自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大学時代/合理化阻止闘争/日炭高松闘争

2016-06-07 | 体験>知識

戦後復興を支えた主柱の一つであった石炭鉱業が石油エネルギーへの転換期を迎えて斜陽化し、三池炭鉱争議に代表される反合理化闘争を招いた。重油輸入自由化という「黒船」が迫っていた。 

1961年の夏、わたしは鹿児島本線折尾駅か水巻駅の北側に下車した。
目的は筑豊最大級のヤマ日炭高松の炭住である。
闘争本部に行き来意を告げるとすんなり受け入れてくれた。
わたしは私服で学生を名のり炭住で数日間こどもの学習を助けたいと申し出たはずである。コネも紹介状もない、組織のバックアップもない、まったくの個人ヴォランティア活動だった。

わたしは活動の領域を学園を拠点にする政治闘争から別のものに変える希望を抱いていた。現代の革命と社会運動について広く学習、体験して次の活動の場と進路を決めなければならないタイミングが卒業まで3年を切っていた。

労働運動と労働者の生活を知りたいという願望を満たすため、反合理化闘争として全国的に注目の的となっていた日炭高松闘争を選んだ。日炭高松労組は4月から無期限ストライキを続けていた。

ある活動家の家庭に配置された。2階長屋の一角に夫婦二人と子供二人が住んでいた。ストライキ中なので給料がなく炭労から支給される生活費(1万3000円?)でつつましく生活していた以外、炭住は庶民の日常と変わりないように感じられた。
五木寛之の「青春の門」に描かれた男気あふれる川筋気質も、大学を中退して炭坑夫の生きざまを体験しながら記録した上野英信の「追われゆく坑夫たち」の汗と焼酎の臭いも漂っていなかった。
それもそのはず、わたしが入ったのは三池闘争のような砦ではなかったから。その年の最大の争議である日炭高松闘争は中央で闘われていたから現地に「砦」はなかった。
三池で敗れ疲弊した総評と社会党は、熾烈な生産点闘争から逃げるかのように首都で政府に迫る「政策転換闘争」に路線を切り換えて、現地に支援オルグを送るのではなく逆に地方から中央に逆オルグを送ることを求めていた。
やがて京都でもヘルメットにキャップランプ、ヤッケ、地下足袋といういでたちの炭坑夫の上京行進団とビラまきが見られた。
静穏な現地でこども二人の夏休みの宿題をサポートしたほか特に得ることもなく最初の「支援」を終えた。何も目の付け所を持たない手探りの旅だった。
それでも学園新聞にルポを載せている。
その内容を確かめたい半面見るのが怖い気がする。

最後の日、男児二人を連れて岩屋海水浴場に水泳に行った。
人生で初めて高飛び込みをした。
高さに自分の背丈が加わるから台上から黒い海面を見下ろすと足が震える。
しなる飛び板の先までこわごわ進み下を見ずに頭から飛び込む。
「しまった」と思った瞬間体が腕、頭から海面に叩き付けられ、腕がねじれて背中にまわった。
海面は壁のように厚く感じられた・・・。

わが模索の最初の一歩はこんなものだった。