6.18 33万人怒りの国会包囲 これほどの市民運動は後にも先にも無い
明治維新来この方日本の支配階級は富国強兵を国是としてきた。
その間田中正造翁が足尾銅山鉱毒垂れ流しに体を張って抵抗し「亡国に至るを知らざればすなわち亡国なり」と警鐘を鳴らしている。
夏目漱石は日露戦争勝利で「一等国」入りに沸く世論を意識して作中人物についには「滅びるね」と言わせている。
三四郎が、ますます発展するでしょうね、と問うたのに対する答である。
行き着いた敗戦で実際に存亡の危機に瀕したが、東西冷戦と朝鮮戦争に助けられて蘇り、再度富国強兵に邁進してきた。
さすがに鎧だけは「平和」の装いで隠し続けたが。
戦後、支配階級とその政党人、軍と官の幹部はほぼ生き延びた。
そしてかれらがほとんど満洲人脈に由来することを調べれば調べるほど思い知らされる。
東条英機に重用された岸首相と児玉誉士夫は言うに及ばず吉田首相だってそうだ。
そして安保条約の争点と密約の内容はすべて岸の孫の安倍首相の時代に「晴れて」陽の目をみようとしている。
国民は経済成長のスローガンに弱い。
その先に亡国があることを見ようとしない。
過去も見ようとしない。
さて安保闘争を振り返ると後智恵だが戦後の反政府抵抗運動の分水嶺だったことが分かる。
総労働対総資本の対決だとマスコミにキャッチコピーを付けられた三池闘争を境に労働運動は労使協調、経済成長路線に取り込まれ無力化していく。
学生運動は孤立に向かい先鋭化してゆく。
ブントと全学連は暴走気味の機関車となって安保闘争を牽引した。
ところが5.19の岸内閣の暴挙によって運動の輪が爆発的に広がると全学連はその渦に呑み込まれるように影が薄くなった。
ブントは闘争の主導権を取り戻すために6.15に首都決戦を仕掛けた。
当時ブント同盟員はたかだか3000名だったそうだ。
わたしみたいに覚悟のできていない地方の末端同盟員を含めての数である。
だからブント指導部が頼りにし指導できた精鋭は東大、明大と中大からなる先頭集団5~600名ではなかったか。
対する警察は2000余の警察隊、機動隊を配置できたが主力は「鬼の四機」こと第四機動隊である。
双方の精鋭が南通用門で正面対決した。
双方に準備があり作戦があった。
そして焦りがあった。
焦りの一因に共産党系のハガチー闘争の思いがけない高揚があった。
アイゼンハワー大統領特使のハガチーの車が警備の手違いから来日阻止デモの中に巻き込まれ身動きできなくなって特使一行が米軍ヘリに救出されるという事件があったばかりである。
ブントは体を張って戦うのは自分たちだけだと改めて示威する必要があった。
警察は曝け出した治安の脆弱性から威信を回復するためにも国会突入を阻止しなければならなかった。
樺さんの死までは双方作戦通りだったと見える。
警察隊のリトリート、四機の突入、分断包囲、殲滅逮捕。
ところが数分で死者が出た。
あとは憤激憎悪に火が付き、アメリカ大使館警護に当たっていた1500名が合流した機動隊と後続デモ隊4000人との乱戦が深夜まで続いた。
一晩中放送されたラヂオを聴いて現場に駆けつけた市民も少なからずいた。
《窪田アナがその男たちに「あんた方は学生か」と聞いた。
すると、入れ墨をした者もまじえた男たちは「俺たちはオデン屋組合の被用人だ。120人で来た。警官なんかやっつけちまえ。弱虫の学生とは違うんだ」と云いながら消え去った。》
警察力だけでは治安が保てないことが明白になった。
翌16日岸首相は安保の仕上げの儀式となるアイク訪日を断念し退陣を決意した。
ブントは前衛を志向して首都騒乱を想い描いたが国会占拠を方針化するだけの力が無いことを思い知らされた。