自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

バンデイランテス余聞/二人のキング

2024-01-26 | 移動・植民・移民・移住

バンデイランテスは、ブラジル植民地創成期に大農場(ファゼンダ)の労働力不足を埋める奴隷を求めて、インジオ狩りをした奥地探検部隊のことである。
「イエズス会士とバンデイランテス」の章の執筆途中で自分史とちょっと関わりがあったのでエピソードとして投稿する。

奥地に奴隷狩りに向かうバンデイランテスは、往路の駐屯地で砦を築き、耕作、播種をして帰途の食料に備えることもあった。
私の父方の伯母家族(父は姉家族の構成員とされていた)がサンパウロ州での義務労働(コロノ)で貯めた資金で購入・移住したバンデイランテス駅付近の土地は、昔その駐屯地の一つだったと考えられないこともない。そこは南部ジェ語族・カインガンゲス族の生活圏だった。
バンデイランテス遠征隊は奴隷狩りと奴隷商売で忌避される一方で金銀ダイア目的の遠征の実績によりブラジルの領土拡張をもたらした愛国の英雄として歴史に名を残している。当初ブラジルの領土は、法王による世界地図上の線引きとスペイン・ポルトガル間の条約(トルデシリャス条約  1494年)により東部沿岸部に限られていた。
バンデイランテスは現パラグアイ、アルゼンチン国境近辺までたびたび遠征してスペイン人イエズス会のグアラニー族布教村を潰しまくった。その矛先は風の便りに聞いたポトシ銀山(現ボリビア)をも指していた。
バンデイランテスの暴虐とイエズス会神父のミッションの物語は次章に譲る。今回は3回訪れたことがあるバンデイランテス市(現人口3万余)に寄り道する。

伯母家族と父の弟(私の叔父)の結婚式。花婿の真後ろに母に抱かれた私。バンデイランテス  1940年

バンデイランテス市はLondrinaの東に70kmほど行った所にある。石の多い土地だったため開拓に苦労した、と父から聞いた。姉家族の子・孫達つまり私のいとこ・はとこ達はそこで運輸業、商業など都市型職業と近郊型農業に就いていた。
1991年Londrinaに里帰りしたとき私は彼らに会いに行った。わたしの子守をしてくれたいとこ3人が不在だったので会った覚えのないいとこ、はとこ(一世から三世)ばかりで旧交を温めることにはならなかった。

バンデイランテス市には、カズーこと三浦知良選手が1986,87年に在籍したことがあるフットボールクラブ「SEマツバラ」の選手育成施設(寮と練習場)があった。ブラジルの綿作王といわれた松原武雄氏が創ったクラブで、来日した際大阪市の靭公園でも試合をしたので観戦したことがあった。私が見学に行くと弟さん(多分クラブオーナーのスエオさん)が案内してくれた。
施設はさびれて貧弱だった。寮には宇都宮からの留学生が一人居ただけだった。クラブの本拠地でなかったせいもあるが、1987年にアマゾンのフォルクスワーゲン牧場(4万ha、牛4万頭)を買収してブラジル十大地主に名を連ねたマツバラが資金繰りに苦しんでいたことと無関係でなかったことを後で知った(外山脩『百年の水流』第一部「北パラナの白い雲」24)。
北パラナの入口カンバラー市を本拠地としたSEマツバラも3州にあったファゼンダ・マツバラも今はない。マツバラも、外山脩氏がWEB本稿の序で記した「青空に浮かぶ白い雲の様に、フト気がつくと消えてしまっている」という軌跡を辿ったのである。



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