その夜遅くブントの北小路敏さんがわたしをオルグするために真如堂近くの下宿に来た。
はなから社学同で活動するつもりだったので共産同の勧誘は屋上屋を重ねるようでピンと来なかった。
それほど社会主義、共産主義に疎かったし、社学同が公然かつ大衆組織で共産同が隠然たる指導組織であることにも無知だった。
権力にも反権力にもネガと抜け道がある。
岸首相は巣鴨プリズンの盟友、満州国時代からの政商右翼児玉誉志雄を介して右翼暴力団を動員した。
後述する安保国会では「神聖なる」議会傍聴席に右翼暴力団を侍らせた。
前年秋の東大教養部自治会選挙でブントは共産党に勝つために投票用紙をすり替えた。
新旧左翼間ではこれを「ボル選挙」とよんでいたそうである。
ボルはロシア共産党ボルシェヴィキのことである。
社学同と共産同の違いは同盟員がこういう陰謀と作業に従事できるかできないかにある。
学生運動の方針を決定するのは共産同で、実行するのが社学同である。
北小路さんは府学連の先行活動家の間では説得力ある弁舌と貴公子然とした風貌で人気があった。
またかれは詩的雰囲気ゆえに女性、芸術家にも愛された。
わたしはその頃まだ彼のことを知らなかった。
4月3日共産同は4月26日に学生ゼネラルストライキと戦闘的な国会包囲デモにより労働者階級の決起を促す方針を決定していた。
「学生運動の先駆性」を活かして「労学提携」を図るのだ、と説明を受けた。
この方針に異存はなかった。
むしろそれゆえに活動家になる決心をしていた。
北小路さんが力説したのは革命の路線問題だった。
なぜ共産党と決別して共産同を設立したか?
根本的な、原理的な違いは何か?
違いはスターリンの一国社会主義路線にまでさかのぼる。
レーニンはロシアで史上初のプロレタリア革命政権を樹立したが、後続する先進工業
国を核とする世界革命なくしては、社会主義は実現できないと考えていた。
後継したスターリンはソ連社会主義建設と称して農業集団化と重工業建設を強行し、
強制収容所と大粛清の恐怖政治、個人崇拝で史上例のない犠牲者を出した。
世界の共産党をソ連擁護の道具化し、世界革命を裏切った。
ブントは革命運動の障碍となった日本共産党に抗して世界革命のために戦っている。
ブントは安保批准国会を包囲し死を決して国会に突入し物情騒然たる状況を創る。
その渦中で日本帝国主義を打倒する闘いのための前衛党を建設する。
狭い下宿で胡坐をかいての座談は延々と続いた。
無知なわたしは単なる聞き役で質問の種になる常識をもちあわせてなかった。
世界革命という、つかみどころのない遠大な理想は心に響かなかった。
安保粉砕、岸内閣打倒から先のヴィジョンを描けないまま、わたしは全学連主流派の果敢なデモと孤立、単純思考だがフレッシュで明るく開かれた組織に惹かれて、言われるままにブント同盟員になった。
ブント加盟で自動的に社学同加盟となった。本末転倒である。
活動家時代、ブントの方針の立案、反省会によばれることは一度もなかった。
実質社学同の活動家に過ぎなかった。
北小路さんは4.26の全学連単独国会突入デモで唐牛以下幹部が逮捕された後を受けて全学連の委員長代行になり、6.15国会突入事件の総指揮を取り、府学連の星から全学連の星になった。
国会南通用門で先導するYシャツと学生ズボン姿の彼のTV映像は歴史に残るが、腰に
下げた白い手ぬぐいが彼の人柄を語っているようでわたしには印象的だった。