自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

関東大震災/王希天暗殺/共謀して国が隠蔽

2017-06-14 | 近現代史 大正時代の戦前

 1982年 三一書房
本稿の記述はこの研究書に負うところ大である。


作成者 加藤直樹

1981年春、ジャーナリスト田原洋が遠藤三郎元中将を訪ねたときのことである。遠藤は第一師団(長は石光真臣)第三旅団第一連隊の第3中隊長として「江東地区警備の第一線にいたと語った」   遠藤は気鋭の大尉で陸軍きってのエリートだった。当時金子旅団長の参謀挌として上掲図旅団司令部に出入りしていた。
「<大杉栄が殺されましたね≫私が会話のつなぎのつもりで、なにげなく応じると、遠藤は<大杉どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ≫と言いだした」
「オーテキンという支那人労働者の親玉[華工共済会代表]を、私の部下のヤツが殺ってしまった。朝鮮人とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽したんだ」[引用原文には必要な傍点、フリガナが振ってある]
外交問題化しそうな事案だけに国、軍警の関係中枢部が真剣に動き、その分上層部の責任もあらわになった。これまで現場にしぼっていた論述をできれば上層部にまで広げたい。
関東大震災において、日本人相当数100と中国人多数400が朝鮮人として殺されたと理解していたが、今回調べてみて、将来有望の一中国青年の殺害が日本人主義者殺害同様、軍警*によるブラックリストに基づく指名暗殺であることを知った。
私の造った短縮語。軍隊と警察の意で、
軍事警察、憲兵の意ではない。

まずは第一師団野戦重砲兵第3旅団(金子直旅団長)第1連隊第6中隊(佐々木平吉中隊長)の一等兵久保野茂次日記から。(佐々木)中隊長初めとして、王希天君を誘い「お国の同胞が[習志野収容所で]騒いでいるから、訓戒をあたえてくれ」と言ってつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、期待[待機]していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけて切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。・・・右の如きは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人ではない。外交上不利のため余は黙している。[10月19日 記  犯行は9月12日未明]

佐々木大尉は「支鮮人受領所」において9日以来王希天に「支那人の受領、護送」事務を手伝わせていた。久保野一等兵はその仕事を王希天と一緒にするなかで、かれに好感をもった。
久保野は後にカミングアウトを報じる『赤旗』の記事の中で語っている。
「いつもきちんと蝶ネクタイをしめた好男子。落ちついたらアメリカに留学すると楽しそうに話していた。無学なわれわれは王希天君と呼んで尊敬していた。お茶もよく一緒に飲んで世間話をしたことを憶えている」
「よくも殺しやがったな。ふざけやがって、畜生と、腹わたが煮えくりかえる思いがした

 吉林省長春出身  社会事業家  享年27歳 出典  田原上掲書

犯行前日「旅団内で、朝鮮人、中国人を保護検束する仕事の責任者」中岡弥高第7連隊長が第1連隊(長は中村興麿大佐*)の佐々木中隊長につぎのように話を持ち掛けた。中岡は当時大佐、浦潮派遣軍広報部長の経歴をもつエリート軍人。
もともと兵器開発の技術将校で、部隊指揮官向きではなく、発言力が弱かった。翌年軍縮を機にさっさと予備役に退いた。法政大の中村哲総長の父親。
遠藤が先走って、戒厳本部に飛んでいった。[習志野移送で]王の身柄を守るつもりらしいが、そうはさせんぞ。佐々木大尉、王は五・四運動いらいの闘士だ。秘密党員かもわからん。ヤソ教の仮面をかぶってアメリカとも連絡がある得体の知れんやつだ。古森[亀戸署長、前身は警視庁特高課労働係長]からくわしい調書を出させるのだ。あいつをやれば、手柄だぞ」
12日未明、金子旅団長の黙認のもと佐々木大尉署名の受領書で王希天は亀戸警察署から連れ出された。軍官僚制のエリートは、関与しても署名しない責任逃れの手口をこの度も利用することに抜け目がなかった。
殺害には同じ第1連隊の剣の達人垣内八州夫中尉が指名された。
新月の夜だった。遺体は切りこまさかれて星明りだけの暗い中川に流された。

著者田原洋は、遠藤はもとより垣内にも取材して上記の記述を成し得た。しかしながら処刑までの王希天の表情、生の声を聞きだすことはできなかった。たまたま大島に友人の安否を尋ねて来て亀戸署に拘引留置された周敏書が王の声を聞いている。「王希天、貴様を習志野へ護送する。早くしろっ」「どうしたんです。理由を聞かせて下さい。私、もう軍隊のご用はないはずです。・・・それに、そんなにしばると、痛いっ」

事件の後始末つまり隠蔽工作の一部始終は遠藤大尉に任された。佐々木大尉が王希天に好意を抱いて独断で解放したことにした。戒厳司令部阿部信行参謀長、内務省後藤文彦警保局長、警視庁正力松太郎官房主事、外務省出淵亜細亜局長が事件のストーリと隠蔽方針を共有し、口裏を合わせることになった。
11月7日朝、読売新聞から王希天の記事が削り取られた。「危いところで削除→白紙のまま発行」(後任の岡田警保局長)となった。その日急遽関係5大臣会議*がもたれ隠蔽を正式決定した。その夜以降幾度となく警備会議(実務者会議)がもたれ隠蔽に遺漏なきよう綿密な意思統一がなされ、中国側との会談前には想定問答が練られた。
後藤新平内相、田中義一陸相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎司法相、山本権兵衛首相  「本件ハ諸般ノ関係上、之ヲ徹底的ニ隠蔽スルノ外ナシ」


他方中国国内は10月12日上海入港の送還船山城丸で帰還した黄子連と王兆澄*によって事件の概要を知った。
黄子連は下記大島町事件で右側頭部を切られた。死んだ振りをして生き延びたが帰国後刀傷が原因で死亡した。王兆澄は王希天、周恩来の留学生仲間で親友だった。王希天と共に華工共済会を設立した東大学生である
「とつとつと生き地獄の体験(大島町事件*)を語る黄と、科学者らしく正確詳細に親友の失跡(王希天事件)を語る王の談話は、いずれも中國紙が大きくとりあげるところとなった。黄が、自分の見聞した〔174余人〕の虐殺だけを報告したのに対し、王は氏名住所まであげて〔死者275人〕〔在京浜同胞6000のうち消息不明が2000人**〕といい、日本当局は<極力、隠蔽しようとしている>と注意を促した」
「第一回ハ同日[3日]朝軍隊ニ於テ青年団ヨリ引渡シヲ受ケタル二名ノ支那人ヲ銃殺シ、第二回ハ午後一時ゴロ軍隊及ビ自警団(青年団及ビ在郷軍人団等)ニ於テ約二百名ヲ銃殺マタハ撲殺、第三回ハ午後四時ゴロ約百名ヲ同様殺害セリ」(警視庁外事課長広瀬久忠による外務省への公式報告)
黄子連が日本人宿主林某もろとも大島8丁目蓮池跡地に連行され軍警と自警団に殺害された(黄は生き延びた)のは第二回の虐殺だった。実行部隊は岩波清貞第一連隊第二中隊長以下69人および三浦孝三近衞騎兵第14連隊少尉以下11人。岩波少尉は「三日昼、大島で200人やった」と吹聴していて隊内では「岩波には金鵄勲章が出るそうだ」と噂されていた。

**消息不明2000という数字はでたらめではない。市中壊滅状態の横浜では中華街で2000の中国人が死亡した。王兆澄は尾行を受けながら大島、習志野で王希天を探しつつ中国人の被害状況を調査した。隠蔽工作者たちは尾行をまかれて国外に逃げられたことを後悔した。

中國世論は沸騰し外交問題になった。後輩張学良*が船津奉天総領事に捜査を依頼した事実もある。宗教家中心の民間調査団が来た。入れ替わりに王正廷北京政府調査団も来た。かれらは現地調査をしたが監視されている公開の場で証言をする者が居るはずもなかった。
奉天軍閥のプリンス張学良は5歳年下だが、同郷同窓のよしみで王希天と親しかったと想像できる。希天の孫・王旗は「西安事件」70周年に合わせて吉林省文書館に張学良遺物を献贈している。「革命烈士王希天的孙女王旗女士向吉林省档案馆捐赠了张学良先生的部分遗物」 http://news.sina.com.cn/s/2006-12-08/134610717295s.shtml
かれら調査団が会った関係要人の名だけ挙げておく。湯浅倉平警視総監、田中義一陸相、元戒厳司令部阿部信行参謀長、山本権兵衛首相、後藤新平内相、平沼騏一郎司法相。外務省出淵アジア局長は職掌柄始終調査団に付きっ切りだった。
このメンバー揃え(現首相+後の首相3人)がすべてを語っている。最大限の「懇遇」で迎え、支障のないかぎり「便利」をあたえて調査妨害の疑念を起こさせない徹底ぶりだった。調査も外交交渉も日本側の一枚岩のように堅固なガードを崩すことはできなかった。
中国国内の動乱と不統一もあって真相追及と賠償請求はうやむやの内に消滅した。

わたしは、日本側の言い逃れを目的とした意思統一と共謀行為の完璧さに空恐ろしさを感じた。戒厳令のせいにする向きもあろうが、その後の歴史と今日の政情を知る年寄には全体主義の黒雲が見える。
法秩序ではなく上意下達の慣わしで官僚組織が軍事、政務を身内びいきで実行する。感心するのは軍警では尉官クラスが佐官の意を忖度して発案、実行し、佐官が将官の黙認を得る、という上下関係のモラル(勤務意欲向上と責任の取らせ方)がごく自然に出世主義と共存していることである。
法治の体裁をとっているから平沼騏一郎法相の名がならんでいる。最右翼極端主義者平沼の役割は、ひとつには軍警に対して司法権を行使しないこと、二つ目は、社会主義者に厳しく「憂国」テロリストに優しく対処することであった。

12月20日神田の救世軍本営で王希天の追悼式が行われた。王正廷等中国代表、志立日本興業銀行元総裁、陸奥廣吉伯爵、真相を追究した布施辰治弁護士、丸山伝太郎牧師、小村俊三郎読売記者(削除された読売記事執筆者)、河野恒吉朝日客員記者(陸軍予備少将)等出席。知らぬ存ぜぬで押し通した日本側責任者は誰も参列しなかった。
救世軍の山室軍平弔辞「四、才智アリ学問アリ、力量アリシモ、尊キハソノ人格ニアリ。YMCA時代ノ半分ノ給料デ、アノ苦シイ事業ヲナシヌ。陸奥伯爵ガ共済会ニ興味ヲ持タレシモ、彼ガ中心ニアルヲ見テナリ」

遠藤も垣内も王希天が社会主義者でないことを戦後知って心を痛め、遺族に真実を伝えたいと願っていた。
1962年6月、周恩来、邓颖超到吉林视察工作时,曾接见王朴山遗孀杜丽棠及其女儿王晓苏、养女王晓蕴及王希天的亲属,并合影留念。
私は中国字が読めないのでWEBの原文をコピペした。周恩来、王朴山、王希天の3名は天津、東京で学友であったばかりでなく「好友」であった。

从左至右:于毅夫、王晓苏、邓颖超、王晓蕴、周恩来、王振圻、吴德
出典   http://ysws.yushulife.com/index.php?c=article&id=561

1990年、王希天と中国人労働者の虐殺を日中両国内で調べた仁木ふみ子が王の遺児王振圻(写真 周恩来の右横)を探し出して真相を伝えた。2013年9月「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」に遺族が来日参加している。王の孫王旗が悼辞を述べた。

「何故中国人を?」については、紙数も時間も尽きたので次稿で。