1963年の初夏、わたしは就職活動を始めた。進むべき道がまだみえなかったためとりあえず就職試験を受けておくか、という結果を考えない安易で無責任な行動だった。両親の不安をおさめる狙いもあった。
2,3受けて造船会社から内定をもらった。関西電力を受けて落ちた気がする。
なぜ造船かというと三菱長崎造船に「社研」という新左翼の組織があって頼もしい指導者と聡明な青年たちの活動を交流会や出版物を通してみていたからである。
それに造船は鉄鋼、電力、鉄道等と並んでマルクス主義者が重視する基幹産業だった。
しかしあいまいな気持ちで臨んだ就職活動が破綻するまでに時間はかからなかった。
人事課長が興信所の調査書をもって京都まで飛んで来て事実かと問いただした。とぼけていると内定を辞退してほしいと言われた。諾否を保留していると、2回目に来たときゼミのHT先生に私の説得を依頼した。学究肌の先生はにべもなくことわった。
3回目があったかどうかはっきりしないが、私は瀬戸内から数回足を運んで来た課長の窮状に同情した。わたしの倍ほどの年齢の温和で実直そうな課長に私は背中をまるめてとぼとぼと歩く父親の後ろ姿を見た。
このあたりで決着をつけなければ・・・。
「興信所の調査書をみせてほしい。そのうえで進退を決めます」
調査書には調査の足跡のほか私の所属と活動歴が詳しく記載されていた。社学同所属、教養部自治会書記長、同学会会計。
その場で内定を辞退した。自分のせいで罪なきひとを振り回してよいのか。
これで会社に勤めながら何か活動をするという選択肢はなくなった。
両親には電話で内定を辞退したこと、卒業後は塾で自活しながら労働学校をやることを報告した。電話の向こうで父親が絶句していた。
年末年始に帰省したとき自分のいい加減さが両親の不安を煩悶に高めてついには絶望に至らしめたことを知った。
父の言葉「高い山から深い谷に突き落とされた気がする。夢も希望もない」
わたしは卒業したら小学生の英数塾を開いて自活しながらブントの労働運動を手伝うことに決めた。メインは自分の進むべき道を探求する在野の研究活動である。
アカデミックな研究生活とか結婚とかは念頭になかった、というよりそれを考える前提、自分の拠り所とする生き方の哲学、一歩を踏み出すための目標と将来像がなかった。