自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

敗戦の後遺症/暮らし

2012-07-16 | 体験>知識

目に見える印しでもっとも脳裏に焼きついているのは空を飛ぶジェット機である。
空に浮かぶ一直線の白雲の先を追うとキラキラ銀色に輝く機影があった。
ブラジルでは、 聞いたことも見たこともなかった。
次に造り酒屋の蔵壁が本来は真っ白なのに縁を残して黒く塗りつぶされたままだったことである。
爆撃を逃れる目隠しのためだった。
実家の「我が家」は田舎だったので空爆を受けなかったが、久留米市は終戦真際の8月11日市街をねらったじゅうたん爆撃を受けて大きな被害をこうむった。
死者214名、ホームレス4千余名。
かねてからの目標だった久留米師団の軍事施設はまったく爆撃されなかった。
日本が降伏することがわかっていたから燃え広がりやすい市街を狙ったのか?
絵になる華々しい戦果で昇進を図った司令官による虐殺だと思う。
終戦後6年経っていたせいか私は焼け跡を見ていない。
真っ赤に空を染めて燃えるのが遠望されたと言われる大刀洗飛行場を見に行ったが夏草に覆われたでこぼこの荒地とサツマイモ畑に変貌していた。
衣食にはまだ後遺症が顕著だった。
時々アメリカからの古着が配給されていた。
6年経っても義援品が届いていたことにいまさら驚く。
小学生はカーキ色の国防服を改造した制服を常用していた。
わたしはカシミアの背広を改造したものを制服にしていた。
目立ったにちがいないが気にしたことはない。
学校給食にアメリカの支援物資(余剰農産物だから安かった)パンとスキムミルクが出た。
当時子供心にも人心の荒廃と治安の悪さが感じ取られた。
まず学校の講堂に夜巡回映画を見に行って靴箱に入れておいた新品の長靴を盗られた。
代わりにちびた下駄が残されていた。
久留米市に何かイヴェントを見に行った夜、帰り道で2人の少年に両側から首に手をまわされ建物の暗がりに連れ込まれようとした。
振りほどいて電車の駅まで走って逃げた。
2回とも従弟たちといっしょだったが、そういう危険があることを前もって教えて
くれなかった。