蕾をつけたターサイ
日課の一つ、露天車庫に容器を並べた野菜作りについて綴る・・・。
我が家では20年ほど前から生ごみをいっさい収集に出していない。ぼかし肥料にして季節の野菜を作っている。
プラスティックの大きなゴミ入れを五つ買って生ごみと米糠を交互に入れて蓋をしておく。冬場はいいが夏場は蛆がわいて悪臭に悩まされ続けた。今にして思えば、土をかぶせておけばよかった。
昨秋、思い付きで、プランターと鉢に直接生ゴミを入れて糠、土をかぶせ、続けざまにターサイの種を蒔いた。生ゴミが醗酵して野菜が取れなくても、蛆に悩まされずに肥料と土づくりが同時にできる、と踏んでの実験だった。
結果は上々、ターサイが出来すぎて困っている。ターサイは白菜と同科の寒冷に耐える中国野菜、この冬の積雪にもびくともせず生長し、春到来を待っていたかのように蕾をつけている。自家用で毎日一株消費しているが追いつかない。とうが立ちはじめた。配布先も尽きた。明日から菜の花をゴマだれで食べるとするか。
昨年の春はネギの出来過ぎで事件が起きた。近所とこども3家族に配ったが、処分しきれなかった。自分がネギ漬けになるほかなかった。わたしは、もったいなくて捨てられない、そんな性分である。
やがて前からあった倦怠感を伴った胃の膨満感が下腹部にまで広がった。我慢できず病院で検査するとポリープで大腸が閉塞していた。内視鏡がどうしても上行結腸に入らなかった。
ネギを食べ過ぎて食物繊維が大腸に詰まったことで大腸癌の早期発見につながった。失敗のお陰でギリギリのところ、ステージⅡで癌を発見できて転移に至らないで済んだ。
5月3日午前0時すぎに犯人を取り逃がした警察は朝から機動隊と消防団の手を借りて鎌倉街道から南へ向かって山狩り捜策をおこなった。そして早々と自転車のゴム紐を発見して領置した。発見者は、狭山署交通課の関巡査部長である。そのご捜査本部に認められて取調補助員となって石川青年の「自白」引き出しと重要な「物証発見」で捜査本部の期待に応えた。彼はかつて菅原四丁目に居住して、石川青年がキャッチャーをつとめた菅四ジャイアンツの世話役だった。
発見場所が雑木林の端っこではなく中心部であることに意味がある。犯人が、地元不良によって強姦、殺害がおこなわれた、と印象付ける意図で工作を行なったのだ。ゴム紐発見後、当然、付近はくまなく捜策されたが、ほかには何も発見されなかった。
翌4日に、ゴム紐発見場所からさらに南西の農道で死体が発見されるに及んで、特捜本部は殺害場所を当初誰もが推定していた薬研坂の雑木林からずっと西寄りの雑木林に変更することを余儀なくされた。ゴム紐発見場所では農道から道なりで1km近く離れていて 遠すぎる。もっとも手近な「4本杉」と呼ばれた道なりで200mの雑木林が候補にあがった。
そこへ6日夕方「4本杉」前で木綿紐の切れ端発見の報が入った。発見者は県警中刑事部長である。その地点は昼間の捜索隊の山狩りで地下足袋と並んで自転車のタイヤ跡が発見された、と報道されている地点と同じ場所である。でっちあげをもいとわぬ最初の工作が6日に特捜本部長自らの手でおこなわれたと考える。
当時の県警には、あらかじめ自白強要のためのネタ(虚偽の物証、証言)を仕掛ける悪弊があった。佐木隆三『ドキュメント 狭山事件』によると、1955年の熊谷市せつ子さん殺害事件では指輪、狭山事件では万年筆、そして両事件の取調主任官は奇しくも県警捜査一課清水警部である。
8日捜査本部は、手詰まりを打開すべく捜査員210人を投入したシラミつぶしの体制で五度目の山狩りと聞き込みを行なった。「午後から死体発見現場、ゴム紐発見地点を中心に遺留品の捜索、犯人の足取り捜索を行ない」また民間ヘリコプターで航空写真を撮った(埼玉読売9日朝刊)
11日夕方死体発見現場近くの麦畑で耕作者によってスコップが発見された。スコップは捜査の的を養豚場に絞る「物証」とされた。
しかるに上記埼玉読売9日朝刊1面TOPに、被害者が「埋められていた麦畑を[8日に]捜索する機動隊員」が大写しされている。山狩り終了後二日の間に捜査本部が仕組んだとしか考えられない。再度のネタ仕掛けである。
5月23日石川青年が「筆跡一致→恐喝未遂」容疑で逮捕された。
5月25日教科書、ノート類が自転車のゴム紐が発見された場所から直線で150mほど離れた溝で草取り中の耕作者によって発見された。なぜかニュース価値がひくく、資料がすくない。県警はひたすらカバンを追い続けた。自供による「発見」に賭けているかのようである。
6月17日、石川青年がいったん保釈され、直後に本件強殺容疑で再逮捕(肩透かし逮捕)され、川越署分室(特別取調室)に移送、厳重隔離された。石川青年以外に容疑者はなく保釈すれば後がない状況での見込み捜査(筆跡鑑定書以外証拠がなかった)への大ジャンプだった。
決断に当たって警察庁、関東管区警察局、県警-高検幹部の間で議論が紛糾した。それでも決行したのは特捜本部がカバンをすでに押収していたからと推理する。
6月21日石川青年が書いた略図に基づいて関巡査部長がカバンをゴム紐発見場所から56m離れた溝で発見し掘り出した。離れた所で麦刈りをしていた人が呼ばれて掘り出された後の現場立会人にされた。4週間前のゴム紐発見者と同一人物である。実況見分作成者は関巡査部長であった。
[自供によって]発見されたされたカバン 警察が出した品触れ カバンと万年筆
写真コピーはいずれも証拠開示された物である。
発見されたカバンは、一見しただけで、品触れと型が同じである。5月8日付けの品触れカバン は「濃い茶色の革製カバン」となっている。5月2日父親が狭山署員に供述した調書では「カバンは薄茶色の一見革製に見えるチャック付と申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行カバン」となっている。
二つのカバンが同一物であるかないか、弁護団が検証すれば容易に判る。品触れには擦りきずが明瞭である。同定の鑑定がなされると立ちどころに石川さん再審無罪の新たな証拠となる。
一説に「長兄が東北旅行で[のために?]買ってきたものを被害者が使っていたと云う」のがあるが、出どころを確認できない。発見されたカバンが被害者の物であると長兄が後に確認している。
6月25日上田県警本部長、石川青年の単独犯行自供を正式発表。「自白にもとづいてカバンを発見したということです。」
この間、特捜本部は、再逮捕後かん口令を敷き捜査の状況・方針が洩れないよう有形無形の壁を作っている。狭山所長(特捜本部次長)の電話機に録音機を取り付けたほどである。
5次以上にわたる山狩り捜索で発見に至らなかったカバン・・・。
捜索隊は当初から、消防団本部長から地元の事情に即した「根除け堀を見ろ」「芋穴を見ろ」と云った細かい注意を受けていた。漫然と「場所」を捜索したのではなく「地点spot」を重点的に探していた。
カバンが発見された溝は、雑木林の木の根が畑に伸びないように掘削された堀(ヘッジ)である。「堀」は百姓の知恵の産物である。経験のない者には解らない。
捜索隊の重点捜査でも発見されなかったカバンが捜査本部チームによって発見された。カバンは捜査本部によって埋められ掘り出された切り札的ネタだったという疑惑が浮かぶ。
バラバラの「地点」を視覚化した写真と「地点」間の距離を示す図面を掲げて、本題に移る。
捜査本部が拠り所とする「物証」は私にとっても犯人を推定する物証となる・・・。
犯人は、不都合なメモが入っているリスクを回避するためにカバンを開いて万年筆、筆箱、手帳、財布もろとも不老川に流した。前章で私はそのように推理した。それを承けて推理の是非を検証する。
一審公判で開示された中身の教科書・ノート類目録(発見当日の押収記録)について殿岡氏の分析を借りる。[]内は私の考えである。殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』(2012年)
当日の教科
1時限目 ペン習字 ペン習字教科書(全員が買い当日使った「ペン習字手本」)がない。代わりに堀兼中学3年時の硬筆練習帳(署名等あるも本体は未使用)があった。[署名=被害者名 以下同じ]
[警察が当日の担当教師に提出させた「習字浄書」だけが本物である。開示された浄書を使って、弁護団がインク成分を科学分析した鑑定書を第3次再審請求の一環として高裁に提出して現在に至っている。
浄書のインク成分にはクロムが入っている。石川青年宅で「発見」された万年筆が被害者の所有物であることを確認するためにそれを使って長兄が試し書きした数字12345・・・のインク跡にはクロム成分が無い。証拠の万年筆は特捜本部が仕掛けた別物である。]
2~4時限目 料理実習(カレー) 「教科書(家庭一般)*」に挟まれていた献立表らしきメモに堀兼中、署名。
5時限目 音楽 「教科書(高校の音楽)*」 音楽用ノート(補修用、3年、署名)
6時限目 英語 「中教出版の教科書」(中学3年時のもの)
「NEW START ENGLISH*」 [ 検索すると☞ 開隆堂 1962年 1963年度入学と矛盾しない。]
「ユニバース英語辞典*」[検索☞高校・一般用『ユニヴァース英和辞典』稲村松雄・梶木隆一共編 小学館 1960年 634P これも矛盾しない。]
[2年定時制で普通科なみの英語教科書、辞典を使うだろうか、疑問である。]
ほかに「女学生の友」5月号*とノート5冊。その内の一つ「ルーズリーフ」裏側の袋に歯科医による堀兼中学校長宛証明書が入っていた。
これらの物が被害者のものであることを長兄が一審公判で支離滅裂の理由をつけて確認している。
中学3年時の物は各時限に1点ずつ在るが、確かに高校時に使用したと証明できる高校向けの物はノートをふくめて1点もない。署名も書き込みもつまり使用の痕跡が無いのである。*印の物は街で買い求めることができる。
以上をもって、これらの物が被害者の家にあったこと、そして被害当日カバンの中にあって死体埋没後隠滅された真正被害品の代用物にされたことを明らかにできたと思う。
以上の点検から、不都合メモが出る危険回避のため、教科書、ノート類は犯人によって5月1日にカバンと一緒に川に流された、とした前章の推理は、一点を除いて、妥当だった、と結論できる。
カバンについては修正をしなければならない。カバンは犯人が死体埋没のあと、後始末の一環として車内座席にリスクの有りそうな中身を出して、カバンだけを現場に放置した、と推理する。
現場のどこかについて伊吹隼人氏が深く長く追及している。まず伊吹氏がブログに掲載している週刊朝日(1977.8.26)の長文記事を紹介する。死体発見者として公判で証言した消防団員は記者の問い「法廷で証言していますね」に「穴を見つけたっていったことですからね。あとは何にもわかりません」と答えている。自分は掘り返していないし死体を見ていない、と言っている。おのずとダミーであることを語っているかのようである。
仕方なく記者は紙幅を埋めるため一審での証言を掲載している。応答が長いので要約する。地表の地割れを見つけ、30センチぐらい手で堀って腕がちょっと見えたので中止した、と証言している。下線部は実情と食い違っている。
一方最初の発見者として現場と捜査本部で2度供述した消防団員は発見の経過から現場保存の実行まで記者の問いに臨場感あふれる返答をしている。荒縄を引っ張ると手が出てきた時の「ワァー」とか、現場保存後ペアを組む機動隊員が吹いた呼子の音色「ピー」とか、読んでいて情景が目に浮かぶ。
その中に「私が見つけたのは見てすぐ[被害者]の持ち物だと思わせるようなものだった」、「カバンだったか、上着だったか・・・」と言葉を濁した一節がある。前の秋、佐木隆三氏のために現地取材をしたルポライターの栗崎ゆたか氏に「イモ穴にカバンがあって、警察が保管してあった」とはっきり答えている。その証言の反響の大きさを気にしたのか言葉をぼかしている。
後年(事件46年後78歳)伊吹氏自身のインタビューに応じたときの2度にわたる証言では、イモ穴か茶垣の根元かでブレがあるが、カバンがあった、中身は見ていない、機動隊員が一緒だったから、と言っている。
警察官に2度供述した彼が調書を残さず検事側の証言者として呼ばれなかった理由はカバン目撃者であるからだと誰しも思うに違いない。
以上の検証で、「発見された教科書、ノート類」は「発見」の日を入れて25日間、カバンは52日間、雨が降ると小川のようになる堀に埋められていたのではなく、偽物の教科書、ノート類は犯人の手元に、カバンは特捜本部の手中にあった(土中を排除しない)、と云える。最初のネタ仕掛け(カバンが農道で押収され品触れに使われたことを指す)が5月4日死体発見日にまでさかのぼることになる。自作ストーリの驚愕の結末にわれながらぞっとする。
そして、捜査の進展とシンクロして、偽物の教科書、ノート類は雑木林に見付かりやすいように並べて置かれた。教科書、ノート類は石川青年を身代わり犯人にするために、カバンは犯人をでっち上げて、失態で失った警察の信用を回復しその威信を保つ奥の手として、雑木林に仕掛けられた。
雑木林で図らずも完全犯罪と権力犯罪とが3次元的に交差したと結論する。
それぞれのブツの出どころが、完全犯罪の犯人と権力犯罪の犯人をあぶり出している。時間と司法の壁によって犯罪者達が罰せられることは永遠に無い。被害者の無念と石川さんの人生を思いやりつつ終章を閉じる。いつの日か小説「完全犯罪 狭山事件」のヒントになってくれたら・・・、と秘かに願っている。
長年の懸案だった狭山事件のもろもろの現場を地図上でどうにか確認できるようになった。
最終目撃者奥富少年(被害者の1年後輩、堀兼中学3年)が「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5月5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「澤の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その地点を今回地図上★印で視覚化することができた。
その認識に至る経緯は次の通りである。
当時西武川越新宿線の円弧内側は、工業団地、住宅団地の開発が始まったばかりの農村で、道路は未整備、その正式名はなかった。週刊埼玉の記者亀井さんでさえ加差志街道は沢街道とも云うと書いている。通称加差志街道は市役所(駅の反対側)から見て加差志集落に通じるといった程度の通称であり、奥富少年でさえその通称を知っていたかどうか疑わしい。堀兼部落の佐野屋から見た「沢の道」(現126号線)についても同様のことが言える。「澤の道地内 jinai」に注目すると、目撃スポットは、沢の道地域内の畑の中の道、ということになる。
関口自転車店は沢部落のランドマークとして使われたにすぎない。東中学校に行くのにわざわざ沢街道を西に進み遠回りするはずがない。また、被害者が第一ガード下から西武線沿いに北上する理由もない。
奥富少年の証言は事件直後5日のものであり最後の目撃者として信用できる。ただ野球に関わることがらについては、小さな嘘をつく動機があった。野球部は当日練習するか決勝戦見学に行くか合議して見学に決まった。3年生として後輩を引っ張る立場にありながら理由もなく遅れて会場に行っている。
野球部監督の第二ゲートで被害者に声をかけたという証言は、事件後7年以上あとのものであることから、甲斐仁志氏によって記憶違いとして否定されている。
私は被害者が学校を出た時間は3時30分ごろで決まりだと思う。甲斐氏は下校時間について、降雨時間をからめて全証言を丁寧に比較検討して、2時35分過ぎに下校したと結論している。特に重視しているのが小-中学時代からの同級生の証言である。5月2日の警察に対する供述では「授業が終わると、雨が降ってきたから早くかえる」と言って帰った(この調書は未開示である)。5月29日の検察調書では「授業が終わって一寸卓球をして・・・三時半頃、私にさようならと言って帰りました」となっている。私は自説の筋書きに合わせて3時半頃説を採用する。容疑対象者が120人もいる時点で検察が供述を誘導して調書を作る必要性は皆無だからである。
わたしは、被害者が3時半頃に学校を出て「4時に第一ガード、会えなかったら加差志街道→浜街道で会おう」と告げられた通りの行動をとった、と考えている。そして浜街道かその手前で出会い、近くの雑木林の人目につかない所で、車内で殺害された、という前章の記事を再確認する。
既出記事の内容と重複したところがあるが、次章に進むためには、どうしても被害者の納得のいく足取りを地図上で確認する必要があった。壁を突破するための後ずさりと理解してほしい。
この章は、結論は異なるが、甲斐仁志氏『最終推理 狭山事件』(明石書店 2014年)に負うところが多い。
承前
主犯の思考、行動は単線ではなく複線complexであり、その表現法はときには伏線、あるときは露顕である。複線のあり方は、単純でなく絡みあい縺れているため捜査、報道を振り回し、世評を狂わせた。
警察が犯人を取り逃がした数時間後の5月2日9時ごろ、農家の男性がゴボウ畑の作業に来て農道の土が不自然に盛り上がっているのに気が付いている。3日の昼すぎと夕方には2人の若い人が散歩中に新しい土が盛り上がっているのを見たと新聞記者に話している。
3日に山狩りが始まったがその日現場は捜索対象外であった。農家の男性は3日も4日も現場近くで作業をし、4日には最初に発見した警防団に試掘のために農具のおかめを貸している。
通りかかった3人にすぐに異変が感じられる状態で死体は埋められていたのである。これで、隠匿の目的が秘匿ではなくほかにあったことが推察できる。
見つからないよう隠したのではない。適時に見つかってほしい。いつまでも見つからなかったら意味がない。かくれんぼ遊びと同じだ。
農道に埋めた目的は何か。雑木林ではなくリスクを冒して駅近くの開けた農道に埋めている。そのすぐ近くに石川さんが住む被差別部落があった。部落の不良による犯行をにおわせたのである。
公判で殺害地点とされた近くの四本杉の雑木林も部落の生活圏である。だからそこで殺害して農道に運び出して埋めたというストーリは成立しない。
もう一つ、農道は農道でも、その場所でなければならない理由があった。天蓋つき芋穴である。底まで3mの深さ、そこから横穴の貯蔵庫が伸びている。地下式横穴古墳を連想させる。芋穴を墓制に擬したのだ。
芋穴 祝い用ビニール風呂敷と棍棒
すでに述べたように、殺害の動機は伝統的な家族制度(家督、家格、家産)の脅威となる家族の一員の謀殺だった。その背景に家父長制度があった。嫁は舅と夫に仕える家政婦であり農業労働力であり口答えの自由すらなかった。母の過ちから一家の団結にひびが入り、家族のぬくもり、一家団欒が失われた。
父母の不仲、母の死、自ら患った心身の傷、人手不足=進学の壁・・・、これらのトラウマは長子を苦しめた。思い返せば母の不倫相手である一人の男性(全く見当がつかないので便宜上X氏とする)に起因する。父に近い年齢、学校友達だったと想像される。
長子が殺害計画で遺体の処理先を思案したとき、恨みのあるこの人物に送ること以外は思い浮かばなかった。意趣返しである。これは亀井さんに聞いた身内説に属する。
農道よりか芋穴が犯人の目当てだったと前章で書いたが、農道と芋穴の所有者がX氏に該当するとは微塵も思えない。彼は後日被害者宅にお悔やみに行っている。
芋穴の所有者を名前しか分かっていない別人とする記事を最近目にした。そういえば農道試掘者にも別人(検察側証人)が居る。新聞はウラを取らずに速報するからだ。
犯人は農道周辺の数多くの地主の中の一人X氏に怨恨を抱いた。遺体が入った泥の棺(殿岡説)と遺品*の入った芋穴とをセットで見れば、他人はいざ知らず怨恨対象のX氏はたちまち返報に気づくと、犯人は心づもりした。無言のメッセージが届けばよいのだ。
*祝い用ビニール風呂敷と棍棒=墓標。長兄は5月4日立会人として現場で祝い用風呂敷と棍棒を被害者の物ではないと確認している。そして5日に正反対の確認上申書に「自分が書いたものでない」と言いながら渋々署名している。芋穴が墓制の隠喩であることを見破られまいと必死である。
犯人は埋め墓と詣り墓のイメージで遺体と遺品を送り出し葬送の礼を込めた。亀井さんはそこに犯人の仏心を見た。伝統の慣習、しきたりに忠実な人物像が浮かび上がる。トラウマから自己を解放するにはそうするほかなかった、と私には犯人の気持ちがわかる気がする。
最後に両墓制について一言・・・。
両墓制は学術用語である。民俗学者、僧侶は、土葬から火葬に変ったため、単墓制になった、両墓制はなくなった、と言うかもしれない。私もだが、庶民の多くはその用語は知らなくとも、その精神を代々実行している。火葬後の遺骨を墓石の土台空洞に納めて盆正月に花を供えて礼拝している。墓制の精神が分からないと「農道」の真の意味に到達できない。
わたしは2016年度に監督を引退して時間に余裕ができたがTVで放映されるサッカーの試合を見る気が起こらなかった。ボールをとっても安全パスを後方に送ってパス回しにこだわるからである。縦への推進力でのみ評価されてきた自分には何ともまどろっこしい退屈なゲーム運びだった。どのチームも同じようにやるから後半にユニフォームを交換して戦っていても気づかないだろうと思っていた。
こと(トレンド)の起こりは2010年にスペインが絶妙なパス回しでW杯を制した新コンセプトにあった。それはポゼッションサッカーと称されて世界を風靡した。サッカーがチームゲームであり総力戦であるからそれなりの必然性があった。
W杯で決勝点を決めたイニエスタに代表されるように、複数の敵に囲まれてもなおボールを失わず攻撃的なパスができるチームだからこそ有効なコンセプトだったが、世界中で上も下も猫も杓子もパス回しにこだわった。
「従来サッカーでは90分持久力がもたない」[省エネ論]
「ボールをキープしている間は失点しない」[後ろ向き消極論]
「キーパからパスで組み立てよ」[安全パス論]
「やたらにボールをクリアするな」[確率の低いキック否定論]
・・・・・・。
これはJリーグの指導人のことばの一部である。だからといって私はポゼッション指導を否定はしない。それなくして日本代表が技術的戦術的に世界水準に達することはなかったであろう。
今年の全国高校選手権を選手層で地域レベルの(県内の2番手、3番手の選手で構成した)チームが制覇した。私が一目を置いている潮 智史朝日新聞記者が代弁してくれた(1月10日朝刊)。これ以上のまとめはわたしにはできない。
[優勝した岡山学芸館の]「縦に速いボールポゼッション」。10年ほど前から掲げるコンセプトはゴールという目的を忘れてパスを回すサッカーへのアンチテーゼでもある。[同感]
隔年で足を運ぶスペイン遠征でバルセロナの試合を観戦して、高原監督は思いついたという。「もっとスピーディーにゴールに向かったほうがおもしろいと感じたので」。そのサッカーは、昨年のワールドカップ(W杯)で勝った強豪にも通じている。[同感]
新しいサッカートレンド! わが意を得たり、である。カタールW杯2022は決勝まで徹夜して観戦した。日本代表は上へ上へと螺旋階段を駆け上がった。真上から見たら世界のトップと同位に見える。横から見るとまだ一周遅れである。生きているうちに世界的スーパースターの誕生と活躍を観たい。
承前
私が狭山事件にのめりこむきっかけとなったのは、一審判決中の強姦体位である。ズロースを膝の上までおろして、手拭いで後ろ手に縛った被害者の喉頭部を右手で絞めながら正上位で遂行したことになっている。自己欺瞞的司法関係者以外の成人であれば、十人中十人がありえないと答えるであろう。二審当時わたしは青年教師たちに集まってもらって見解を聞いている。
殺意については、致死するかも知れないことを認識しながら一層強く右手で圧迫して姦淫を遂げ、よって窒息させて殺害した、と判決文にある。
発掘された死体の状況はといえば、靴を履いている。ズロースを膝の位置で半ば身に着けている。抵抗して傷ついた痕跡が確認できない。B型の精液が確認された。これからは、強制(強姦)とも合意(和姦)とも判定できない。
殺害の時刻、場所の探求を踏まえて、わたしは、どちらでもない、性交はなかった、という結論に至った。
上記のすべての条件を満たすのに十分な場所は広めの車内である。長兄が使用していた車がたまたま条件にかなった。日野ブリスカのキャビン内の広い映像を掲げる。
出展 前掲ブログ「新 懐かしの旧車カタログ館
強姦偽装工作は、人目を考えると雑木林の木陰の道に車を停めて殺害した直後の可能性が高いが、移動後と仮定してストーリを描くことにする。いずれにしても仮説である。
主犯は、死体を埋める農道を事前に何度か自転車、オート三輪で試行して、芋穴(次章で必須条件として記述する)を確認し、近くに死体を一時隠す茶垣、繁みに見当をつけておいた。
移動先の農道でただちに計画通りに強姦偽装工作に取り掛かった。車内の広さを利用して死体を寝かせて、スカートをまくりズロースを膝までおろして、スポイト(あるいは注射器本体)に吸い込ませて用意していた精液を膣内に注入した。死体を隠す作業をふくめたとしても10分少々で完了した。強姦偽装により自分が疑われる危惧がなくなった。この一点に限ってだが、犯人が不道徳な人間でないことが認められる。
死体を一時隠した場所はどこか?
埋蔵箇所の写真を掲げる。発掘・調査で麦畑が踏み荒らされている。
出典 亀井トム『狭山事件』
写真にある背後の雑木林は、判決で殺害場所とされている「4本杉」(埋蔵現場から道なりで200m) がある平地林(見分調書では50~70m)である。そこからだと人力による死体と付属物の運搬が不可能である。私はこの農道写真の右奥の曲がり角に見える茶垣背後の高いしげみ(桑畑?)に隠したと推測する。埋蔵現場の目と鼻の先である。
「農道は俗にいう農家の馬入れであり、幅2.1メートル、東西に走り、農道の南側、つまり民家のあるほうには茶の木の垣があり、その垣を境として南側も北側も麦畑である、と[実況]見分調書は書いている。」
茶垣の高さは背丈を越え農道で作業をしても民家のある県道方面からは見えない、小型トラック[日野ブリスカの幅は142cm]を乗り入れ可能、と亀井さんは続けている。
その後開示された航空写真を基に甲斐仁志氏が運搬経路と手段について高度な考察をしている。
「リアカーで運んだ死体」(『新推理・狭山事件』より)
【東側からリアカーで運んだ場合】
【西側に車をとめてリアカーで運ぶのは目撃者多く不可能】
私の仮説では、もちろん日野ブリスカ750kg積載車の乗り入れである。「4本杉」は殺害現場でない。農道は運搬手段の進化(リアカー→オート三輪→軽トラ)に合わせて拡張される。当時は生産台数で軽トラックがオート三輪を完全に凌駕していた。
畑の農道は踏み固められるだけでなく陽が当たるので固くしまる。晴雨にかかわらず、農用車が入る程度では凹みがつかず平らである。実際平らだった。
車を入れると一時的に車輪の跡がつくことは自明である。当日の雨が轍を搔き消した。さらに死体発見の農道は阻止線を張るまでに大勢の若い群衆により踏み荒らされた*。日野ブリスカが入ったのは本降りになる4時半よりかなり前である。
*当ブログ「狭山事件/現場と運搬の推理」に写真がある。
死体着用の衣服等とその上に重ねてあった荒縄の濡れ方があまりにも対照的だったことが見分調書を作成した警部補の注目を引いた。荒縄だけがぐっしょり水を吸っていたのである。
繁みに死体を隠した状況を想像するに、死体は農用ビニールシートで包んで仰向けに寝かし、嵩のある荒縄、玉石、スコップは濡れるにまかせた、と考えられる。
車の荷台にはまだシートをかぶった自転車が横たわっている。通学時のカバンは自転車の後ろキャリアーからゴム紐を解かれて車の座席の足元に移動している。ゴム紐は殺害直後に上述雑木林の(道端でなく)奥深くに投棄された。帰宅途中不良達に襲われたと見せかけるためだ。
主犯は農道から帰宅途中、かばんを開けて中身もろとも本降りで増水した不老川に投じた。出会いの時間と場所が何かにメモされていたら万事休すからである。ただしこの一節は、石川さん逮捕後自白によって発見されたとされているかばん・教科書類の検証を私自身が次章でするまで保留としておく。
激しい雨の中、帰り着くと車を車庫に入れ扉を閉めた。時刻は5時ごろである。次に「迎えに」出かけるまでの2時間、アリバイがない。警察、検事は毫も家族を疑わなかった。
死体の埋蔵は計画通り5月2日の真夜中3時から行われた。初日の空振りだった零時の佐野屋張り込み騒ぎと長い降雨も収まった時間帯である。草木も眠る時間帯である。そのころ近所の犬がいっせいに異様に吠えたという付近住民の証言がよく知られている。
主犯はあたりを探すという口実を設けて家を抜け出して、家のオート三輪で現場に駆け付け、手提げライトを点灯してスコップで穴を掘り上げた。そして間近なところから遺体を引きずって穴まで運んでタオル、手拭い、細引き紐、風呂敷と荒縄を使っていくつもの細工を施し*、うつぶせにして埋めた。顔の下にビニール片が敷いてあり、頭の右上に玉石が置いてあった。これらの物はすべてあらかじめ密室である車庫に集められ用意されていた。
*当ブログ「狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリー」&「狭山事件/玉石、棍棒、紐と荒縄のミステリー」で詳細を確認できる。
事件にかかわった助手がいたことは確かであるが、穴掘りが一人でしかも25分でできることは実験で証明されている。大事なのはその場に助手がいたかどうかより、長兄が現場に居たことである。長兄抜きでは前述の複雑怪奇な偽装行為が不可能だからである。
残土の処理については、土葬を見たことがある人は難しく考えない。土葬の跡にかなり大きな盛り土ができる。それでも歳月を経て死体は水分が抜けて土に還る。掘り返すと骨の断片や髪の毛がわずかに残っていることがある。私はそういう情景を見ている。土盛りは限りなく平らになり、玉石とか墓標だけが目印となる。
当事件の場合、農道だからしっかり踏みつけてあった。米2~3俵の残土があったと推定できる。車を使えばさして処理が困難とは思えない。荷台にビニールシートを敷くかして残土を積み込んだ。土だから処分は容易であろう。
最後にスコップを現場以外の物陰に遺棄する作業があった。農具汎用品の一種だから足がつく心配はまずない。助手が持ち去って投棄したことも考えられる。
主犯は一睡もしないであたりを探し回った、と周囲に思わせた。夜明けに脅迫状封筒の「切れ端」をガラス戸の前1mの所で発見し、翌々日警察に届けたと証言している。二審で切り口が合わないことが証明された。これも理由付けのために小細工をしすぎた一例である。
謎が謎を呼ぶ。次の謎は隠匿の場所に危険を冒してまで何故農道を選んだか、である。単なる営利誘拐殺人なら雑木林奥深くの物陰に隠蔽、遺棄するだろう。
承前
この章では殺害場所とそこに至る経緯、動機を考える。
いわゆるご馳走説が否定されると、屋内殺害説も崩れ、屋外殺害説が浮かび上がる。
屋外のどこかが問題となる。靴が脱げた形跡がないこと、白ソックスが汚れてないこと、衣服に腐葉土や朽葉のほこり・草木の染みが付着してないこと、つまり抵抗した形跡がないことから、人目につかない野外での雑木林内殺害も否定される。
いちばん可能性が高い雑木林内殺害が否定されると残るのは車内殺害であろう。車なら人目につかない場所を選べるし死体を任意の場所に運ぶこともできる。埋蔵に必要なスコップ、縄、紐、風呂敷、玉石、棒切れ等をあらかじめ用意して積んでおくこともできる。
あくまで私個人の想像の産物にすぎないが、被害者の長兄に焦点を絞ってストーリを創作する。
長兄が妹を迎えに行った時の車は、車庫から出て納屋の物置に戻った。出発と帰宅の時刻は当人、家族の発言だから信用できない。家長である父親は奥に引っ込み長兄がもっぱら報道陣に対応している。すでに家督となっているかのように振る舞っている。
その車は750kg積載の日野ブリスカ3人乗り軽トラックである。1961年4月新発売時の価格は40万円であった。次姉が横に立つ事件直後の車の写真があるが手元にコピーがないので、マイナーチェンジ車の広告写真(1963年)を掲載する。フロントグリルの菱形模様が付加価値になっている。搭乗者が乗り心地を自慢できるアメリカンスタイルのレジャー兼用車であった。
出典 ブログ「新 懐かしの旧車カタログ館」 使用許諾をいただきました。
キャビンの横幅、足元が広く、大人3人がベンチにゆったりと座れてドライブを楽しめることを広告は謳っている。バカンスブームに合わせた軽トラックである。
では、私の創作物語の幕開けとしよう。
長兄は妹が欲しがっていたものを誕生日プレゼントとして買ってやるから、4時にガード下で待て、と言って、妹と落ち合う約束をした。兄は法廷で第二ガードは知らないと言っているが信用できない。待ちくたびれた妹は半ばあきらめて加佐志街道に出て通称沢街道に向かった。途中沢地内で奥富少年に出会っている。そのあとすぐ、沢街道(佐野屋から沢地区に至る道)で兄の車に拾われた。自転車を荷台に積みキャビンに座った。その後まもなく人目のない場所でいきなり両腕で首を絞められて殺された。柔道の襟締めを連想させる。普通より広いとはいえキャビン内ゆえに抵抗の動きが封じられた。
兄は死体と準備した埋没のための道具とグッズを死体発見場所付近に隠した。いったん帰宅して車を元通り車庫に入れ扉を閉めた。
5時~7時まで2時間の空白ができた。その間主人公がなにをしていたか不明である。
7時に迎えに行き7:30に帰宅したときは車を車庫ではなく物置に置いた。自転車を下し、かねて用意していた「脅迫状」を玄関ガラス戸の隙間に差し込んだ。
兄の言によれば、土間で夕食のうどんを食べた。帰宅10分後脅迫状を「発見」している。直後、車と自転車が父親の目にとまった。車庫なら視界に入らなかったと断言できる。身代金目的の誘拐であることに疑いを持たせない証拠一揃いを10分以内で陳列する頭の良さに感心する。車庫の位置は当ブログの一章「狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡」で確認できる。
「誕生日プレゼント」について・・・。
妹が布団をかぶって小遣いを巡っていく度か悔し涙を流したことはその日記からあきらかである。伊吹氏の『検証・狭山事件』から引用する。
「四月二十六日 [遠足で楽しかったことが綴ってある]お天気もすばらしく、これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙をながし、ねむりについた。
つらい、苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕もとをながれた・・・・・・」
「土曜日[二十七日]今晩もくやしい。ちょっと友人と立話しをしておそくなれば姉はおこっている。[ごく普通の姉との感情のもつれが綴られている。姉の気持ちが痛いほど分かる]
夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい━・・・・・・」[兄が実質家長であるようだ]
三日後の30日、次男に1000円借りている。当時私のバイト日当が500円だったからかなりの金額である。
年頃だから友達と東京に遊びに行きたいだろう。流行の服・靴も、レコードも欲しいだろう。姉が主婦代わりに家事を一身に背負ってしかも農作業に従事していたことを考えると外出のための出費よりか、姉の手伝いで暇なしだったことからくるストレスを解消できる、夜一人での癒し時間をすごすグッズが欲しかったのではないかと思う。
具体的に言うと布団をかぶってじゃませず邪魔されず楽しめる、当時流行のトランジスタラジオであろう。姉が妹の土葬に際して「ステレオとテレビ」を入れたという報道記事を承知の上でのトランジスタラジオである。SONY製で当時の価格は6千円以上。
妹は王選手の熱烈なフアンだった。トランジスタラジオがあればテレビで見損なった王選手のニュースをチェックすることができる。フアンだった弘田三枝子の「ヴァケイション」などヒット曲も聴くことができる。
時代背景・・・。
複雑な家庭だったと云われている。母親は10年近く前に国立武蔵療養所(戦時中は軍人-軍属の精神病院であった)で死亡している。父は短冊型に区切られた農地-屋敷が横並びする地区の富裕農で「百万円様」と呼ばれる有力者である。家父長制の遺制のような家族で、父親が進学、結婚、相続を個々人ではなくお家第一に考えて決めている。
明治の名残を想わせる家族共同体を、所得倍増計画と都市化(東京が世界初の1000万都市になった)に象徴される高度経済成長の上昇気流が揺さぶった。もっと都心に近いところでは若者の流出が激しく「三ちゃん農業」の悩みが表面化していたが、ベッドタウン化が始まったばかりの狭山市ではまだ家長の権威が強く農業と家族の空洞化は問題になるほどではなかった。その分、家族内葛藤が増し一家団欒に影を落とした。
一家団欒の喪失と願望・・・。
母親の死亡(1953年末。享年44歳)は事件の10年近く前である。
長女27歳(事件当時)は母の死後家を出てほぼ家族と断絶している。
長兄25歳(5月5日26歳)は、中学時代、学年で1番の成績優等生だったが進学校受験を許されず、不承不承定時制高校に通って農業を手伝った。長兄の気持ちがいかばかりであったか察するに余りある。
「顔面神経病で半身不随みたいに」なって家から都内に通学ついで通勤(会計関係)しながら東大病院で5年間療養した過去がある。
次女は中学卒業後幼い弟2人と妹の面倒をみながら一人で家事を担った。兄姉二人が厳しい家庭環境で煩悶する姿が目に浮かぶようだ。
長兄は20歳から5年間療養生活をしているから、もっぱら家業の農業に従事したのは事件が起きる1年前からである。長子相続の目途が立って父親はさぞかし安堵したことだろう。家内のことは長男に任せて、みずからは公益の外交に集中、従事したと考えられる。二頭制家長である。
父親は農業委員を制度開始時から務め、直前まで農協の理事でもあった。事件前には選挙で区長になっている。名士として家柄(個人よりも家が重んじられる社会的地位)と家名を護る役割に専念したのである。
長兄は実質的家長として家業を継ぎ、家族内限定の監督、家督になったのである。家計を握り出費、収入を管理した。弟妹の小遣いまで管理し、姉妹の万年筆・時計を購入したのも長兄である。これら家政 house economy は旧民法では家長の仕事であった。
父親(56歳)は、まだ老け込む齢ではないのに、遺体発見直後、犯人が捕まっても会いたくもないし顔も見たくない。犯人の方でも私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから、と気になる発言をして寝込んでしまった、それも10日間も。一家をまとめ率いる家長の面影はさらにない。
長兄は、事件の発生と犯人逮捕の遅れを「農村という古くからの何者かゞひそんで居たのではないかと責めざるお[を]得ないのです」と石川さん逮捕を報ずるサンケイ夕刊に投稿*して、農村共同体の因習を責めている。一方でその古い慣習を引き継いでいたことは自己矛盾である。
*私には秀才の小細工に見える。
後年自殺した次男は、カレンダーの裏に「古いものの中にいつまでもいいところもあることを願っていたい」という文言を遺して、古い共同体の遺制による家族内抑圧で自己崩壊に直面しながら、一家団欒への願望を発している。
兄が妹を・・・何故?
妹殺害の動機に共同体崩壊期の家族のジレンマがどう繋がるのか。そう、一家団欒が失せただけでなく、皆が束縛からの自由を求めた情動が事件の背景に見え隠れしている。長女は逃げ出し、次女は忍従し、妹は「家長」に向かって臆することなくモノをいう。兄はのちに今も顔面不随であると証言台で触れた。その原因である憎いはずの家父長制の承継者として、弟妹を扶養、保護、監督、支配している。立場が替われば兄と弟・妹との関係も変わると言える。
事件発生の10年近く前に精神病院で亡くなった母もまた幸せでなく自由を求めたことは想像に難くない。噂だけで証拠はないが、同情してくれた男性と情を交わしたとしても不思議ではない。世間でよくあることだ。私は亀井トムさんからその証拠(顔のパーツの一部が似ている)を聞いたが説得性に欠けると思った。
母の煩悶と過ちが家族の団欒を完全に消失させた。長兄はたぶん多感な思春期に夫婦不仲を知った。母の死は16歳のときである。わたしは精神医学-心理学的知識はないが、長兄が心身に深い傷を負い「顔面神経病」を発症したこと、感情が鈍磨したことは容易に想像できる。
長兄が将来の暗い幻影に執着し始めたのは実質的家長になってからである。家長としての義務を果たしはじめると、弟妹の扶養はもちろん、生活全般にわたって気を配り、励まし、見張り、口出しすることになる。はじめは、手伝い、小遣い、消灯時間などの細かい決まりごとについての干渉であろうが、次第に、外出、門限、男女交際にまで及ぶことは必至である。
兄は口答えから言い合いになる妹を意識するようになった。それまで母の面影に寄り添う兄妹の連帯感から気にならなかった事柄が家長になると心配事になった。卒業後どうするか。気が強く自己主張する妹が兄の意のままになるとは思えない。権利を主張するだろう。家父長制的家族では絶対に許されないことだ。
自由(恋愛、結婚)と平等(財産)を要求して来そうだ。そうなれば、家長の権威は失墜する。封建的慣行が崩壊し家族が四散する。
兄は次第に妹の存在自体に危機感を覚えるようになった。「消えてほしい」「消えろ」「消してしまえ」と過激化した。
血のつながりが二分の一であることがダメ押しとなって殺害を決意した。世の人はこういう残忍な身内事件では犯人の異常人格を疑う。ちょっと唐突に飛躍するが、権力者が往々にしてライバルになりそうな有力な同志を身内であっても予防粛清、謀殺することは歴史の教えるところである。実例として大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をあげるだけで十分であろう。
兄は旧来の家の秩序を守るために近い将来脅威となる妹を予防殺害した。謀殺だった。異父兄妹関係と本人が精神に受けた傷が彼の犯罪心理増幅に影響した。
家の秩序は恒産である不動産と持たれ合っている。狭山市の地価は開発景気で急速に値上がりしていたが、当地区の土地は市街化調整[制限]区域に指定されていたため資産価値は低かった。運良く土地を処分できたとしても、全財産をきょうだい5人で分けると一人当たりの相続分は大きくない。しかも家族の四散を伴う。そうならないための家の古い秩序維持が殺害の動機だった。
3人の弟妹が異常な死に方をし、末弟が養子(相利的慣習)になったため結果的に長兄の単独相続になったが、動機を財産独占目的の殺人とするのは短絡すぎると思う。
筆跡印影指紋柳田研究所の工学博士・柳田律夫鑑定人は、長年の日本刀銘鑑定でつちかった技に、最新のデジタル科学技術をプラスした鑑定法によって、脅迫状冒頭(左上)のカラスの巣状に抹消された箇所を解析し、消えていた「少時」の時の文字を鮮明に可視化した。
掻き消し痕跡調整写真
第三次再審請求の為の柳田鑑定書から www.kantei110.com/case.html
一目瞭然、この草書体の時こそ石川無罪を証明し真犯人の真の姿を映し出す物証である。[END]*
*当ブログの過去記事から再録
脅迫状は狭山事件の唯一本物の物証である。当物証から、脅迫状を書いた主犯が物書きに慣れているだけでなく達筆であること、知能に優れ、犯罪フィクションと大事件に蘊蓄があり、みずから完全犯罪を企画するほどの推理マニアであることが想像できる。
2023年5月1日で狭山事件は発生から60年になる。それに向けてこの完全犯罪を解くヒントをいくつか提示しよう。ヒントが狭山事件研究のあらたな起爆剤になればそれ以上の喜びはない。
第1回は、警察権力による偽装工作つまり未使用別件写真の流用について、である。
2か月前に台東区で起こった吉展ちゃん事件が未解決の折に、警察はまたしても杜撰な対応で犯人を取り逃がしてしまった。衆参両院の委員会で国家公安委員長と警察庁刑事局長が喚問、報告を求められた。死体が発見された5月4日には柏村警察庁長官が辞表を提出した。同日、埼玉県警は狭山市堀兼に特捜本部(中 勲本部長)を置いた。
埼玉県警鑑識課医師の五十嵐勝爾作成の鑑定書によれば、被害者の①胃は「大約250竓の軟粥様半流動性内容を容る。消化せる澱粉質の内に、馬鈴薯、茄子、玉葱、人参、トマト、小豆、菜、米飯粒等の半消化物を識別せしむ」となっている。一見、被害者が12時5分ごろに食べ終えたカレーライスの食材が半消化のまま残っているかのように見えるが・・・。
弁護団は、五十嵐鑑定に①胃内容物の色調についての記載がないことに言及している。②小腸を構成する「十二指腸内並びに空腸内には微褐ー淡黄色半流動性内容ごく小許」「廻腸には黄緑色軟粥様内容と共に小豆のかわ小許」があった、と記載しているのに、胃内容物について色調の記載がないのは、「捜査の拙劣」である、と。
「しかも」と弁護団は続けている。「胃内容については<無定形澱粉質を除き[除いて]、固形物のカラー写真撮影を行った〉との死体材料検査記録が出されているのである。」
そしてカラー写真を撮っていながら色調を記載しない、ということがありうるだろうか、と結んでいる。
カラー写真が無く、胃内容物の色調の記載がないのは、食事後4時間以上経過して胃の内容物が胃から小腸に移動していたから、胃が空っぽだった、したがって不都合な写真しか撮れなかったからである、とわたしは推理する。
ちなみに、消化に時間がかかる食材は、物理的に硬いもの(タネ・いか・たこ等)を除けば、バターがいちばん長く、本件では牛・豚等の油脂で固めたカレールーと脂っこい肉類である。それらは胃内に約4時間蠕動で揉まれながら滞留し、十二指腸に送られてそこで胆汁酸と膵液で消化される。小豆の皮の外皮はセルロース(食物繊維)だから消化しない。消化しない物は小腸(十二指腸→空腸→回腸)を経て大腸で活用され最終的に残滓となり糞便として排出される。
しかるに、十二指腸内と空腸内には「半流動性内容ごく小許」、「廻腸には軟粥様内容と共に小豆のかわ小許」があっただけである。小腸内もほぼ空っぽだったのだ。
ちなみに食べ物がドロドロ状態で小腸内に滞留する時間は4~8時間である。
被害者の胃内容物(五十嵐鑑定の添付写真)
上掲写真を見ていただきたい。一点を除いて2~3時間で胃液でどろどろになる食材ばかりである。トマトの果肉が観察されることから食後2時間以内の状態と考えられる。
胃液では消化されない脂肪分が多いから滞留時間が長い豚肉[推測]とカレールーの黄色(ターメリックの色)が写ってないということは、この鑑定書の写真は、流用物、偽物であることを物語っている。
「一点を除いて」の一点は小豆の二粒である。小豆は外皮が硬いため噛みつぶさないと消化しない。粒状の二粒は当日の朝食で食べた赤飯の小豆ではない。赤飯の小豆は時間の経過により消化されその外皮が残滓として回腸に移動して記録されているからである。この節は学究内藤武氏の論文「小豆と狭山事件―半消化小豆2個が証明する石川さんの無実―」(2010.4.30)に依拠している。
ほぼ粒のままの小豆がカレーライスの食材であるはずがない。したがって上掲写真は未使用別件写真を流用した偽物であると結論するほかない。
遺体は5月4日午前10時35分頃に消防団員広沢一郎さんと機動隊員(二人で一組)によって発見された。カバンも同時に現場の芋穴から発見されたと本人は後年語っている。一審で発見者として証言した消防団員は別の分団長だった(伊吹隼人氏による検証)。
毎日・読売と異なって朝日だけが発見者を分団長にしている。当の分団長は第一発見者が現場保存のために埋め戻した穴を駆け付けた捜索隊と共に掘り返したにすぎない。捜査本部が重大証拠を「隠し球」として秘匿し検察が都合のよい証人を選んだ、と思いたくなる。
最初に遺体の身元確認のためによばれたのは担任教師と二人の級友だったが、二人は抱き合って泣き崩れてしまい、立ち合いに応じないで「泣きじゃくりながら立ち去った。」
被害者宅には11時ごろに知らされ長兄が報道陣の車で現場に駆けつけ、遺体が顔は見えなかったが妹であると確認した。「放心したようにただ自分のカメラをむけていた。」
遺体は午後2時すぎに幌付き警察車(ジープ)で被害者宅に運ばれ、午後6時頃から庭の物置で解剖(五十嵐鑑識課医師執刀、狭山署長=特捜副本部長立合)に付された。午後10時半県警の中刑事部長(成り立ての特捜本部長)と鑑識課長が結果を発表した。死因は窒息死、食後約3時間経過。司法解剖が指定病院でなく設備のない物置の電灯の下で行われたことに驚く。
3日の午前0時すぎ身代金を受け取りに来た犯人を取り逃がした県警の上田本部長と中刑事部長は身の置き所がないほど思い悩んだ。犯人が逃げたあとに殺されていたら、という恐ろしい想念に取りつかれた。身代金目的の誘拐であることが脅迫状から読み取れるが、気が強くて大人の体格をした被害者を生かしておく場所があるはずがないことから、すでに殺されていて、死体が発見されるとしても食後数時間後の死であって、最長であっても食後36時間以内(取り逃がしは36時間後)の死は動かせない、つまり死は警察の失態のせいではない、と県警幹部は安心したい一方で、解剖の結果で判明するはずの死亡時間に最大のこだわりを抱いていた。
解剖の結果もし胃と小腸が空っぽだったら死亡時間がつまびらかにならず、マスコミと世論による警察非難は厳しさを増し、警察の権威は地に墜ち、治安対策と責任追及をめぐって国政は大揺れすることだろう。県警本部長と県警刑事部長の首がとぶだけでは収まらないであろう。裁判も紛糾し長期化するにちがいない。そういう事態だけは何としてでも避けたいというのが県警幹部の本音だった。
解剖直後に発表された死亡時間は最有力の下校時間証言(3時23分)と矛盾しないものだった。後日提出された鑑定書は食後最短3時間と修正されている。弁護団が二審で提出した上田鑑定書は五十嵐鑑定書を精査して食後2時間以内としている。
五十嵐鑑定書が事件の捜査とそれに続く裁判に与えた影響は計り知れないものとなった。捜査本部は「死亡時間」に合わせて「自白」のストーリをでっち上げた。その結果常識ではありえない超人的犯罪行為のオンパレードとなった。本章の主題でないので出会いと連行の奇妙奇天烈な情景を想像するだけにとどめる。
石川さんを支援する人たちはカレーライスに季節外れのトマトが入っていることから下校途中で誕生祝の食事を身近な男性と共にしたと主張した。いわゆるご馳走説である。ご馳走説は真犯人究明の有力な拠り所とされたが、胃内容物が食後2時間以内だから殺害時刻が6(4+2)時頃になってしまう。2時間を共有できる異性と場所が被害者にあったことになって行き詰まってしまう。
5月1日は露地トマトとナスの植え付けが始まるころである。当時はトマト産地においてすらハウス栽培の揺籃期だったのでご馳走説には無理がある。学者、物書き、探究者等は皆ああでもないこうでもないと大いに迷った。二審の寺田裁判長は農家の子が持ってきたのだろうと推定判決を書いて現地農民の失笑を買った。
私も迷い続けた。関心は持ち続けたが長いこと鳴かず飛ばずのままだった。この度自分史の総決算の一つとして研究を再開し、主に新聞資料を読み返して、胃の中にトマトはなかった、県警本部による鑑定偽造があった、という結論に達した。狭山事件ではニセモノの証拠、証言が数多く露顕しているが、ニセ写真はその嚆矢である。
事件の真相解明に尽力され今も影響力を持ち続けている現役の鎌田、殿岡、甲斐、伊吹、・・・の諸賢とこれからの若い研究者諸氏が、ご馳走説の憑き物があればそれをはらいおとして、なおいっそう真実に迫るストーリに取り組まれることを願ってやまない。
参照 諸新聞記事抜粋集
1) 全国版 「冤罪・狭山事件研究」(代表 内藤武) 「あなたのホームページタイトル」で検索
2) 埼玉版 「埼玉・報道記事集 PARTⅣ」(部落解放子ども会大阪連絡協議会発行)150ページ 私蔵書
推奨 「狭山事件の深き謎と真犯人と疑われた男たちの半世紀」12頁にわたる伊吹隼人氏の力作。別冊宝島(2016.5.26)「昭和史開封」で検索
大腸癌は私にとってもっとも罹患が考えられない病気だった。ここ10数年、腹痛はもとより下痢、嘔吐、便秘と縁がなかった。105歳間近まで長生きした母も胃腸が強かった。私は腸に関しては自信過剰に陥っていた。
さらに舌癌と冠動脈の手術アフターケアとして24年と17年の長期にわたって行われた定期健診で、私の体は、脳、血管、食道、胃、心臓、肺臓、肝臓、腎臓、膵臓、胆道、十二指腸(小腸の主部)、前立腺(これだけは医師に特別に頼んで血液検査項目にPSAを入れてもらった)まで、データと映像による管理がなされていた。お陰で今日まで健康を維持できた。
これらは上腹部検査である。大腸は対象外である。
2,3年前から下腹部膨満感と倦怠感があった。猫の額ほどの庭で午前中1,2時間しゃがんで土いじりをするとお腹の圧迫で体がだるくなって動く意欲も昼食を食べる意欲も落ちた。
定期健診の内科医に相談したが消化剤を処方薬されただけだった。循環器の内科医には心不全のせいではないかと懸念を告げたが検査の結果心血に異常はないと言われた。
私は前立腺手術と関係があるかもと考えて泌尿器科のDr.にも検査してもらったが関連を否定された。
そのころ大腸で腺腫癌が進行していたと考えられるが、私もだが、どのDr.も腸閉塞、大腸癌の疑いに想像が及ばなかった。百慮の一失、残念でたまらない。
総合診療医(ドクターG)のクリニックの必要性を強く感じる。総合病院には総合内科があるが、しかるべき専門医への患者振り分けが主で、みずから病名を突き止める役割は担っていないように感じる。
今年になってなぜかお腹の膨満感が消えた。そして、既述のとおり、コロナ自粛で最もストレスが溜まっていた4月末ごろから、朝食を食べ始めると2,3秒間へその周りを中心に痛みを感じるようなった。5月の中頃、北摂総合病院で受診すると、画像検査で大腸が荒れているようだから[もっと強く言ってもらっていたら、と残念に思う]と、内視鏡検査を強く勧められた。
1か月後の内視鏡検査の結果は、腸閉塞を伴う上行結腸癌だった。至急大腸の上行結腸を切除しないと、その間に腸閉塞で緊急入院となると、W治療になり、治療の困難が増す、と警告された。
手術の結果は既述のとおりで、膨満感が始まったころより身軽で元気になった。
検索してもほとんどヒットしないが、大腸癌の症状に下腹部膨満感→倦怠感(私の場合は最初それしかなかった)があることを知ってもらいたい。
下腹部に膨満感を感じたら、ほかに症状がなくても、腸閉塞か大腸癌を疑おう!
PCがno signalと出てまったく利用できない日が続いた。日々の日課の一つがこなせずイライラが溜まった。
ねじ回し一本でケースの蓋を開けて見ると10年分の埃がたまっていた。ブラシとエアダスターで掃除するとPCが蘇ったばかりか表示が速くなった。機器無智の私にしては上出来だ。
大腸癌手術を無事「卒業」できたので今回は体験した医療と看護について綴ってみたい。一患者のささやかな体験にもとづく感想なので、当該病院や医療体制の評価を意図するものでないことをあらかじめことわっておく。
入院直後、主任麻酔医から脊髄硬膜外麻酔の使用に同意を求められた。これは術後の経過を楽にするもので天皇も自分も体験している、ほぼ百パーセント安全で皆同意しているので是非署名してほしい、と説得された。
大腸癌手術の標準治療の一環に入っているのに何故特別の同意が必要なのか、頭をかしげるが、そのことはわたしにはどうでもよい。わたしが署名を渋ったのは前立腺肥大手術の際、主治医から普通硬膜外麻酔で手術するが、血液サラサラ薬を服用している高齢者には出血のリスクがあるので全身麻酔で手術する、と言われていたからである。
天皇の名を二度出しても同意しないので「手術時に取り消せるから署名してくれ」とまで言われて、それならばと署名した。
手術当日の朝、看護師に全身麻酔だけにしてくれと申し出ると「それは大変、準備の変更をしなければ・・・」とナースセンターに走った。
「術後、楽になる」の意味を知ったのは私が個室から4人部屋18号室に移った日の晩である。私はナースコールを押すほどの事はなかったが、同室者はしばしば誰かが看護師を呼び、話し声が聞こえた。幸か不幸か難聴のわたしは気にならなかったが、看護師は入れ替わり立ち代わり大変だった。18号室は術後間もない重病患者の部屋であったのでナースコールのライトが頻繁に点滅していた。
聞けば夜間は病棟20室を看護師3人+ヘルパー1人で看ていた。すべての部屋が満室だったわけではない。また苦痛を訴える患者は他の部屋ではまれであったように思われる。それでも4人ではナースコールに即応できない。
硬膜外麻酔は苦痛を訴える患者に留置カテーテルを通じて麻酔薬を注入して、患者ひいては看護師を「楽にする」働き方改革の一環だった、と理解できた。
当該病院における働き方改革について消化器外科病棟で感じたことをもう少し付け加えよう。
朝、定時になると出勤してきた大勢の看護師とヘルパーがセンターで各自PCと向き合う。昼食時には一斉にほぼ居なくなる。夕べの定時になるとまばらになる。配膳、配薬担当はこの限りでない。
また、ノートパソコンを載せた台車を押して定時的に各部屋をめぐり計器で患者のデータを収集、記録する看護師も変則勤務である。朝6時から夜10時までの16時間勤務であるようだ。3,4日看護してくれた女性はこのような勤務形態だった。その後姿が見えなくなった。派遣だったのだろうか。病院でも派遣は常態化している。
私見をはさむが、派遣のよいところは勤務形態を多様化できる点である。反面賃金を中抜きされ搾取される。看護師の職務内容はきっちりマニュアル化されているから研修は不要で、研修名目の中抜きはあってはならないと思う。そのあたり実際はどうなっているのだろうか、訊いてみたかった。
各人のやることがタイムラインに沿ってすべてマニュアル化されているから、病棟の仕事は蟻の集団活動のように整然と進行していた。
医師と看護師はおもにPCと向き合っている。それがONである。OFFつまり患者と対面することはまれである。医師と看護師は機器を観て患者の顔、表情を見ない。患部に触ることもほとんどない。要するに患者との心の触れ合いがない。
医療サービスや業務におけるデジタル化は従事者自身の「デジタル化」つまり装置との一体化と表裏一体をなしている。AIが診断を下す日も間近であると思う。
ITとデジタルの進歩が難病の治療に多大の貢献をしていることに異議はない。一患者としてそれを実感した。半面、病いは治るが気が病むという合併症が生じるのではないかという心配が生じた。良きにつけ悪きにつけ心の触れ合いがないから孤独に陥るのである。
私みたいに1,2週間で退院可能なら我慢できるが長期療養者は鬱にならないだろうか。病院には患者の様々な悩みを聴く相談コーナーがあるが、私は体験したことがないので、医療当事者が新生の孤独病を認識しているのかどうか、何も知らない。
2022.8.1~
8.1(月)入院。臍ゴマとり
8.2(火) 低残渣流動食。下剤。シャワー後から点滴。零時から絶食
8.3(水)8時浣腸。着替えて10時手術室へ。麻酔用マスクを装着すると同時に昏睡。5時間後「目覚めましたか」で覚醒。「生きていた」と実感。ICUで一晩過ごす。お腹に石ころが詰まっていて重たい感じ。眠れないのが苦痛
8.4(木)ICUでは「管と線に繋がれて」寝たきりだ。呼吸、心臓、排尿が管理されている。点滴で栄養、水分、薬剤を入れている。麻酔が残っているのか、体を動かすとお腹に響く感じで痛いほどではない。
午後個室に移った。そのころから、響く感じが持続的な痛みに代わった。寝相を変えることもできない。
困るのは痰が溜まって来て咳が出そうなときである。咳をしようにも脳が痛みの触発を先取りして咳にブレーキをかける。こういう時は自然に咳が出るまで待てばよい。軽い咳でまとまった痰がとれることがわかった。
自前で呼吸できるようになって3時からリハビリがあった。抱きかかえて起こしてくれた。マッサージのあと支えられて240歩いた。大腿四頭筋のフレイルを抑える方法を教えてもらった。
痛みが響きにもどった。
8.5(金)睡眠薬が利いてよく眠れた。呼吸、心臓、排尿の管、線がとれて身軽になった。残るのは点滴と排血(ドレーン)の管である。
8.6(土)眠れないので早朝6時の点灯が待ち遠しい。体調はよいが昨日からときどき幻視が現れた。術後せん妄の現れであることは後日知った。
目をつむると暗闇の中に色つきの画像が大写しになる。新聞のTV番組欄、見知らぬ風景等。5年前の日付を読めたドキュメントには考えさせられる。脳内にはふつう呼び出せない無数の画像が保存されているのだろうか。
8.7(日)初めての食事。低残渣流動食3分粥300mlとみそスープ
歩行器に支えられて毎日2400歩リハビリしている。
体重77キロ、入院前より1キロ増、きわめて異常だ。
両眼の瞼が腫れ目の奥がいたい。体重増は明らかなデータの異変だから何らかの処置をしてほしかった。
8.8(月)夜中に便がドバッと出た。小のほうもひんぱんに出るようになった。これまでの点滴が体に回ってむくみをおこしていたと考えられる。腹腔内出血排出チューブと点滴チューブがとれた。看護師に「お疲れ様」といわれて一瞬何のことかわからなかった。
8.9(火)体重74キロ台。低残渣流動食5分粥300ml
身軽になったが歩くとキズが痛い。
8.10(水)昼食から全粥になった。便もガスも出ない。
夕食も全粥。直後から吻合部あたりが痛みだした。
寝ていてもずっと痛い。どんな姿勢でも痛い。
7:30にガスが出た。7:50に看護師が来て「痛み止めあげましょうか」
8:20ガスが出た。息が詰まりそう。深呼吸できない。足の方から寒気がしてきて悪寒で体が震える。看護師が二人来て、血圧、酸素、体温を測定した。「ちょっと先生に言うわね」
8:45大量に便とガスが出る。直後先生(多分救急医)が来て血圧を測りレントゲンを撮った。
痛みがましになった。睡眠薬を服用したが朝まで一睡もできなかった。
8.11(木=祝)入院中最大のピンチに悪戦苦闘して今朝は疲労困憊、何かをする意欲を喪失した。
回診に来た主治医は夕べのデータしか見ていなかった。もともと容体の経過(トラブル)は共有されていないとしか思われない。交替した看護師に「夕べわたしにどんなトラブルがありましたか」とそれとなく訊いてみた。「何もなかったよ」
万一のことがあったら家族にどう説明するのだろうか。
看護師の名誉のために一言付け加える。夜間は看護師3人とヘルパー1人で病棟20室を看ている。
8.12(金)退院
全長32㎝
妻に聞いたが大腸の3分の1を切り取ったそうだ。体重3キロ減の73キロ台。
久しぶりの我が家だがわたしへのコロナ感染を警戒して孫たちは来なかった。
心労と過労で妻の精神状態が少しおかしい。あすから私は病人をやめる。朝昼晩の水やり・3000歩ウオーキング・ブログ執筆のルーティンを実行する。
8.13(土)娘の家族、息子たちの家族がお盆の旅行に出かけ私が朝昼夕の水やりをこなしたため、妻は元気を回復した。
8.14(日)やることはやったが体がだるい。睡眠不足のせい。
8.15(月)鈍痛で気が晴れない。食事制限がストレスになっている。
8.16(火)まるでお腹に鉛を入れているかのように重く痛い。
8.17(水)昨日に同じ、進歩なし。体重71キロ台
8.18(木)外科通院。検体の顕微鏡検査の結果が主治医から詳しく説明された。
①リンパ節転移なし。
②「上行結腸の腫瘍は腫瘍底が広く、比較的小型の腺腔を示す腺癌で、潰瘍中心部で筋層を越え、脂肪組織まで湿潤しています」
癌細胞の広がりが大きいから血液を通して癌細胞が結腸外に漏れている可能性がある。ステージⅡA、ハイリスクの診断。
癌再発予防のため 二択の選択肢が主治医から示された。外科で定期検査を受けて様子を見る。内科で抗がん剤治療を受ける。
一難去って又一難。
8.19(金)疲労感で一度椅子にもたれると起きるのが億劫で2時間ほどムダに過ごしてしまう。体重71キロ台も心配だ。元気づけに妻の反対を押し切って赤肉を一切れ食べた。
8.20(土)受診。癌化学療法専門医の説明を受けた。ステージⅡA. 切り取った組織内の血管、リンパ管に癌細胞が入っている。他臓器での再発率30%. 安全率70%. 5年過ぎれば再発なし。
術後化学療法の副作用はかならずある。患者が身内なら勧めない。なんと力強い言葉だろう。決心が固まった。
8.21(日)普通の便通になって来た。大腸の働きが良くなってきた証だろう。最近よく眠れる。
8.22(月)循環器内科。これからお世話になる先生。気軽に話せそうだ。味覚のうちウマミが衰えて何を食べても美味しくない。
8.23(火)リクライニングチェアから立ち上がるのが億劫。案の定ウオーキング途中で息切れし、ふらつく心配も出て来た。退院後初の経験。目標歩数未達成、2000歩止まり。
8.24(水)体調回復。足取りも軽く3000歩達成。なぜか夜は尿が出にくい。これが最近の一番の気がかりである。
8.25(木)消化器外科診断。転移の有無を5年間定期観察することになった。気がかりの排尿難、術後に始まった左脚神経症について、それぞれ泌尿器科、整形外科に渡りをつけてもらった。主治医が9月いっぱいで大学に戻ると聞いて夫婦で落胆した。
8.27(土)
泌尿器科受診:前立腺肥大はなし。排尿改善の常用薬を処方された。心配のタネ=腫瘍マーカーPSA値24。「生検をしましょうか?」3カ月後のPSA値を見て悪ければ生検を受けるほかあるまい。
整形外科受診:レントゲンの結果脊柱管異常なし。神経痛の原因が腰部にある? 次回MRIで検査する。
8.31(水)腸の働きは快調。昨夕「快気内祝い」をした。対象は内で夕食を食べて帰る孫娘3人。御馳走はビフテキ。私ら夫婦は翌日鰻丼で回復を喜び合った。病院の皆さんに感謝を伝える手段がないのが心残りだ。
9.5(月)整形外科MRI検査
910(土)整形外科診断。腰部に異常なし。下肢の神経痛は血流のせいでは、と言われた。
9.12(水)消化器外科診断。丁寧な説明と質疑応答があった。主治医は9月いっぱいで出身大学病院に転勤になる。さらなる活躍を祈る。私の癌治療に関わった延べ数百人の方々に深く感謝している。
PET-CTの結果は「大腸癌である。遠隔転移は観られない」というものだった。北摂総合病院消化器外科で8月1日入院、3日手術が正式に決まった。
上行結腸を小腸と横行結腸から切り離して除去し、小腸と横行結腸を吻合すると主治医から説明を受けた。リンパ節郭清も避けられない。手術時間4時間、入院期間10日の予定。
無事生還したらまたブログを再開したい。
来年は狭山事件から60年、やがて成田闘争も60年を迎える。事件の最終推理、反対同盟員間和解のすすめについてぜひ書きたい。
最後にして最大のテーマは、ブラジルの緑の大地が移住者によってどのように変貌し何をもたらしたか、である。
父母も開拓で関わったジャングルは、半世紀でコンクリート・ジャングルに変貌し、先住民は生活圏を犯されさらに奥地へ逃避した。掘っ立て小屋で生まれたわたしは、文明の破壊力を目の当たりに見ている。最後の目撃者として体験記を綴りたい。
医療の科学と技術の進歩は著しい。私の素人推理は1枚の映像で一蹴された。
7月14日、妻子同伴で北摂病院に結果を聞きに行った。内視鏡がそれより奥にはいらないほどに腫瘍(生検で癌と診断確定)が上行結腸の終点近くを塞ぎかけていた。
ステージⅢ?
腸閉塞間際の危険な状態であるから異変を感じたら即救急に来るようにいわれた。迷う暇もなく次の一歩を先生に決めてもらうほかなかった。運よく PETーCT検査の予約が国立循環器センターでとれた。しかも翌日にである。
15日往復を含めて5時間かけて全身の輪切り写真を撮った。これで癌の深さと広がり、転移が分かるそうだ。
20日には北摂病院で手術のための予備検査(下肢静脈と心臓のエコー)を受けた。
阪大病院で永らく受けていた定期検診を北摂病院に移行する作業も両病院間でスムーズに進行中である。
明日21日、上記検査の結果と治療方針が示される。吉と出るか凶と出るか、いずれにしても、入院、手術は避けられない。
2月と4月に受けた定期健診では内蔵に関する数値は、鉄分不足以外はすべて基準値内であった。変形性膝関節症以外は気にする病はなかった。
コロナ自粛で最もストレスが溜まっていた4月末ごろから朝食時に2,3秒間へその周りを中心にお腹が痛み始めた。5月の中頃、近くの病院で受診すると、画像検査で大腸が荒れているようだから、と内視鏡検査を強く勧められた。いったん月末に検査することを承諾したが、一日考えて翌日キャンセルした。
その理由はこうである・・・。
自分は、免疫細胞の7割が常在するという腸内環境に絶対の自信をもっている。ノロウイルスが猛威を振るったときでさえ、同居家族全員が年末年始を寝たきりでポカリスエットとオーエスワンだけで過ごした(母は入院した)時も、私はダウンしたが嘔吐までいかなかった。
その後も下痢をしたことがない。「じいじのおならはどうして臭くないの」と幼い孫に言われたことがある。私は内視鏡検査のための下剤で、腸内の免疫花園を善玉菌もろとも根こそぎ洗い流すことを想像して、内視鏡検査を断ったのである。
だが処方されたビオフェルミンを服用しても腹痛の頻度と秒間は増すばかりで、昼食時も痛むようになったので再度受診した。血液検査では炎症反応はみられなかった。翌7月1日に造影剤CTを撮り2日に内視鏡を入れた。
途中、内視鏡が進みにくくなり、補助員が両手で強く腹部を抑えることが2度あった。その意味はあとで解かった。
主治医は無口で経過をとばして次の予定だけ告げるような人だった。次の外来日に妻を同伴できるかと聞くのでハイと答えると、子供は、と訊かれた。これで何か悪い状況証拠が出たのだと確信して問うた。
[悪い所を切除しましたか? ]
いいえ、検体を2mmとりました。
次にお腹に空気を入れてCTを撮ったことでその日の検査は終わった。その時の問答・・・。
[夕食は食べていいですか? 何を食べたらいいですか?]
消化の良いものを。食物繊維はダメ。大腸が詰まりかかっているから。
[悪いんですね]
悪いです。検査結果をしっかり検討したうえで14日に外来で[妻子にも]説明します。
主治医はそれ以上のことは言わなかったが、わたしは内視鏡検査が終わりに近づくころ頭を少しもたげて壁のモニターで20mmぐらいの潰瘍を見ている。その表面は大半が白い粘膜に覆われていた。一画面しか見ていないので、もっと他に潰瘍があったかどうかはわからない。
以上の情報をもとに、ネットで病名を推理した。
ポリープと腫瘍がないとしたら、また出血もないので、癌ではないだろう。また癌の症状で思い当たるものが他にないこともこの見立てを支持しそうだ。
あえて挙げるならば、食事時の軽い腹痛とその後の倦怠感はあった。同時に食が細くなった。体重減少はない。発熱もない。
容易に考え付くのは潰瘍性大腸炎である。多発していたらクローン病である。ともに原因不明で特効薬のない指定難病である。
潰瘍性大腸炎であっても重度の要件は満たしていない。腸管狭窄はあるが下痢、出血、体重減少、発熱がない。
さらに検索を続けると、原因に心当たりのある大腸潰瘍がまれな例としてUPされていた。大腸全摘、死亡の実例があった。アスピリン起因大腸潰瘍である。
アスピリンはわたしが冠大動脈手術以来17年間服用している血液サラサラ薬である。私の大腸潰瘍がその副作用に起因すると考えても上掲症状と矛盾しない。
5月17日付けでBAYER社がバイアスピリンの「使用上の注意」改訂を発表した。
● 「11.1 重大な副作用」の項(自主改訂)
国内において本剤との因果関係が否定できない狭窄・閉塞を伴う小腸・大腸潰瘍の症例が集積していることから、「11.1.7 消化性潰瘍、小腸・大腸潰瘍」の本文中に本件に関する内容を追記し注意喚起を図ることにしました。
「消化管出血、腸管穿孔、狭窄・閉塞を伴う小腸・大腸潰瘍があらわれることがある。」
わたしの病が狭窄を伴う大腸潰瘍であると推定できると思う。
とりあえずバイアスピリンをやめて消化の良いものをとって主治医の確定診断を待とう。
7月6日、阪大の心血内科で循環器の定期検査を受けた折、理由を述べて14日までバイアスピリンを止めたいと担当医に意思表示をした。専門医の確定診断が出てない状況で治療法をいじくるのが一番悪い、と一蹴された。そして20日に診断結果に基づいて治療法(薬剤の選択)を決めることにしてくれた。