自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

マト・グロッソ/大いなる逆さまの藪

2023-10-20 | 移動・植民・移民・移住

2014年10月16日、グリーンピースブラジルの調査チームは、大豆と畜産のための樹木の焼却と森林伐採を監視するためにマットグロッソ州を撮影しました。
出典:www.greenpeace.org.taiwan © パウロ・ペレイラ/グリーンピース
国際環境NGOグリ-ンピースはブラジルでもインデジェナ団体と共同して自然保護と生物多様性保存を政府、企業、消費者に訴えて成果を上げている。

引用ばかりで気が引けるが、つぎの記事も地球環境破壊、気候変動を語るうえでも優れて有益である。
大豆と「世界で最も生物多様性に富むサバンナ」ブラジル セラードの深い関係
この記事のポイント
ブラジルの中央を縦断する広大なサバンナ地帯、セラード。豊かな生物多様性、大量の炭素貯留、豊富な地下水源を誇るこの地域の自然が今、牛の放牧や、家畜の餌となる大豆の栽培を目的とした大規模な開発*により脅かされています。ここでしか見られない野生生物や植物を守り、これ以上の破壊を食い止めるため、WWF[世界自然保護基金]は農業と自然の共存や、保護区拡大に向けた活動を行なっています。
出典WWFジャパン 使用許諾が下りなかった映像も見て欲しい。https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/5131.html
*第4次中東戦争がもたらしたオイルショック後の国家プロジェクトにより、農作物に適さないとされてきた土壌が改良され「セラードの奇跡」が起きた。石灰による中和とリン酸肥料が決め手となった、と言われている。

原音でセハードと発音するCERRADOは、まばらな灌木や藪で閉ざされて(英語のclosed同様過去分詞)見通しのきかない草原の意である。とりわけMATO GROSSOは、上掲画像にあるとおり、低木が茂る深い藪である。前章で私は「広大な藪」と仮称し、次章でどんでん返しの異称に言及することを約束した。
マットグロッソの低木は地上部ではひねくれた幹、厚みや棘のある枝葉を特徴とするが、深い水脈をもとめて地下深く伸びる根は最長15mもあることが知られるようになり、マト・グロッソに「逆さまの藪」なる異名が付いた。
地下の根が主役で、水分と炭素を貯留し地上の繁みの密度を維持して乾季の土壌乾燥を緩和しているのである。下流一帯を雨季の洪水、乾季の渇水から守るのも地下に張り巡らされた生態系*である。
*逆さまの思考で読者をうならせている養老孟司さんの明察。土壌流出しない「その土の構造をつくっているのが地下の生態系で、大事なことは根を土に残すこと」

今日、ブラジルは大豆生産でアメリカを抜いて世界一になった。半面、セラードの半分以上(マトグロッソでは8割)が開拓されたとも言われている。文頭の写真をもう一度じっくり観てみよう。

広大な農場は工業化された農業を想像させる。AIを装備した巨大なハーヴェスター、化学肥料、農薬。大企業、技術者・・・。
循環型農業でないから必ず土地が痩せる*。今のところ輪作(大豆、とうもろこし、牧草)と不耕起農法**(根と刈り取った残渣を畑に残す)で切り抜けている。農牧一体化による準循環型事業なら日本でも実行可能な気がする。汚水処理の残渣を肥料として再利用できるようになれば循環型農業にさらに近づく。
*Globe+ World  Now の西村宏治記者のマト・グロッソ、パンタナルの現況記事「土は疲れる」2019.5
**先住民の伝統的栽培法。故福岡正信先生は不耕起農法の先駆者として世界で評価されている。
作物の根が浅く、ほぼ剝き出しの乾燥しやすい農地となれば壊滅的な大干ばつ 、大火災も覚悟しなければならない。セラードを水源とするパンタナルの水路に2019年から異常が観られる。水位が下がって分断された川で魚を食べつくしたワニが餓死している。水位が下がったため水上交通が途切れがちである。
また干ばつ(2020.11~2021.3は雨季も少雨だった)のせいでパンタナルで山火事が多発した。アマゾン熱帯雨林の南半分の森林が牧草地、大豆畑として開発された結果、気候変動が起きていると考える専門家もいる。
そのアマゾンでもマナウス港で「過去120年で最低の水位を記録、干ばつ広がる」のニュースが連日報道されている。川船が動けなくなり、住民の生活が脅かされている。これはエルニーニョ現象と気候変動が重なったせいだと気象学者は言っている。
このままアマゾンの森林破壊が進めば、早晩、地球温暖化の昂進、海流・気流の激変が起きることに異存がある人はいないだろう。アマゾンは「地球の肺」という警句を肝に銘じておきたい。
*Globe+ World  Nowの岡田玄記者のマト・グロッソ、パンタナルの水涸れ、干上がりに関する記事  2021.10
セラードでは500ヘクタール(町歩)の規模では採算がとれないという。個人農はどこへ向かうのだろうか?  都会へ、それともさらに奥地へ(さらなる違法伐採の道筋) 
保護区の少数になったインディジェナはどうなる?  いろいろ考えさせられる映像である。

WWFホームページには、巨大ハーヴェスターが横一列にならんで威容を誇っている映像(転載不許可)がある。それと上掲写真を見比べると、大農場の海に浮かぶ孤島のような半焼けの植生保護区が、横一列に並んで一斉に収穫する多数のハーヴェスターの効率的な作業にとって邪魔だということが良くわかる。空撮の意図もそこにあったと思われる。

 


悲しき熱帯 下/中西部マト・グロッソ編/ボロロ族

2023-09-22 | 移動・植民・移民・移住

教授は、ブラジル滞在中の4年の間(1935~1939)中部高原を1500km横断して、しばしば中西部マト・グロッソ州とアマゾン側で調査をおこなった。教授が指摘したことだが、多くの旅行者がMATO GROSSOを「巨大な森」と誤訳していた。私も既述の南部高原MATA ATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と同じ肥沃なジャングルだと誤解してきた。どんぴしゃりの訳がみあたらないので「広大な藪」としておく。地球温暖化と関連して、後章でどんでん返しの異称を紹介する。
これまた驚きだが、教授は東海岸から中西部まで、トラック、汽車、蒸気船、ときにはチャータ機を乗り継いで移動していた。なぜ文明の利器を、馬車、カヌーと併せて利用できたのか。
原因は、中部高原の土地の風土=気候・地味・地勢などの有様にある。気候は乾季と雨季、乾燥と氾濫を繰り返す熱帯である。地味はSERRADOセラード(現地発音ではセハード)でレンガ色、酸化鉄・アルミナが多く酸性土壌のため農作物に適さないとされていた。森やブッシュ、草原やサバンナなどの植生がモザイク状に広がっていた。地勢は南部高原よりやや低い無限の台地である。分水嶺を越えると大アマゾンに向かって緩やかに傾斜している。
マト・グロッソに限って言えば、高くはない分水嶺がアマゾン川とパラナ川の水系(パラグアイ川)を分けている。州都クイアバーの南西部に世界最大級の湿原パンタナルの一部が広がる。今も生物多様性の宝庫である点でパラナとは対照的である。
1500年にポルトガル人に「発見」されたブラジルは、パウ・ブラジル(芯が赤い染料になる樹木)を名称の由来とする。移住商人の目的はヨーロッパ向けの輸出産物であるパウ・ブラジルであり農業ではなかった。それが尽きるとサトウキビに目を付け、インデジェナの強制労働を使って砂糖プランテーションを経営した。
作物不毛の地セラードが活況を呈し始めたのは18世紀目前の世紀末である。ミナス・ジェライスで砂金が発見されたのである。人が移動すると道が開ける。沿岸部とポルトガル本国等から人口の大移動が起こった。ゴールドラッシュで100年間にブラジルの人口は10倍、300万人に増えた。ブラジル中部の内陸地方に経済活動の重心が移り、金を輸出し黒人奴隷と食料を輸入する港湾都市リオデジャネイロが首都に替わった。『ブラジルの歴史・・・50章』(明石書店  2022年)中の河合沙織氏論文より。
金鉱が衰えると町はさびれて荒野に点在する中継所同然になった。
教授が利用したことがある汽車の終点クイアバー(マト・グロッソ州都)も200年前に金で栄えた都市である。教授が出合った人々はみな挫折して夢が破れている。とくに一攫千金を夢見ていた砂金・ダイヤ探求者=ガリンペイロは敗残者そのものである。
ここから先の教授の紀行文は私の記憶の古層をくすぐって同時代を生きた気にさせてくれた。すこし寄り道をしたい。

サバンナでコブウシが草を食んでいる。屠殺場があり牛の肉と皮の乾燥場がある。数百メートルにわたって流れが牛の血で赤く染まっている。幼い記憶がよみがえった。Londrina市の名所 Igapo*湖公園はそのころ流れがゆるい沼っぽい川だった。その上流に屠殺場があったため流れは汚濁水と悪臭で満ちていた。木の橋板が朽ちかけた高い橋(Ponti Altaとよばれていた)が架かっていた。馬車で渡ったときラバが脚元を怖がって動こうとしなかったのを覚えている。
Iguasuなどの字頭の Iはグアラニー語で水の意(漢字の偏に類似)
教授が使ったトラックも木の橋や泥濘で難渋している。後者では丸太をトラックの2倍もの長さに敷き詰めて車を前進させ、それを繰り返したと綴っている。私が10歳の時の引っ越しで、それに近い経験をした。土砂降りの中トラックが泥濘にはまって後輪が空回りした。そのつど大人たちが木の枝を集めて車輪の下に敷いていた。
私はまた、教授たちが多難な旅の末、探求目的であったボロロ族の裸の男二人に初めて逢った際に、繩巻タバコを吸わせて交流を図ったこと(喫煙を意味するfumoフーモが唯一通じるコトバだった)に注目した。物心ついたころ、仕事の合間に労働者が、サラミ大の縄によった真っ黒な葉タバコを懐から取り出してナイフで削りとったものを玉蜀黍の薄皮で巻くのに見とれたことがあった。醗酵しているので煙草の甘酸っぱい芳香が子供心にも旨そうに感じられた。  

 「法王様のインディオ」

モンゴル系離れした顔立ちと戦士らしい面構えの彼はサレジオ会の宣教師による教化でポルトガル語の読み書きができるようになったジェ語族系ボロロ族のインテリ。教授の通訳をつとめ資料蒐集に協力した。
かつて、神父によって教化成功の生き証人としてローマに派遣され、法王に謁見を許された。村に帰ってからボロロ族伝来の生活習慣に回帰した。キリスト教式の結婚(洗礼を伴う)を勧められたことが脱会の契機になったらしい。
教授は、彼の装いを指して「素晴らしいボロロ社会学の教授であることを、身をもって示した」と評している。
かれが直面した相対立する西洋文明と「野蛮」の生活様式は彼の内面に「精神的な危機」をもたらした。教授は、その環状集落のケジャラ村で、ボロロ族の社会組織、信仰、生活、装飾を調査研究して、その根底に固有の構造があることを初めて学術的に明らかにした。



教授は、環状集落の俯瞰図を荷車の車輪に似ているという。そして家族の住居は輪に、男衆の家は轂(こしき)に、結婚した男が往復する住居に通じる小径は幅(や)に例えた。
集落は男衆の家を通る東西の線で二分されている。それぞれを半族という。南北の線は身分で半族を再分割するが、複雑になるのでパスする。
上図で仮に上の半族はT氏族、下の半族をC氏族とする。T氏族の男性はC氏族に属する母方の従姉妹と結婚する。女性は同様に父方の従兄弟と結婚する。半族間で行われる交差いとこ婚である。
結婚すると男は生家を離れて集落中央の男衆の家を経て女の家族と同居する。男にとって、ある年齢以上の者が集う「男の家」が息抜きになっている。
女は生家に住み続け、それを相続する。男の生家には母と姉妹が住み続ける。姉妹が結婚すればその結婚相手も同居する。
何とも込み入った姻戚関係である。原因については諸説あるが定説はない。単純に考えて、ライオンの雄が母親から追い出されるのと類似しているように感じる。
現象から考えると、身内の争いやインセストを避ける効果だけでなく、身内を広げて群れをつくり、交流のない部族との衝突、戦いに備える効果があることは確かである。
さらに、あらゆる社会的祭祀的行為は、相手方半族の補助、協力を前提としている。両半族は「各々がどれだけ完全に役目を果たし、気前よくしたかによって、優位を測られるのである。」
気前よく、損得・貸し借りではなく気前よく、これがかれらインデジェナの伝統的処世術でありアイデンティティの核心である。首長の資格も気前の良さの最大値で決まる。外来者も饗応にあずかる。ブラジル最初の開発移民団も先住民に援助を受けたことが知られている。

教授はケジャラ村は西洋文明に抗するボロロ族独立の「最後の砦」と言う。サレジオ会の宣教師が原住民文化を系統立てて研究して村が拠って立つ秘密を発見したからである。それを新たなイデオロギー措置として発動すれば先住民文化を「絶滅」できる。
東西に分かれた環状集落の家々を直線状に配置すると、巣箱を上下逆さまにされたミツバチ集団が本能の混乱をきたして巣を捨てて移動するがごとく、住民は、方向感覚が混乱して、群れとムラの伝統から「解放」される。野生生活ができなくなり保護区内で生活保護を受ける生活者になるほかない。「土人は怠け者で飲んだくれ」の偏見が定着する。

教授が同心円環状集落の典型としてボロロ族の集落を選んだのは賢明だった。ボロロの名が儀式の広場に由来するからである。ボロロ族は中部高原のゴイアスからマト・グロッソまでの広い地域にわたって、川沿いの森やそのそとに広がるサバンナで暮らしていた。
そのボロロ族を18世紀のゴールドラッシュに伴う東西道路の貫通が絶滅の危機に追いやった。植民者及び征伐軍との半世紀に及ぶ抵抗戦と外来伝染病で人口は激減し、教授をしてケジャラ村(人口150人)はボロロ文化最後の砦と言わしめた。村の行く末を案じていた教授は、アマゾン側シングー川水系に住む近縁(同じジェ語族)のカヤポ族も同じやり方で集落をつくることが知られている、と記している。
私はたまたまネットでカヤポ族の環状集落が写真・地図付きで紹介されているのに出会った。首長の決意表明を引用し、もって故レヴィ=ストロース(2009年没  享年101歳)への手向けの言葉としたい。
*京都外大ブラジルポルトガル語学科ブログより。2016年クリスマスの夜に放送予定の『所さんのビックリ村!』のブラジル先住民の村のVTR「監修」を依頼された住田育法先生の事後記事。
「現代文明がある程度入ってくるのは仕方がない。しかし、境界線を引いて、カヤポの文化に誇りをもって守っていかなければならない。だから、あのような祭を行っているんだ。」 


関東大震災/渦中の憂国虐殺と大正デモクラシーの凋落

2023-09-01 | 近現代史 大正時代の戦前

関東大震災から100年、追悼のイヴェントが盛況である。映画「福田村村事件」はずっと気にかけてきて観たくてたまらんが難聴で断念するほかない。百年を記念してこのブログの関連シリーズをタイトルだけ紹介したい。あまり知られていない話題を満載しているので、読んでいただけたら満足されると思う。2017年執筆の記事である。

「治安維持という名のテロ/平澤計七・川合善虎たち虐殺/関東大震災」04.21
「間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史」05.14
「関東大震災/朝鮮人ジェノサイド/四ツ木橋/名もなく遺骨もなく」05.27
「関東大震災/王希天暗殺/共謀して国が隠蔽」06.14
「関東大震災/中国人虐殺 なぜ?/王希天暗殺」06.30
「憲兵隊による世直しテロ/大杉栄夫妻と孫虐殺/大正社会運動の扼殺」07.23
「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」08.09
「早稲田の森の怪人/早大・小樽高商軍教事件/反動と抵抗」09.20


悲しき熱帯 上/パラナ編

2023-08-18 | 移動・植民・移民・移住

  1977年  中央公論社刊 原著は1955年刊 写真  猿を頭にのせた娘(ナンビクワラ族)

1935年、文化人類学者レヴィ=ストロースがサンパウロ大学を発って奥地の先住民集落の伝統、慣習の調査、民俗学上の蒐集のための探検旅行に向かった。このブログで長く付き合うことになる教授の氏名は長いので以下教授と略称する。

フランスと同じくらいの広さをもつサン・パウロ州は、1918年の地図によると、その三分の二が、「インディオ[トゥピ語族]のみによって居住されている未開の土地」であったが、私がそこへ着いた時には、海岸に押し込められた数家族から成る一団を除けば、もはや唯ひとりのインディオもいなかったのである。

1935年、教授は「1930頃までほとんど人間に汚されていないと言ってよかった」パラナの大森林地帯に入った。その最初の都市がLondrinaである。私がそこで生まれる3年前のことである。
鉄道が開通したばかりの駅がLondrinaで住民三千、開通予定のロランディアは六十、一番新しいアラポンガスは一人だった。懐かしい地名だ。私の故郷であり、それぞれにいとこたちが住んでいた。 
「細長い分譲地は、一方の端は道路に、他の端は各々の谷の底を流れている小流に接するように区切られている」。道路は尾根伝いに作られている。まるでウチの分譲地ロッチを見ているかのようだ。
パラナ州に居たIndigenaインデジェナ*についての教授の概観によると発見された当時ブラジル南部全体には言語・文化上の類縁関係をもつ諸集団ジェ語族が居住していた。かれらは沿岸全域を占拠していたトゥピ語族に圧迫されて防戦しながら大森林の奥深く逃げ込んだため、「植民者たちにたちまち殲滅されてしまったトゥピ語族より、何世紀も後まで生き残った」。パラナ、サンタ・カタリーナでは原始的なままの小さな群れが二十世紀まで、いくつかはおそらく1935年まで、維持されていた。
*今日インヂオ、土人、野蛮人なる用語はほぼ全世界で差別語となっている。原文以外はこれを踏まえてインデジェナ、先住民とする。

教授はパラナ州には「純粋な」先住民はもはや居ないという。そして政府保護下の生活の種々相を、見たかぎり細大漏らさず記述した。 
政府はサン・ジェロニモ村等を建設してジェ語族の定住を推進した。「束の間の文明の経験の中から、インディオたちは、ブラジル式の衣服、斧、ナイフ、縫い針だけを生活にに採り入れた」。村と家を捨て遊動生活に戻った。粗末な小屋か椰子の葉の差し掛けで雨と寒気をしのぎ地べたに寝た。
能率と効率は一顧だにされなかった。マッチ、銃そして万能のカネ。「彼らはしばしば、最小の出費で自分たちの知的調和を得る術を心得ていた。」 
教授より30年若い世代に属するわたしは、単刀直入に「彼らは、富と権力の集積を生む便利なモノと社会システムを自らのアイデンティティを破壊する危険な異物として意識的に無視した」と言い換えたい気持ちに駆られる。
教授がパラナのジャングルの小道で時たま出合ったインデジェナの家族はどんな生活をしていたのであろうか。
教授は出合ったインデジェナを遊牧民ならぬ遊動民と定義した。生業は、男性による狩りと女性による採取、取るに足らぬ農作業である。狩りの季節や木の実の季節になると家族はみな獲物を求めて移動する。
教授は農作業について短い記述を残している。「森の奥で時折、原住民の開墾地を横切ることがある。木で作った高い柵のあいだに、惨めな緑が数十平方メートルの土地を占めている。バナナ、甘藷、マンジョーカ[キャッサバ]、玉蜀黍など。」
土起こし、草取り等の耕作をしない自然農法である。それだけではない。わたしは、インデジェナを妻帯した(普通のことだった)ポルトガル人移住者が妻から農業を学んだという印象を受けた。日本人移民も先住民に農法を学んで鳥害、病害虫を予防した例がある。最初の稲作(確認できた)、アマゾンの一部トロピカルフルーツ栽培(ヒントを得た?)。原理は不耕・混栽で栽培種を雑草、密林の保護下におくことだ。
教授の蒐集活動は困難を極めた。教授は先住民のわずかな生活資材を安物のアクセサリーやカネで蒐集(今様では押し買い)することを恥じた。それでも道なき道を騎行と二輪の馬車・牛車隊で強行し、道中出合ったインデジェナと交渉して欲しいものを入手する職務の遂行に努めた。
教授は、インデジェナが激減した原因については、移住者が持ち込んだ伝染病と討伐については触れるだけで聞き取りをしていない。しかし、宣教師、移住者が意識的に時には無邪気に伝染させ、インデジェナの魂を押しつぶしたイデオロギー措置=蛆食い人種説については、みずから探求し実体験している。なお、人喰い人種説*には踏み入っていない。
蛆とは死体、糞便、生ゴミが水分を保っているときに湧く言わずと知れたハエ類の幼虫である。その悪臭、不潔、気味悪さに嫌悪感を抱かないヒトはいない。インデジェナとて同じだ。
*東洋に金と香料を求める西欧人は例外なく対象地の人喰い説を広めた。マルコポ-ロも黄金の国ジパングでは戦の捕虜が身代金が支払われない場合食べられたとしている。
インデジェナは白人からさんざん嘲笑を受けた屈辱感から甲虫類の幼虫コロを食べていることを外来者にかたく秘するに至った。教授は、熱病のため唯一人保護村に残された哀れな男にあれこれ手を尽して(最後の決め手は「俺たちはコロが食べたいんだよ」)コロ椰子の腐食した倒木に案内させて、蚕によく似た白い幼虫を捕って生で試食した。頭をちぎると胴体から白っぽいバターのような脂が出る。ココ椰子の「乳液のような風味」だった。
蛆なる翻訳の原文はどうなのか識らない。教授は何も注釈していない。体験談に真実を語らさせていると解釈したい。

私はグアラニー族の行方を追っている。教授が会いたがっているのが「純粋のインディオ」に近い先住民であることが解った。同床異夢になるが、広大湿地Pantanalを越えてマトグロッソに至る教授について行こう。


日本成女W杯代表、スペインに完勝

2023-08-04 | サッカー育成

12年前のW杯優勝以降、競技力の対外的地位が下がり続けていると感じていた成人女子代表*が上位のスペインに4-0で一方的な勝利を収めた。
*世界水準に追いついた成人代表に「女子」は失礼だろう。今後敬意を表して成女(男の場合成男)と呼ぶことにする。
勝因は、監督の堅守速攻の戦術が奏功したこと、そのチーム戦術を齟齬無くこなせた選手の技量、個人戦術の高さにある。
スペインはいわゆるポゼッション・フットボールで最初にW杯(成男)を制した実績を誇る。それゆえボール保持にこだわりすぎ、伝統が足かせになって、成男に続いて成女も、日本代表の戦術にはまってしまった。
日本は、トップを一人だけにして植木理子に前線でボールを追わせた。植木はエネルギー消耗をいとわず役割を忠実に果たした。攻めのシステム3-4-2-1。
残り十人は引いて三重の守備ブロックをつくった。守りのシステム5-4-1。そして相手にボールをつながせた。
先読みしてパスをカットするプレイを抑えた。最終ラインへの楔の縦パスはほぼすべてつながれたが、体を当てて奪いに行かなかった。寄せて前を向かせないだけで我慢した。相手は一度もペナルティエリアに侵入できなかった。FKやCKも少なかった。
危ないボールはつなぐことを考えずクリアした。中盤はボール保持者に寄せてプレッシャーをかけたが飛び込んでボールを奪おうとしなかった。
たまに奪ったボールとこぼれ球は、相手が近ければその素早い寄せに圧倒されてたちまちボールを失った。球際の強さではスペインが格上であることを思い知らされた。日本代表が球際の争奪戦にこだわらなかったのは賢明だったと思う。
フリーでボールを受けたとき中盤は、スペインの高めの守備ラインの裏めがけて、方針通り縦に走る2ないし3人(ワントップの植木、Wシャドウの、楢本、宮澤)に長目のボールを蹴った。3回の攻撃で前半3点を奪った。ボール保持率23%

サイドがボールを保持したとき、普通、前、横、後ろに同時にサポートがついてそこでボールをキープするのがポゼッション・フットボールの特徴であるが、そういう場面はほとんどなかった。敵のサイドにボールが入っても圧力を加えるが奪取行為をおさえていた。味方のサイドにボールが入ったときはボール保持のチームプレイではなく前に繋ぐことを優先させていた。
それが1点目につながった。レジェンド熊谷紗季からボールを受けた遠藤純はすかさず長目のボールを、DFの背後に走り込むトップの植木に向けて蹴った。ボールは3人のDFを抜けて、右サイドを駆け上がった宮澤ひなたに渡り、ひなたが出遅れの相手2人を振り切って得点した。守備者全体が前線に加わったわけではない。宮澤は一時的に脈があがったが数少ない上がりなので体力消耗とまでは行かなかっただろう。
一人を除いてたくまず省エネサッカーになったため後半も日本代表の集中力が途切れることはなかった。
後半の田中南美の得点は右サイド自陣でスローインを受けてからのドリブルで3人のDFを翻弄してのワールドクラスの美技だった。

4得点を許したスペインDFの無力には驚くが、成功体験を引きずるスペインサッカー全体の欠陥の現れであろう。攻めても守っても彼我のペナルティエリア付近で巧みなパスをまわすのがスペインのポゼッション・フットボールなのだから桶狭間的強襲には弱点をさらけ出しても不思議ではない。

劣位のチームが低いブロックからのカウンターで強豪を食う事例は、ここ2,3回のW杯でたびたび起こっている。今回の堅守速攻もその一つであるが、わたしの上記のつたない分析からでもわかるとおり、きわめて細心緻密であった。さらなる勝利も期待できるが、構造的不安もある。
アメリカを筆頭に欧米では地域に市民クラブがあり少女クラブが盛んである。日本ではW杯優勝のフィーヴァが底辺の広がりにあまりつながらなかった。そのせいで新生WEプロリーグは集客に苦戦している。
ノックダウンの決勝トーナメントが始まるが、強豪相手に球際のスピードで結果を出せるのかは未知だ。
特にノルウエー戦は平均身長で5.6cm劣るためヘディング・シュートで失点負けする不安がある。GK以外の170cm以上の選手は、日本はDFの3人だけ、攻撃陣にも1人欲しい。ノルウエーは12人。
地域のクラブが充実していれば幼時から身長を大きくする指導がなされる。わたしが男子中心のクラブで監督をしていたとき、牛乳・卵等の完全食材接取と早寝(成長ホルモンが働く1時間半前に就寝)を強調し続けていた。身長を決めるのは遺伝ではない、食事だ、とする信念からである。
ちなみに20代男女の平均身長はそれぞれ171.5cmと157.5cmであるが、20代女性の平均身長はは2022年までの10年間伸びていない。


三里塚フィールドワークに参加/三里塚大地共有運動の会主催

2023-07-15 | 近現代史 空港反対同盟の戦い

7月2日にマイクロバス2台で一日かけて回った。参加者40人の内10人が青年男女だった。
岩山歴史館、木の根ペンション、東峰共同墓地&らっきょう工場、横堀鉄塔と横堀農業センターを見学し、大木よねさんをはじめ戦い続けて倒れた活動家の墓碑に祈りを捧げた。
それぞれの拠点で責任者の説明があったが、難聴のせいで一言も聞き取れなかった。もったいないが仕方がない。
もっとも印象に残ったのは50年以上の歳月が刻んだ大地の変容だった。拠点に行く狭い道は、高い金属板?に挟まれあるいはトンネルをくぐり、まるで迷路のようであった。横堀鉄塔は頂上である4階(先端部分は撤去されていた)まで上がることが可能だったが、まわりを囲む孟宗竹に視界をさえぎられていそうだ。
一度も切られることなく伸び放題に伸びた孟宗竹は、妙齢女性の胴回りほどの太さだった。その孟宗竹の周囲を空港会社のさらに高いネットと柱が包囲していた。鉄塔からの投石等に備えるためと訊いた。無人の鉄塔に対して監視塔から常時有人監視が行われている状況に、三里塚闘争が終わってないことを思い知らされた。



各拠点が畳敷きの合宿所を維持管理していることにも土地収用に対する闘争が継続している証しを見た。木の根ペンションのプールは改装済みだった。今後合宿イヴェントが組まれると思う。
豚汁の差し入れをいただいて、木陰で持参の弁当を開いた。



かねてから期待していた目的は、わが身の不調もあって何一つ達成できなかった。
始終戦いに生き、今後も多古町で第三滑走路に反対し続ける加瀬勉翁には逢って731部隊研究論文を所望したかった。岩山在住の柳川秀夫氏には地球環境に配慮した農業と腹八分目生活の生きたモデルを見せてもらいたかった。今回事情合ってお二人の登場はなかった。
かつてお世話になった石井節子さんには直接会って、故石井英佑さんに対する不義理を詫び。墓参りしたい、と希望をいだいているが、今回は叶うべくもなかった。石井夫妻と辺田部落に、僭越ながら、かつて三池闘争でヨロン人がコミュニティを創り上げる上で力となった大牟田与論会のモットーを、賛歌として捧げる。部落決議で集団移住を選んで営農とコミュニティを護ったかの人々こそ、このモットーにふさわしいと考えるからである。
服従ハスルモ屈服ハスルナ 常ニ自尊ヲ保テ

与論の民謡が歌い上げる処世訓も掲げておこう。 
 打ちじゃしょりじゃしょり 誠打ちじゃしょり
 誠打ちじゃしば ぬ 恥かしやんが 
誠を打ち出せば何も恥じることはない、という意味である。
【参考】当ブログ「ヨロン人と三池闘争/離島差別と戦った歴史」2016.11.18




 

 

 


Londrinaが照射するアマゾンより南の生物多様性の喪失

2023-06-02 | 移動・植民・移民・移住

手つかずの原始林と言えば誰しもアマゾンの広大な流域を想像するだろう。つい100年前までアマゾンにつぐ大森林地帯(アマゾンの4分の1)の熱帯雨林と亜熱帯常緑広葉樹林がブラジルの中・南部を覆っていた。Londrinaはその南限にあたり、それより南部は冷涼気候でパラナ松という針葉樹の巨木が多くなる。
MATA ATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と総称され、海抜600~1000mと表現される波打つ高原の森林は、大航海時代以来植民地化と開拓により徐々に失われ、現在ではもとの7%弱しか残っていない。今日、森林が残っているのは、傾斜地や環境保全地域などに限られている。
道路で分断され、孤島状になった保護地区の森林は生物種の宝庫であるが、その多くが絶滅の危機にさらされている。たとえばジャガー(現地名オンサ)は270頭ぐらいしかいない。
パラナ州では伐採、山焼きと同時に大型獣と野生の樹木はほぼ姿を消した。わたしはLondrina周辺のことしか知らないが、掘っ立て小屋の材料と開拓中の食糧となった椰子パルミット、それから故郷の桜を連想させて移民の郷愁を誘った山桜のようなイペーは消滅した。


Londrina州立大学の絵葉書から イペーの花  撮影 R.R.Rufino 

ウチの農場近くに孤立した原生林があった。むせかえるような緑とひんやりとした湿気、樹木が発する香りと腐葉土の匂いに包まれると、身も心も洗われる心地がしたものだ。森林浴効果という昨今の表現が“ぴったりである。
1991年に44年ぶりに里帰りしたとき、森林の面影は、幹と樹冠だけの天を衝く巨木perobaが数本往時を偲ばせているだけだった。ジャングルはそっくり州立総合大学のキャンパスに変っていて、大学はシンボルツリーにちなんでPero
bauと愛称されていた。若い学生たちは、かつてサルやトリの声が森中に木魂していた状況を想像できるだろうか。
野生の小生物で生き残ったのは、地を這い穴に潜る習性をもつものである。私の体験では、アルマジロ=現地名タツー、トカゲ、ヤマアラシ、ガラガラヘビをふくむ小型蛇類、大型カタツムリ、サソリ、アリ等である。シカ、イノシシ、サルは見なかった。
空を飛ぶ鳥類も開拓地で餌を得られるものだけになった。タカ類と死肉を漁る黒コンドル、スズメに似たチコチコ、ノバト等である。かつて無数に翔んでいたはずのインコ類はユーカリの実を食べるチリーバ1種しか飛来しなかった。湿地、沼沢地の生き物はこの限りでない。
最大の被害者は先住民のグアラニー族である。パラナ(海のような大河)、イグアスー(暴れる水)はグアラニー族が命名したものである。ウチの農場の湿地にあった湧き水の周りで土器の欠片を拾った記憶がある。小さな集団が生活した痕跡という感じだった。
想像だがグアラニー族は開拓前線が広がるに連れて移動と同化によりパラナ州から姿を消したと思われる。
パラナ州より南部の2州には、かつて多くの集落がありイエズス会宣教師の指導の下に「理想郷」を営む布教村もあった。
パラナ州の西に隣接するパラグアイではグアラニー語がスペイン語とともに公用語になっている。白人との
混血95%、グアラニー族2%という人種構成を見る限り、グアラニー人はパラグアイではアイデンティティを確立している。

次章で、そこに至るグアラニー族の苦難の歴史(グアラニー戦争)に立ち寄ることにする。


狭山事件60年 再審の開始に動き出せ

2023-05-10 | 狭山事件

正義の女神像

表題は中日新聞・東京新聞の5月10日の社説の見出しそのものである。
今話題の対話型検索で「狭山事件関連の最新記事の収集がほぼ無いのはなぜか」と訊いてみた。回答は「申し訳ありませんが、現在のウェブページコンテキストには狭山事件に関する最新記事が含まれていないようです」であった。
詳細情報としてjapan wikiと上掲社説のリンクが貼ってあった。

当gooblogの狭山事件連載記事もデータバンクから洩れてしまっている。狭山事件60年を期して「新説  狭山事件」で若者の関心を惹こうとしたが、発信スキルが足らなかったようだ。

再審の門は開かずの扉と云われている。これまでに再審の事例は数えるほどしかないが、扉が開いたのは、勇気ある裁判官が裁判所から外に出て自ら事実調べを指揮した場合だけである。
社説が毅然と独自の主張をしていることに敬意を表したい。
「裁判所は再審の可否を公正に判断するため、職権に基づく独自の鑑定や鑑定人への尋問など事実調べを行うべきだ。」


破壊的スピードの発展/Londrina開拓に見る

2023-05-09 | 移動・植民・移民・移住

アマゾンの1頭の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす、というたとえ話がある。近年自然破壊による地球温暖化と異常気象が生物の生存を脅かすに至って、非常に小さな事象の集積が大きな変動につながる、という意味で、バタフライ効果が現実味を帯びてきた。
まずは小さなロンドンLondrinaの物語から始める・・・。
1929年、ブラジル南部のパラナ州の密林に、イギリス資本の北パラナ土地開発会社の本拠が置かれた。地名はロンドンにちなんでロンドリナと名付けられた。10アルケイル=24.2ヘクタール≒24町歩に小分けされた分譲地に、東部のサンパウロ州から多くの日本人移民が移住した。
私の父母になる男女はそれぞれ1933年と1934年に移住し密林を開拓した。市のメモリアルにパイオニアとして記名されている。
開拓会社はまず鉄道を敷き、サンパウロの貿易港サントスに至る鉄道網に繋いだ。それにより、世界的に需要が高まったcafé の輸出で大発展する礎が築かれ、ロンドリナは数年で都市化し1934市制が敷かれた。翌年父母が結婚し1938年わたしが誕生した。
一連の写真で環境と生活の変貌を伝える・・・。

21世紀初頭のロンドリナ市のパノラマである。
開拓期の手前Igapo湖の写真(同位置)を下に掲載する。

近くの粘土地帯に母方の父母、兄弟がれんが-かわら工場を建設して成功を収めた。父は赤土の丘陵地帯にコーヒー農場を開いた。両地とも今では市街地に変貌して昔の面影はない。
残念ながら開拓を象徴する大木の伐採と天を焦がす山焼きは撮影されてない。開拓の道具は揃えたがどの家族もカメラをもっていなかったからである。とりあえず写真数葉を掲載する。

我が家の農地にも同様の切り株があった。足場を設置して写真の上端あたりで二人挽き大鋸で伐採した。切り株から食べられるキノコが採れたことをわたしは記憶している。

1938年母方長男結婚記念写真 後列左端父、前列左母と私(お腹の中8か月) 
ほかは母の父母ときょうだい

掘っ立て小屋で誕生 3カ月 

母方一家の煉瓦-瓦工場 背景に切り残りの樹木と大邸宅

私が10歳のころ、わが一家は帰国前に一時ここに身を寄せた。煉瓦積みを手伝って小遣いをもらったことがあった。手前の湿地帯で小鳥、小魚を捕った。手作りのパチンコ、釣竿で。


1940年頃 我が家の農場  実が生りはじめる樹齢4年ぐらいのコーヒの樹   

80年ほどでジャングルがコンクリートジャングルに変貌した。振り返って、その広がりとスピードの影響におののいている。地球環境はそのストレスに耐えかね悲鳴を上げはじめた。
生態系は商品作物と牧場にとってかわった。高原の赤土は洗い流され化学肥料と農薬なしでは大豆も牛も育たない。次章で失われた生物多様性を体験的に綴る。
  


「移動・植民・移民・移住」が人類史を刻む

2023-04-29 | 移動・植民・移民・移住

プーチンが発動したウクライナ侵略戦争を俟つまでもなく、戦争が人類の歴史に転機をもたらしてきた。それぞれの戦争の原因を探るとき必ず顔を出すのが表題の四つのキーワードのいずれかである。
私の高校教科書程度の知識でも、ゲルマン人の大移動、ギリシャ・ローマ人の東方植民、ポルトガル・スペイン・イギリス人の新大陸植民、日本人の朝鮮・満州植民と南北アメリカ大陸移民を容易に例示できる。
そして植民、移民が移住先で先住民を圧迫しその生活圏を脅かす。日本の場合で言うと「居留民」が日韓併合、中国侵略の火種になった歴史を挙げることができる。ウクライナの場合は火種の淵源は、ロシア系のルーツにまでさかのぼらねばならない。
わたしはブラジル移民の子である。体系的に大小の歴史を論じることはやりたくてもできないが、四つのキーワードの間を飛び交いながら、毎回読み切りのストーリ、ヒストリーを、ときには体験をまじえて綴ることができる。前置き終わり


裁判所は証人尋問とインクの鑑定を!

2023-04-07 | 狭山事件

これは、春分の日に大阪西成区民センターで開催された石川さん再審を求める市民の集いin関西のスローガンである。
前日の袴田さん再審決定を受けて500人収容の会場が盛況だった。府内のコロナ感染者が数百人にまで落ち着いて来たので私も参加した。石川さん再審運動の最近の情勢を感じ取ることができた。

スローガンにみられるとおり、運動の目標がすっきりと整理された。さらに、露新の話芸、指宿弁護士の報告、石川夫妻-袴田秀子さんのビデオアピール、それから青木恵子-西山美香-金聖雄-ノジマミカさんによる冤罪トークセッションで、狭き門となっている再審法を改正して、証拠開示のルールを設ける必要性がくりかえし強調された。
ちょっと不満が残った。無辜の市民の冤罪は真犯人の免罪であることに誰も触れなかったことである。運動にとって一般市民に支援の輪を広げることが肝要であるのだから、一般市民がいちばん乗りやすいスローガンも掲げるべきだ。
このスローガンは、警察、検察と裁判所のもっとも痛いところをついて、その本分と責務に目覚めさせるうえでも有効であると考える。
最後に和太鼓の演奏があった。ドド~ン、まさか肺腑に響くとは知らなかった。たちまち頭が空っぽになった。同時に無心になり感情を失った。すると涙腺が開いたのか涙が流れ出した。はじめての体験だった。
50年ぶりにデモに加わった。交通整理の警官に急かされて
何とかしんがりについて行けた。夜、風呂に入っているとき両太ももの筋肉がつった。


生ゴミで野菜作り/実験結果の報告

2023-04-03 | エコロジーLife

  ジョウビタキ  オス 山田池で孫娘が撮影

春分の日の翌日、ウチの「菜園」に可愛いお客さんが訪れた。ガラス戸越しに観られているとも知らずぴょんぴょん跳ねて餌をあさっていた。ネットで調べてジョウビタキのオスとわかった。ほかにスズメ、キジバトがよく来る。鳥が来るほどにわが「エコ菜園」の実験は成功した、と自負している。
まず季節の野菜が、種蒔きしたものはすべて収穫できた。ターサイ、サニーレタス、ブロッコリー、カリフラワー、ネギ、ミズナ、セリ、イタリンパセリー、クレソン。さらに夏野菜のタマネギ、ソラマメが順調に育っている。

浅いプランター、浅鉢は避けたほうがよい。深いプランターと10号以上の鉢が望ましい。クレソン、パセリのように小振りの野菜なら8,9号鉢でOK.
深い容器70個ばかりの内2個で、糠を入れ過ぎたため固い糠の層ができて通気、排水が阻害され、生ごみがヘドロ化して腐敗臭を放った。それでも、ターサイは根が浅いため収穫には影響なしだった。ほかの容器では生ごみは発酵して土に還っていた。

夏野菜の植え付けに向けて容器をひっくり返して、土壌を乾燥消毒した。これからまた、牛糞、鶏糞、苦土石灰と自家製木灰を加えて、前作と同じ手順を踏むことになる。
連作障害は考慮しない。トマトの後に今年もトマトを植える。生ごみを土に還し肥料を追加しているから必要成分はもれなく循環しているはずだ。これに前世紀のように糞尿も利用できたならパーフェクトなんだが・・・。
鎖国下の江戸百万都市は糞尿肥料「下肥」のお陰で持続できた。今の日本では、都市の下水汚泥、焼却灰は、重金属を分離する技術とインフラが開発できていないため肥料に利用できない。
食糧自給率実質10%!  都市化した日本は経済封鎖に耐えられない。肥料だけでなく飼料、燃料の欠乏が食糧生産のネックになる。


生ゴミで野菜作り/失敗と命拾い

2023-03-18 | エコロジーLife

  蕾をつけたターサイ

日課の一つ、露天車庫に容器を並べた野菜作りについて綴る・・・。
我が家では20年ほど前から生ごみをいっさい収集に出していない。ぼかし肥料にして季節の野菜を作っている。
プラスティックの大きなゴミ入れを五つ買って生ごみと米糠を交互に入れて蓋をしておく。冬場はいいが夏場は蛆がわいて悪臭に悩まされ続けた。今にして思えば、土をかぶせておけばよかった。
昨秋、思い付きで、プランターと鉢に直接生ゴミを入れて糠、土をかぶせ、続けざまにターサイの種を蒔いた。生ゴミが醗酵して野菜が取れなくても、蛆に悩まされずに肥料と土づくりが同時にできる、と踏んでの実験だった。
結果は上々、ターサイが出来すぎて困っている。ターサイは白菜と同科の寒冷に耐える中国野菜、この冬の積雪にもびくともせず生長し、春到来を待っていたかのように蕾をつけている。自家用で毎日一株消費しているが追いつかない。とうが立ちはじめた。配布先も尽きた。明日から菜の花をゴマだれで食べるとするか。

昨年の春はネギの出来過ぎで事件が起きた。近所とこども3家族に配ったが、処分しきれなかった。自分がネギ漬けになるほかなかった。わたしは、もったいなくて捨てられない、そんな性分である。
やがて前からあった倦怠感を伴った胃の膨満感が下腹部にまで広がった。我慢できず病院で検査するとポリープで大腸が閉塞していた。内視鏡がどうしても上行結腸に入らなかった。 
ネギを食べ過ぎて食物繊維が大腸に詰まったことで大腸癌の早期発見につながった。失敗のお陰でギリギリのところ、ステージⅡで癌を発見できて転移に至らないで済んだ。


狭山事件/犯人を指し示す被害者遺留品/雑木林は見た「完全犯罪と権力犯罪の3次元交差」

2023-02-24 | 狭山事件


5月3日午前0時すぎに犯人を取り逃がした警察は朝から機動隊と消防団の手を借りて鎌倉街道から南へ向かって山狩り捜策をおこなった。そして早々と自転車のゴム紐を発見して領置した。発見者は、狭山署交通課の関巡査部長である。そのご捜査本部に認められて取調補助員となって石川青年の「自白」引き出しと重要な「物証発見」で捜査本部の期待に応えた。彼はかつて菅原四丁目に居住して、石川青年がキャッチャーをつとめた菅四ジャイアンツの世話役だった。
発見場所が雑木林の端っこではなく中心部であることに意味がある。犯人が、地元不良によって強姦、殺害がおこなわれた、と印象付ける意図で工作を行なったのだ。ゴム紐発見後、当然、付近はくまなく捜策されたが、ほかには何も発見されなかった。
翌4日に、ゴム紐発見場所からさらに南西の農道で死体が発見されるに及んで、特捜本部は殺害場所を当初誰もが推定していた薬研坂の雑木林からずっと西寄りの雑木林に変更することを余儀なくされた。ゴム紐発見場所では農道から道なりで1km近く離れていて 遠すぎる。もっとも手近な「4本杉」と呼ばれた道なりで200mの雑木林が候補にあがった。
そこへ6日夕方「4本杉」前で木綿紐の切れ端発見の報が入った。発見者は県警中刑事部長である。その地点は昼間の捜索隊の山狩りで地下足袋と並んで自転車のタイヤ跡が発見された、と報道されている地点と同じ場所である。でっちあげをもいとわぬ最初の工作が6日に特捜本部長自らの手でおこなわれたと考える。
当時の県警には、あらかじめ自白強要のためのネタ(虚偽の物証、証言)を仕掛ける悪弊があった。佐木隆三『ドキュメント 狭山事件』によると、1955年の熊谷市せつ子さん殺害事件では指輪、狭山事件では万年筆、そして両事件の取調主任官は奇しくも県警捜査一課清水警部である。
8日捜査本部は、手詰まりを打開すべく捜査員210人を投入したシラミつぶしの体制で五度目の山狩りと聞き込みを行なった。「午後から死体発見現場、ゴム紐発見地点を中心に遺留品の捜索、犯人の足取り捜索を行ない」また民間ヘリコプターで航空写真を撮った(埼玉読売9日朝刊)
11日夕方死体発見現場近くの麦畑で耕作者によってスコップが発見された。スコップは捜査の的を養豚場に絞る「物証」とされた。
しかるに上記埼玉読売9日朝刊1面TOPに、被害者が「埋められていた麦畑を[8日に]捜索する機動隊員」が大写しされている。山狩り終了後二日の間に捜査本部が仕組んだとしか考えられない。再度のネタ仕掛けである。
5月23日石川青年が「筆跡一致→恐喝未遂」容疑で逮捕された。
5月25日教科書、ノート類が自転車のゴム紐が発見された場所から直線で150mほど離れた溝で草取り中の耕作者によって発見された。なぜかニュース価値がひくく、資料がすくない。県警はひたすらカバンを追い続けた。自供による「発見」に賭けているかのようである。
6月17日、石川青年がいったん保釈され、直後に本件強殺容疑で再逮捕(肩透かし逮捕)され、川越署分室(特別取調室)に移送、厳重隔離された。石川青年以外に容疑者はなく保釈すれば後がない状況での見込み捜査(筆跡鑑定書以外証拠がなかった)への大ジャンプだった。
決断に当たって警察庁、関東管区警察局、県警-高検幹部の間で議論が紛糾した。それでも決行したのは特捜本部がカバンをすでに押収していたからと推理する。
6月21日石川青年が書いた略図に基づいて関巡査部長がカバンをゴム紐発見場所から56m離れた溝で発見し掘り出した。離れた所で麦刈りをしていた人が呼ばれて掘り出された後の現場立会人にされた。4週間前のゴム紐発見者と同一人物である。実況見分作成者は関巡査部長であった。
[自供によって]発見されたされたカバン     警察が出した品触れ  カバンと万年筆
   

写真コピーはいずれも証拠開示された物である。
発見されたカバンは、一見しただけで、品触れと型が同じである。5月8日付けの品触れカバン は「濃い茶色の革製カバン」となっている。5月2日父親が狭山署員に供述した調書では「カバンは薄茶色の一見革製に見えるチャック付と申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行カバン」となっている。
二つのカバンが同一物であるかないか、弁護団が検証すれば容易に判る。品触れには擦りきずが明瞭である。同定の鑑定がなされると立ちどころに石川さん再審無罪の新たな証拠となる。
一説に「長兄が東北旅行で[のために?]買ってきたものを被害者が使っていたと云う」のがあるが、出どころを確認できない。発見されたカバンが被害者の物であると長兄が後に確認している。

6月25日上田県警本部長、石川青年の単独犯行自供を正式発表。「自白にもとづいてカバンを発見したということです。」

この間、特捜本部は、再逮捕後かん口令を敷き捜査の状況・方針が洩れないよう有形無形の壁を作っている。狭山所長(特捜本部次長)の電話機に録音機を取り付けたほどである。

5次以上にわたる山狩り捜索で発見に至らなかったカバン・・・。
捜索隊は当初から、消防団本部長から地元の事情に即した「根除け堀を見ろ」「芋穴を見ろ」と云った細かい注意を受けていた。漫然と「場所」を捜索したのではなく「地点spot」を重点的に探していた。
カバンが発見された溝は、雑木林の木の根が畑に伸びないように掘削された堀(ヘッジ)である。「堀」は百姓の知恵の産物である。経験のない者には解らない。
捜索隊の重点捜査でも発見されなかったカバンが捜査本部チームによって発見された。カバンは捜査本部によって埋められ掘り出された切り札的ネタだったという疑惑が浮かぶ。
バラバラの「地点」を視覚化した写真と「地点」間の距離を示す図面を掲げて、本題に移る。



捜査本部が拠り所とする「物証」は私にとっても犯人を推定する物証となる・・・。
犯人は、不都合なメモが入っているリスクを回避するためにカバンを開いて万年筆、筆箱、手帳、財布もろとも不老川に流した。前章で私はそのように推理した。それを承けて推理の是非を検証する。
一審公判で開示された中身の教科書・ノート類目録(発見当日の押収記録)について殿岡氏の分析を借りる。[]内は私の考えである。殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』(2012年)
当日の教科
1時限目 ペン習字 ペン習字教科書(全員が買い当日使った「ペン習字手本」)がない。代わりに堀兼中学3年時の硬筆練習帳(署名等あるも本体は未使用)があった。[署名=被害者名  以下同じ]
[警察が当日の担当教師に提出させた「習字浄書」だけが本物である。開示された浄書を使って、弁護団がインク成分を科学分析した鑑定書を第3次再審請求の一環として高裁に提出して現在に至っている。
浄書のインク成分にはクロムが入っている。石川青年宅で「発見」された万年筆が被害者の所有物であることを確認するためにそれを使って長兄が試し書きした数字12345・・・のインク跡にはクロム成分が無い。証拠の万年筆は特捜本部が仕掛けた別物である。]
2~4時限目 料理実習(カレー)   「教科書(家庭一般)*」に挟まれていた献立表らしきメモに堀兼中、署名。
5時限目 音楽 「教科書(高校の音楽)*」 音楽用ノート(補修用、3年、署名)
6時限目 英語 「中教出版の教科書」(中学3年時のもの)
「NEW START ENGLISH*」 [ 検索すると☞ 開隆堂  1962年   1963年度入学と矛盾しない。]
「ユニバース英語辞典*」[検索☞高校・一般用『ユニヴァース英和辞典』稲村松雄・梶木隆一共編 小学館 1960年  634P これも矛盾しない。]
[2年定時制で普通科なみの英語教科書、辞典を使うだろうか、疑問である。] 
ほかに「女学生の友」5月号*とノート5冊。その内の一つ「ルーズリーフ」裏側の袋に歯科医による堀兼中学校長宛証明書が入っていた。
これらの物が被害者のものであることを長兄が一審公判で支離滅裂の理由をつけて確認している。
中学3年時の物は各時限に1点ずつ在るが、確かに高校時に使用したと証明できる高校向けの物はノートをふくめて1点もない。署名も書き込みもつまり使用の痕跡が無いのである。*印の物は街で買い求めることができる。
以上をもって、これらの物が被害者の家にあったこと、そして被害当日カバンの中にあって死体埋没後隠滅された真正被害品の代用物にされたことを明らかにできたと思う。

以上の点検から、不都合メモが出る危険回避のため、教科書、ノート類は犯人によって5月1日にカバンと一緒に川に流された、とした前章の推理は、一点を除いて、妥当だった、と結論できる。
カバンについては修正をしなければならない。カバンは犯人が死体埋没のあと、後始末の一環として車内座席にリスクの有りそうな中身を出して、カバンだけを現場に放置した、と推理する。
現場のどこかについて伊吹隼人氏が深く長く追及している。まず伊吹氏がブログに掲載している週刊朝日(1977.8.26)の長文記事を紹介する。死体発見者として公判で証言した消防団員は記者の問い「法廷で証言していますね」に「穴を見つけたっていったことですからね。あとは何にもわかりません」と答えている。自分は掘り返していないし死体を見ていない、と言っている。おのずとダミーであることを語っているかのようである。
仕方なく記者は紙幅を埋めるため一審での証言を掲載している。応答が長いので要約する。地表の地割れを見つけ、30センチぐらい手で堀って腕がちょっと見えたので中止した、と証言している。下線部は実情と食い違っている。
一方最初の発見者として現場と捜査本部で2度供述した消防団員は発見の経過から現場保存の実行まで記者の問いに臨場感あふれる返答をしている。荒縄を引っ張ると手が出てきた時の「ワァー」とか、現場保存後ペアを組む機動隊員が吹いた呼子の音色「ピー」とか、読んでいて情景が目に浮かぶ。
その中に「私が見つけたのは見てすぐ[被害者]の持ち物だと思わせるようなものだった」、「カバンだったか、上着だったか・・・」と言葉を濁した一節がある。前の秋、佐木隆三氏のために現地取材をしたルポライターの栗崎ゆたか氏に「イモ穴にカバンがあって、警察が保管してあった」とはっきり答えている。その証言の反響の大きさを気にしたのか言葉をぼかしている。
後年(事件46年後78歳)伊吹氏自身のインタビューに応じたときの2度にわたる証言では、イモ穴か茶垣の根元かでブレがあるが、カバンがあった、中身は見ていない、機動隊員が一緒だったから、と言っている。
警察官に2度供述した彼が調書を残さず検事側の証言者として呼ばれなかった理由はカバン目撃者であるからだと誰しも思うに違いない。

以上の検証で、「発見された教科書、ノート類」は「発見」の日を入れて25日間、カバンは52日間、雨が降ると小川のようになる堀に埋められていたのではなく、偽物の教科書、ノート類は犯人の手元に、カバンは特捜本部の手中にあった(土中を排除しない)、と云える。最初のネタ仕掛け(カバンが農道で押収され品触れに使われたことを指す)が5月4日死体発見日にまでさかのぼることになる。自作ストーリの驚愕の結末にわれながらぞっとする。
そして、捜査の進展とシンクロして、偽物の教科書、ノート類は雑木林に見付かりやすいように並べて置かれた。教科書、ノート類は石川青年を身代わり犯人にするために、カバンは犯人をでっち上げて、失態で失った警察の信用を回復しその威信を保つ奥の手として、雑木林に仕掛けられた。
雑木林で図らずも完全犯罪と権力犯罪とが3次元的に交差したと結論する。
それぞれのブツの出どころが、完全犯罪の犯人と権力犯罪の犯人をあぶり出している。時間と司法の壁によって犯罪者達が罰せられることは永遠に無い。被害者の無念と石川さんの人生を思いやりつつ終章を閉じる。いつの日か小説「完全犯罪  狭山事件」のヒントになってくれたら・・・、と秘かに願っている。


狭山事件/最終目撃地点/被害者の足取りと時間

2023-02-03 | 狭山事件

長年の懸案だった狭山事件のもろもろの現場を地図上でどうにか確認できるようになった。
最終目撃者奥富少年(被害者の1年後輩、堀兼中学3年)が「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5月5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「澤の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その地点を今回地図上印で視覚化することができた。

その認識に至る経緯は次の通りである。
当時西武川越新宿線の円弧内側は、工業団地、住宅団地の開発が始まったばかりの農村で、道路は未整備、その正式名はなかった。週刊埼玉の記者亀井さんでさえ加差志街道は沢街道とも云うと書いている。通称加差志街道は市役所(駅の反対側)から見て加差志集落に通じるといった程度の通称であり、奥富少年でさえその通称を知っていたかどうか疑わしい。堀兼部落の佐野屋から見た「沢の道」(現126号線)についても同様のことが言える。「澤の道地内 jinai」に注目すると、目撃スポットは、沢の道地域内の畑の中の道、ということになる。 
関口自転車店は沢部落のランドマークとして使われたにすぎない。東中学校に行くのにわざわざ沢街道を西に進み遠回りするはずがない。また、被害者が第一ガード下から西武線沿いに北上する理由もない。
奥富少年の証言は事件直後5日のものであり最後の目撃者として信用できる。ただ野球に関わることがらについては、小さな嘘をつく動機があった。野球部は当日練習するか決勝戦見学に行くか合議して見学に決まった。3年生として後輩を引っ張る立場にありながら理由もなく遅れて会場に行っている。
野球部監督の第二ゲートで被害者に声をかけたという証言は、事件後7年以上あとのものであることから、甲斐仁志氏によって記憶違いとして否定されている。

私は被害者が学校を出た時間は3時30分ごろで決まりだと思う。甲斐氏は下校時間について、降雨時間をからめて全証言を丁寧に比較検討して、2時35分過ぎに下校したと結論している。特に重視しているのが小-中学時代からの同級生の証言である。5月2日の警察に対する供述では「授業が終わると、雨が降ってきたから早くかえる」と言って帰った(この調書は未開示である)。5月29日の検察調書では「授業が終わって一寸卓球をして・・・三時半頃、私にさようならと言って帰りました」となっている。私は自説の筋書きに合わせて3時半頃説を採用する。容疑対象者が120人もいる時点で検察が供述を誘導して調書を作る必要性は皆無だからである。
わたしは、被害者が3時半頃に学校を出て「4時に第一ガード、会えなかったら加差志街道→浜街道で会おう」と告げられた通りの行動をとった、と考えている。そして浜街道かその手前で出会い、近くの雑木林の人目につかない所で、車内で殺害された、という前章の記事を再確認する。

既出記事の内容と重複したところがあるが、次章に進むためには、どうしても被害者の納得のいく足取りを地図上で確認する必要があった。壁を突破するための後ずさりと理解してほしい。

この章は、結論は異なるが、甲斐仁志氏『最終推理  狭山事件』(明石書店  2014年)に負うところが多い。