自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

早稲田の森の怪人/早大・小樽高商軍教事件/ 反動と抵抗

2017-09-29 | 体験>知識

   菊川忠雄 『学生社会運動史』(1947年)

以下の文は主として上掲書に依拠する。
連が発足してちょうど半年後の1923年5月10日早大軍事研究団発団式の会場である。午後3時前、正門前に突如「早稲田を軍閥に売るな!軍閥を倒せ!会場を占領せよ!反軍事研究団同盟」と大書した看板が立てられ、発団式を無視していた学生たちが足を止めた。
軍事教育に対する学生の大方の意識を理解するために、軍事研究団の設立趣意書の低姿勢ぶりをみてみよう。「我々は帝国主義に反対する。同時に軍国主義をも排するものである。本団を創設するの趣旨はただ一意国防の二字を憂ふるによる」
だが会場の雰囲気は一転して挑発的だった。陸海軍3人の将軍が乗馬で、数十名の将校が陸軍の星章をつけた三菱自動車で正門に乗り込んで、勲章で飾った正装とサーベルと軍靴の音で学生の反感を刺激した。まわりで乗馬用のズボンとブーツ姿の乗馬クラブ員がサポートしていた。
大講堂の壇上に立った団長青柳教授の前に進み出て団員代表が宣誓書を読む。一斉にフラッシュがたかれ活動写真カメラがまわる。「模範国民の造成は…」間髪を入れずやじが飛ぶ「人殺しの仲間入りするのが何が模範だ!」・・・
団長の青柳教授が訓辞を始める。「私は…」と口を切る。すかさず「軍国主義であります」とやじる。「私は…」「軍国主義者であります」・・・
白川義則陸軍次官が祝辞を述べようとすると「貴様の勲章には我々の同胞の血がしたたっているぞ!」 シベリア出兵を皮肉って「ああ一将功なりて万骨枯る」と高吟する者あり、ついには「都の西北」の校歌大合唱。
中島正武近衛師団長、石光真臣第一師団長も立ち往生。中島中将はかつて田中義一の命を受けて武市に石光真清を説得に行った元浦潮派遣軍高級情報参謀、真臣中将は言わずと知れた真清の弟、数カ月後大震災時の戒厳司令部南部警備司令官となる元憲兵司令官である。憲兵司令官時の首相は原敬、陸相は長州閥元老山県の後継者田中義一であった。真臣中将は軍事教練の発案者である、という記事もある
第一幕は建設者同盟の学生団体・文化同盟(顧問=大山郁夫教授、佐野学講師)の完勝で終わった。学生たちは翌日雄弁会主催で学生大会を開催することを申し合わせた。
雨の日を挟んで12日正午約5000の学生が中央校庭を埋めた。「朝来険悪の気は漂って居る。《腕か思想》と題して東京日日[大阪毎日の東京版]には相撲部が研究団応援のために決起したことを報じて居る」 果たして11時前、相撲部の呼びかけビラが各所に貼り出された。騒擾をおそれた雄弁会委員が交渉に行ったが殴られてしまった。
拍手で迎えられて浅沼稲次郎が登壇、宣誓した。「大学は文化の殿堂、真理を追究する所、決して軍閥官僚に利用されるべきものではない」 ついで決議を読み上げた。「我等は軍国主義に反対し、早稲田大学を軍国宣伝の具たらしめることに反対す」
しかし、ここまで。「此時暴力団襲来の機は刻々迫り」雄弁会幹事が閉会を宣言し自由演説会に切り替える。故大隈公銅像裏から現れた相撲部員たちが詰め寄って演説中止を求める。一柔道部員が「糞尿だらけの六尺ふんどしを投げつけ」壇上に駆けあがり演者を突き落とす。校外から縦横倶楽部が「主義者をやっつけろ」と叫びながら暴れ込む。「暴漢一派は演壇を占拠し、演説をはじめ、校歌を合唱する」
文化同盟は第一幕では大衆動員と野次により完勝したが第二幕では暴力により大会を蹂躙されてしまった。この日は「流血の金曜日」として学生社会運動史に刻まれることとなった。
東大新人会活動家だった菊川忠雄は、この事件の首謀者は縦横倶楽部の森伝である、かれは警視庁正力官房主事のスパイであると記述しているが、私見では森伝は正力とは違ったタイプの反共首魁であって誰かの手下ではない。今日まで歴史愛好の文筆家とメディアを、GHQさえも、あざむき通した情報機関顔負けのシルエットに隠れた凄腕国粋主義フィクサーである。
国会図書館にある「森伝関係文書目録」をみるかぎり、これはネットで検索して出て来る唯一の森伝を語る史料であるが、森伝は早稲田入学、日本入国、組閣入口と天皇奏上入口で口利きをする国家改造運動の影の策謀家である。九大生体解剖事件戦犯裁判ではGHQへの口利きを頼まれている。
わたしは国家改造運動関連に絞って次の文書に注目した。
上杉愼吉書簡 森伝宛 1923年12月8日 「甘粕君の判決何事ぞや、陸軍が社会主義に圧迫せられたるなり、明朝面会したし」
白川義則書簡 森伝宛 1923年12月15日 「上杉博士斡旋の急進愛国党に縦横倶楽部が加わるとの報道は事実か、偽物や間諜が混ざる恐れあり、石光氏には自重してくれと申し遣わした」
さらに甘粕正彦書簡 森伝宛 1923年12月13日 「法廷における小生の言動に不満もあろうと存ずるが軍人の立場をご了察下され、君国の今後の善導の程願い奉る」
振り返ってみると早大軍教事件は戦前の国家改造運動の発端だった。発端を見たら結末も見たくなる。私は今回森伝が両端を突き抜けたフィクサーだったこを知った。

【蛇足】 森伝関係文書目録には1936年の2.26事件に関する史料ファイルがある。森伝宛の皇道派関係者の書簡もある。森伝発が無いのが惜しまれる。目録だけから読みとれる森伝の事件関与の形跡をみてみよう。
山本英輔海軍大将書簡 森伝宛 1936年1月14日 「斉藤内府[内大臣]へ届けた書簡の内容」
山本英輔書簡 森伝宛 11日 「満井中佐にはじめてお目にかかり一寸見せたところ猶予を求められた」
平野助九郎少将書簡 森伝宛 2月2日 「川島閣下[陸相]に陸軍の大掃除進言されたい」
清浦奎吾前首相 森伝宛 1936年2月11日 「〇〇に面会の件は先方静養中のため待っている」  〇〇は元老か?
森伝は清浦前陸相のもとに出入りを許された情報通だった。それで森伝は、もっともラディカルな反乱指導者磯部浅一[元一等主計]によって、決起時に清浦伯参内を通じて天皇に真崎首相下命を働きかける役に擬せられた。森伝が終生家族ぐるみの付き合いをした財閥政治家・久原房之介は皇道派の資金源だった。磯部が決起1か月前に皇道派の御大・真崎甚三郎大将を訪問して真意を測るために軍資金を所望したところ真崎は「森伝に話してつくってやろう」と応えている。磯部は頼りになる同志森伝あてに遺書と辞世の句を遺した。

警視庁と文部省と縦横倶楽部は情況を利用して社会主義的四教授の罷免、「文化同盟その他の社会主義的団体の解散」を要求し、「共産党の陰謀」を宣伝した。大学当局の派閥抗争もからんで軍事研究団が解散し、続いて文化同盟も「母校平和のため」自主解散した。
好機なり、と警視庁は6月5日第一次共産党検挙を行ない、全国で80名を捕らえ、学内の佐野、猪俣らの研究室を捜索した。佐野はソ連に亡命し猪俣は検挙された。佐野、猪俣は10月に、早稲田反戦の雄大山郁夫教授はその後1927年に解職された。1929年にはさしもの雄弁会も解散に追い込まれた。
諸新聞を通した「共産党の震源地早大」キャンペーンで、早稲田の森の学生運動に秋風が吹いただけでなく学連加盟校が40余から10余に激減したという。赤化キャンペーンで激減するところに学連の思想がまだ多様で一極集中していないさまが見てとれる。

早大事件で失速した学連は軍国主義の巻き返しに対して危機感を覚え新規まき直しを開始した。東大新人会が学連の先頭に立った。学生大会で大学監督下にある東大学友会の内部に社会科学研究会を設けさせた。「学生大会から関東大震災前後に亘る数ヶ月間に、新人会の勢力は、学内に於て抜くべからざるものとなってゐた」
関東大震災が学連にとって転換点になった。東大新人会は「先ず震災中の救護的な事業を打切ると同時に、それに関与した学生と、それによって巻きおこされた学生の社会的関心を、社会科学の研究、学生自治の確立、学生の社会運動の開拓に向けて行った」 寄宿舎管理、大学新聞経営、食堂経営に委員を送って勢力を扶植した。何よりも大きいのは、学友会に学内研究団体として社研のために予算を計上させたことである。
この新人会を震源として既述したとおり1924年に全国で学生普選運動と社研運動の活況が起きる。新人会の「民衆の中へ」の浸透がなかったなら、次に取り上げる小樽高商軍教事件は十中八九事件化しなかっただろう。

1924.11.10 早大社研、大学新聞主催で軍事教育批判講演会開催
1924.11.12 学連、都下学生雄弁、新聞連盟提唱で全国学生軍事教育反対同盟結成
1925.4.13 陸軍現役将校[中学校以上・師範学校]配属令を勅令で公布
世界大戦終結後軍縮は列強の大きなテーマ、国内世論の大勢となり軍部も不本意ながら軍縮に応じざるを得なかった。職業軍人の失職救済と学生の軍事訓練とを抱き合わせにした一石二鳥、いや1923年11月10日に発布された国民精神作興に関する詔書を受けての施策だから一石三鳥、の軍事教育の第一歩が踏み出された。以前から3度目の軍縮が取り沙汰されていた。
1925.5.1 陸軍軍縮計画(宇垣軍縮)発表

以下、荻野富士男論文 小樽商大史紀要第2号(2008年3月)に主として依拠して「小樽高商軍教事件」を考察する。
1925年10月15日朝、教練に参加した学生に「想定」プリントが配られた。
一、大地震により小樽市内の家屋は倒壊し、折からの西風で火災が勢いを増し、市民は身を寄せる所をしらず。
二、「無政府主義者団は不達鮮人を煽動し此機に於て札幌及小樽を全滅せしめんと小樽公園に於て画策しつ ゝあるを知りたる小樽在郷軍人団は忽ち奮起して之と格闘の後東方に撃退せしも敵は潮見台高地の天峻に拠り頑強に抵抗し肉飛び骨砕け鮮血満山の紅葉と化せしも獅子奮迅一歩も退かず為に在郷軍人団の追撃は一時頓挫するの止む無きに至れり」
三、そこで、小樽高商生徒隊の出動となり「其任務は在郷軍人団と協力し敵を殲滅するにあり」
教練に参加した学生たちは社研会員をふくめて誰も違和感を覚えることなくハイキング気分で軍事地図の見方と伝令の演習をして帰宅した。
社研会員が「想定」を気にとめなかったのは、南樺太、千島列島を防衛北限とする第7師団から配属された鈴木少佐が訓練に厳しくない上にその日実行した訓練内容に交戦演習が入っていなかったからである。それにしても普通の職業軍人がかように不穏当な想定を平気で作成して本人だけでなく教師と社研会員をふくむ学生がそれに何の疑問もいだかないところに空恐ろしさを感じる。
関係ない私事だが先の戦争で叔父が第7師団に従軍して戦死した。こんなところでかすかな因縁があろうとは夢想だにしなかった。
野外演習自体は15日午後2時すぎに終了し、学生たちは帰宅した。教練を欠席していた社研の設立指導者斉藤磯吉の寄宿先が会員のたまり場になっていて、その日も学生が集まった。訪ねてきた政治研究会小樽支部代表兼小樽総同盟組合委員長の境一雄が「想定」プリントを目にしたことで事件が始まった。
翌朝境一雄と小樽朝鮮人親睦会金龍植他数名が代表して学校側に抗議した。詳細は省くが学校側は「想定」の語句が不穏当不公正であったことは認めたが求められた声明書は出さなかった。そして文部省の指示にしたがって社研に対して抑圧に乗り出した。
他方社研は学校側に決議書を手渡し全国の学生に向けて檄を飛ばした。
小樽高商事件は軍国主義に敏感な意識の高い指導者が東京から来ていたから燃え上がった闘争であると断定してよさそうだ。社研、政治研究会と総労働組合を組織したのは大山郁夫の教え子境一雄である。大山郁夫自身も講演のために小樽高商に来て社研結成を応援している。そのほか労働組合の指導権を競って山本縣蔵と松岡駒吉が来樽している。
北海道の入り口小樽には労働運動が盛んになる素地があった。石造倉庫群で有名な小樽港は樺太の鉱物、木材資源の集散地であり当時約3千人の港湾労働者の内三分の一以上が朝鮮人であった。
こういう労働環境であればこそプロレタリア作家小林多喜二も巣立ったのだろう。かれは1年半前に同校を卒業している。
小樽事件は同市から全国に燃え広がったが、肝腎の同校では「校内の問題は校内で解決すべきだ」と主張する穏健学生が優勢で、停学14名(社研のほぼ全員)、放校1名(斉藤)の処分、高松教授解職、社研禁止もあってまもなく鎮静化していった。
小樽高商社研の檄を受けて学連中央委員会は「全国の同志諸君へ」各無産団体と提携して反対運動を起こすよう、指示を出した。主要な都市で学生・市民を対象にした演説会が開催され近来まれに見る盛況を博した。もっとも至る所で弁士中止の妨害を受けたが。
朝鮮人を仮想敵にされた日本朝鮮労働総同盟が 「日本無産階級に与ふ」というビラで「日本の無産階級の諸君 ! 諸君は、今日日本軍事教育上のあの想定が如何に一昨年の震災当時のあの事実と関連あるものであるかを容易に理解するであらう」「諸君は此の罪悪に対して無産階級的態度を示せ」と訴えた。
後日文部省学生部は「この事件は十二月の京大事件に直接に関連をもつ点に於て注意すべきである。即ちかの同志社大学に於ける、狼火ハ上ル云々の不穏ビラはこの小樽高商事件に原因するのである」と総括した。
1925年11月15日京都市内や同志社大学構内に貼付された「狼煙ハアガル、 兄弟ヨ、コノ戦二参加セヨ」と題した軍教反対ビラは朝鮮自由労働団体等4団体による日本人にたいする檄文であった。