生活していた。カピト~ン・アルフォンソは首長とラマーリョらの協力でブラジルで最初の植民地経営を軌道に乗せた。その功によりアルフォンソがインド総督に栄転した後、その妻アナが新カピタ~ンを支えてピラチニンガ高原にサンパウロ市の基礎を築いた。強力な同盟者がいなかったらサンヴィセンチ・カピターニアの確立はなかった。フランスと同盟を結んだタモイオ連合の襲撃に堪えられなかったに違いない。
ラマーリオは当時珍しくなかった多重婚で多数の混血児mamelucoを生んだ。子や孫はサンパウロの実力者と結婚し、サンパウロ人の祖となった。ということは、バンデイランテスの祖にもなったということである。ラマーリョには「バンデイランテスの大主教」の異名がある。
後年、砂糖生産で肥大したサンパウロのファゼンデイロたちが結成した奥地奴隷狩り隊バンデイランテスには多くのマメルーク兵士が加わった。そのあまりの残忍行為に近親憎悪をみる著作もある。

1549年フランシスコ・ザヴィエルの鹿児島上陸と時を同じくして、イエズス会の宣教師ノブレガ神父らが国王任命の初代総督トメ・ジ・ソウザと共に北東部のサルヴァドール・ダ・バイーアに上陸した。カピターニア制から総督制 への統治制度の変更である。200名の兵士、100名の官吏、犯罪者400名を含む700名の植民者が総督に随行した。
国王と総督とイエズス会の三結合による本腰を入れた集権的行政と植民地開発が始まった。枯渇したパウ・ブラジルに代わって砂糖が主産物になって、奴隷(先住民→黒人)の搾取でスーパ農園ファゼンダ---高価なサトウキビ絞り装置エンジェーニョのほか製材所、鉄工所、牧場などを擁する---が出現する。
先住民の習俗を体験、熟知したDiogoとグアィビンパラが総督に重用され、サルヴァドール建設に貢献した。サルヴァドールは政庁(総督府)となり、砂糖の大生産地バイーアの州都さらにはブラジルの首都になる。

ピラチニンガでは、イエズス会神父アンシエッタが、礼拝堂と学校を併設し、1554年1月25日にノブレガの臨席を得て落成のミサを捧げた。その日がサンパウロ市制記念日となった。

最後に、Diogoとグアィビンパラーの娘マダレナの魂の遍歴を一端だけエピソードとして挙げておく。
混血ブラジル人マダレナ・カラムルーの司教宛て手紙(1561年)について、作家中田みちよさんの上掲「ブラジル物語」から引用する。
[マダレナは]「親から隔離され、神も知らず、我々の言葉も解せず、やせて骸骨のようになりながら奴隷小屋に軟禁されている子らが、虐待から救われますように」と嘆き、働く力もないかわいそうな子らのために金貨30枚を寄付しています。
昨日まで、純朴な人々のふるさとであったバイーアが、奴隷商人に牛耳られる守銭奴の町になったことを嘆き、「舟が着くたびに浜に吐き出され、競売に付され、売られてゆく愚直な黒人たち・・・もっと、ほかに人間的な道があったかもしれないのに・・・」
裕福な家庭に育った人間の鷹揚さ。大変、心優しい、ヒューマンな手紙です。しかも格調高いポルトガル語。

晩年、マダレナはドメニコ会に近づき清貧を貫き、全財産を寄付している。母グアィビンパラーがベネディクト会礼拝所を建立し全財産を寄付したことは前に述べた。母と娘が同じ葛藤を共有していたことは想像に難くない。それは何だったか・・・? 
なぜ教会、イエズス会ではなく小さな修道会を選んだのか? 次章に続く。



バンデイランテス余聞/二人のキング

2024-01-26 | 移動・植民・移民・移住

バンデイランテスは、ブラジル植民地創成期に大農場(ファゼンダ)の労働力不足を埋める奴隷を求めて、インジオ狩りをした奥地探検部隊のことである。
「イエズス会士とバンデイランテス」の章の執筆途中で自分史とちょっと関わりがあったのでエピソードとして投稿する。

奥地に奴隷狩りに向かうバンデイランテスは、往路の駐屯地で砦を築き、耕作、播種をして帰途の食料に備えることもあった。
私の父方の伯母家族(父は姉家族の構成員とされていた)がサンパウロ州での義務労働(コロノ)で貯めた資金で購入・移住したバンデイランテス駅付近の土地は、昔その駐屯地の一つだったと考えられないこともない。そこは南部ジェ語族・カインガンゲス族の生活圏だった。
バンデイランテス遠征隊は奴隷狩りと奴隷商売で忌避される一方で金銀ダイア目的の遠征の実績によりブラジルの領土拡張をもたらした愛国の英雄として歴史に名を残している。当初ブラジルの領土は、法王による世界地図上の線引きとスペイン・ポルトガル間の条約(トルデシリャス条約  1494年)により東部沿岸部に限られていた。
バンデイランテスは現パラグアイ、アルゼンチン国境近辺までたびたび遠征してスペイン人イエズス会のグアラニー族布教村を潰しまくった。その矛先は風の便りに聞いたポトシ銀山(現ボリビア)をも指していた。
バンデイランテスの暴虐とイエズス会神父のミッションの物語は次章に譲る。今回は3回訪れたことがあるバンデイランテス市(現人口3万余)に寄り道する。

伯母家族と父の弟(私の叔父)の結婚式。花婿の真後ろに母に抱かれた私。バンデイランテス  1940年

バンデイランテス市はLondrinaの東に70kmほど行った所にある。石の多い土地だったため開拓に苦労した、と父から聞いた。姉家族の子・孫達つまり私のいとこ・はとこ達はそこで運輸業、商業など都市型職業と近郊型農業に就いていた。
1991年Londrinaに里帰りしたとき私は彼らに会いに行った。わたしの子守をしてくれたいとこ3人が不在だったので会った覚えのないいとこ、はとこ(一世から三世)ばかりで旧交を温めることにはならなかった。

バンデイランテス市には、カズーこと三浦知良選手が1986,87年に在籍したことがあるフットボールクラブ「SEマツバラ」の選手育成施設(寮と練習場)があった。ブラジルの綿作王といわれた松原武雄氏が創ったクラブで、来日した際大阪市の靭公園でも試合をしたので観戦したことがあった。私が見学に行くと弟さん(多分クラブオーナーのスエオさん)が案内してくれた。
施設はさびれて貧弱だった。寮には宇都宮からの留学生が一人居ただけだった。クラブの本拠地でなかったせいもあるが、1987年にアマゾンのフォルクスワーゲン牧場(4万ha、牛4万頭)を買収してブラジル十大地主に名を連ねたマツバラが資金繰りに苦しんでいたことと無関係でなかったことを後で知った(外山脩『百年の水流』第一部「北パラナの白い雲」24)。
北パラナの入口カンバラー市を本拠地としたSEマツバラも3州にあったファゼンダ・マツバラも今はない。マツバラも、外山脩氏がWEB本稿の序で記した「青空に浮かぶ白い雲の様に、フト気がつくと消えてしまっている」という軌跡を辿ったのである。


フランス革命下の一市民の日記

2023-12-22 | 近現代史

日課のブログ編集で頭がさえて睡眠不足になっている。気分転換に表題の日記を読むことにした。四天王寺境内で開催された秋の古本市でたまたま見つけた832ページの文庫本である。フランス革命の臨場感を味わえるだけでなく、日課で綴っている植民、気候変動についても有益な資料が得られそうだ。[]内は私のコメント。

1791年
1月26日 水曜日 [日記付け初め]
日中気温5度。夕方3度。西の風。
ジャンヴィエ氏と昼食。
[フランス革命記念日は1789年7月14日。著者はC.ギタール。氏名以外は不明。おいおい分かってくるはずだ。]

4月4日 月曜日
気温16度。北の風。最高の天気。
[2日に亡くなった国民議会議員ミラボー伯の盛大な葬儀について長文を綴っている。ミラボーは後にパンテオンと改名された偉人墓地の第一号被葬者となった。]
貴族、聖職者、最高峰院、総括徴税請負人というあらゆる階級制度を打破したのはミラボーである。ミラボーが死んだ4月2日土曜日に、宣誓を拒否したすべてのパリの主任司祭は、市自治体の宣誓拒否司祭とともにパリの聖堂区をを追われた。
6月21日 火曜日
きょうは一年じゅうでいちばん日の長い夏至である。
[傍点(原文)で強調した意味→王家族の逃亡失敗(ヴァレンヌで逮捕、送還)を後日、記入している。]
パリじゅうが悲しみに包まれた。
6月29日 水曜日(聖ペテロ、聖パウロの祝日)
気温28度。南の風。今年いちばんの暑さ。
コソン嬢、セリエ夫妻と昼食。シャンゼリゼへ散歩に行き、デュ・ビュイソン氏に会う。
7月27日 水曜日 
気温25度。南の風。堪えがたい暑さ。
[パリ全市民の人口調査が始まった。C.ギタール:町人。60歳、田舎出身、料理女あり、借家住まいと判明。職業はまだ不明だが証拠文書のやりとりが頻繁]
7月31日 日曜日
気温28.5度。今年最高の暑さ。
セリエ夫人と昼食。
8月18日 木曜日
気温23度。晴れ。乾く。
ダゼルと昼食、夕食をともにし、寝る。
[ただ寝るだけではなさそうだ。頻繁に会っているセリエ夫人も2回泊まっているが、こちらは仕事仲間で友人のようだ。]
8月14日 日曜日
気温31度。猛暑。[8月の最高気温]
9月13日 火曜日
気温26度。東と南の風。たいへん熱い。[9月の最高気温]
[ちなみに2023年9月8日 金曜日
パリで今年最高気温36.5度、熱帯夜]


大腸癌術後15カ月

2023-11-30 | 大腸癌闘病記

11月21日に大腸の内視鏡検査を受けた。
昨年8月の腹腔鏡下大腸癌手術後は、3カ月ごとに定期検診を受けてきた。この間体調に異常は感じられなかった。先日の検診の際、最近へその右横にゆで卵の鈍端部のような膨らみが出来て押さえると柔らかいことをDr.(消化器外科医)に告げた。Dr.はちょっと見ただけで、大腸の内視鏡検査をしましょうと言った。
理由も聞かず承諾した。「患部」が横行結腸と小腸の吻合部あたりだと思ったからである。大と小の管を縫合するイメージが今一つ私には浮かばず心配だった*。
*切り口と切り口を縫合すると早合点していた。横行結腸の切断部を閉じて結腸に回腸(小腸の最下端部)を横付けするのが正しいイメージ。
検査中モニター画像を見ることができた。ポリープを二つ切除した。検体の精査結果は3か月後の定期検診時に知らされる。多分悪性ではないだろう。
検査後、吻合に異常はないとの説明があった。狭窄がないということだろうか。訊くのを忘れた。
「ゆで卵の鈍端部」のようなものは何ですかと訊いた。ヘルニアと一言。どうして出来たか訊くのを忘れた。老化でとっさの判断ができてない。
ネットでしらべて、一般に狭窄で狭くなれば便の流れが滞り腸の一部が膨れることを知った。手術前腸閉塞で苦しみ強く力んだことがヘルニアの原因なのか、分からない。
吻合部付近のヘルニアは問題ないが左下腹部にもう一つヘルニアがある、そこが痛むと即来診するように、と言われた。心当たりがある。前立腺肥大で尿閉になったとき力み過ぎてそのあたりが痛かった。2回の手術で尿の流れがよくなってその症状を忘れていた。

大腸癌は早期には自覚症状に乏しく、性別に関係なくかかる癌の中で罹患数が一番多く、死亡者数も女性1位、男性2位である。ステージⅠ、Ⅱ[私]、Ⅲ、Ⅳの5年netto生存率はそれぞれ92%、85%、75%、18%。毎年内視鏡検査を受けたいものだ。
私は、いくつかの慢性持病で長期にわたって内蔵の定期検査を受けていたが大腸検査だけが対象外だった。今回対象となったお陰で新たなポリープとヘルニアが見つかった。
さらに喜ばしいことに、検索を続けていて、小腸が対象外であることを発見した。上腹部検査でも下腹部検査でも小腸の深部には内視鏡が届かない。小腸癌は希少がんであるが、小腸検査にはカプセルカメラという新技術があることを肝に銘じておこう。

最後に、最新の大腸内視鏡は胃カメラとは比べようもなく苦痛がない。検査のために、私は鎮静剤を使用しないし、自転車で往復する。羞恥心を和らげる使い捨てトランクスも検査室に用意されている。40歳を過ぎたら惑わず大腸内視鏡検査を受けるべし。