自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大学卒業は東京オリンピックの1964年/三つの活動領域

2016-12-13 | 体験>知識

卒業式に出た。活動家ばかり後方に群れていた。野次馬気分だった。実際に総長が欧州共同市場を共同イチバと言い間違えたとき野次った記憶がある。ほかに記憶は卒業式後友人たち6,7人と四条河原町に飲みに行ったぐらいである。

卒業後、大まかな方針にしたがって動き出した。

ロシアの十月革命とは何だったのか? 
ブントは十月革命をモデルに考えていた。ソ連への共感はなかった。スターリンがレーニンの死後書記長として党組織を支配し、トロツキーを排除して、巨大な官僚体制を築いて革命を裏切った、という考えに立っていた。
十月革命後、都市の工場委員会→労働者評議会(ソヴィエト)→武装蜂起というロシア的組織形態を志向する革命運動はことごとく失敗に終わっていた。
毛沢東の中国革命は辺境の農村根拠地から再出発していた。
カストロとゲバラのキユーバ革命はモンカダ兵営襲撃[失敗]に因む7.26運動という一握りのインテリのゲリラが市民、農民の共感を得て山岳地帯から首都まで攻め上がった革命だった。
十月革命の金科玉条、党組織をもたなかった。その爽やかさ、風通しの良さが安保世代と新左翼を魅了したが、日本で山岳ゲリラを考える者はまだ誰もいなかった。
とにかく十月革命とソ連の実態を正しく知りたかった。マルクスとレーニンの著作を読み通すこと、革命と動乱の書物を読み漁ることを日課にした。手っ取り早く邦訳に頼った。原書は考え付かなかった。その素養、能力もなかった。
アカデミーに入ることも同じ理由で考えなかった。

京都府立資料館近くのしゃれた洋風の離れを借りた。下宿と資料館と大学の図書館がわたしの読書の場になった。
大学には附属図書館のほかに学部図書館があるが、附属図書館と法経図書館の書庫に潜り込んで関連図書に当たりを付けた。満州鉄道調査部が出版したソ連、中国に関する全印刷物がパンフレットに至るまでカビ臭い法経地下室の書架に裸電球に鈍く照らされて眠っていたのが印象的だった。
対ソ、対華の国策に従って印刷したものをすべて漏らさずに大学図書館に納入する仕組みがあったと推察できる。そこにあった大冊の『支那抗戦力調査報告』は客観的な研究書として戦後復刊された。

まだブントの労対部に属していた*ので労働学校の試みを始めた。京都市南部の工場地帯でチラシをまいてスクール生を募集したが集まりが悪く間もなく立ち消えになった。属していたと言っても時折の下働きに過ぎず、交通費、宿泊費自分持ちでヴォランティアだった。
*わたしが恰好をつけているだけだろう。同盟費を払っていないし会議によばれていない。社学同を抜けたらブントも抜けた、とされていたらしい。
三菱広島造船に泊りがけでビラまきに行ったが反応を感じなかった。
前夜に渡されたチラシを持って早起きして奈良県吉野下市口の郵便局にビラ撒きに行って争議中のピケ隊員とスクラムを組んで気勢を上げたこともあった。当時は紹介がなくとも飛び込んですんなり受け入れられる余地があった。
これがきっかけで後に吉野から大峰山と大台ケ原の山歩きと渓流釣りにたびたび行くことになった。
労組書記という職業につくことは考えなかった。

生計は別に考えた。西陣織の町中で寺の一室を借りて小学生の学習塾を始めた。その活動についても後日稿をあらためて書くが、塾がすくない時代だったので結構塾生が集まった。友人二人に応援を頼まなければならない時もあった。