自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

2.26事件/磯部浅一と青年将校/軍部内訌

2018-07-24 | 近現代史

磯部浅一は2.26事件を「尊王義軍」と呼び、北一輝の霊感には「国家正義軍」が現れた。呼称の違いに磯部と北の国体観のズレが表れている。

蹶起直後の雪の半蔵門 Wikipedia

わたしは2.26事件の目撃者に会ったことがある。根本辰・ふみ夫妻が雪降りしきるなかオーバーの襟を立てて反乱軍を観たことを松下ふみさん(夫の病死後再婚)から聞いた。1967年のことである。モスクワ帰りの哲学学究・根本辰の足跡を追跡していた途中のエピソードである。ソヴィエト・ロシアに幻滅して帰国したばかりの青年は間もなく大いなる幻滅を迎えることになる青年将校たちの蹶起をどんな気持ちで眺めたのだろうか?

1932年の5.15事件から36年の2.26事件までの4年間に日本による大陸侵略(満洲国の建国と経略)とそれに対する国際的リアクション(国際的孤立と国際連盟脱退)が拡大深化した。軍需景気と輸出活況で不景気が底をつきGNPが上向き、財閥は肥大化したが下層階級は普段の窮乏に加えて徴兵と戦費負担に苦しんだ。

1934年、東北は冷害、関西は室戸台風の風水害、西日本は干害で、米の生産は前年比7割に落ちた。当然これは翌年の食糧事情に響く。
東北と北海道の惨状は甚大で1931年のそれを上回った。若者地獄という言葉があった。男子は命をかけて、満洲行きを志願し、また北洋漁業等の重労働に活路を求めた。女子は年貢、供出、借金に苦しむ家族を救うために工場で体を酷使しあるいは遊郭で体を売った。欠食に代表される村地獄は東北各県それぞれ1万人を超えた。信じられない数だが年に1,2回しか入浴しないか全然しない人の数も青森県では万を数えた。熊谷正男「凶作地実情報告」(文藝春秋誌12月号記事)

満蒙生命線なる時事用語を広めた松岡洋介が感動したことであるが、国際連盟脱退を熱烈歓迎した愛国熱は下層階級ほど熱かった。背景に、戦争に家族の活路を求める対支戦争願望があった。満蒙の土地、産物、市場が満たしてくれるはずの物質的欲求があった。大日本帝国という幻想に日々の苦労の癒しを求めた。中でも大きかったのは世界無比の万世一系の皇室と現人神の天皇を抱く帝国臣民であるという誇りであった。
わたしは地球の裏側の日本人移住地の家庭で同じ空気を吸って育った愛国「体験者」である。長男でありながら出稼ぎに出た父の名は時夫(日露戦争時に誕生)、私の名は祖照(祖国を照らす)である。

 河出書房新社  1989年(再販中) 
磯部浅一『獄中手記』(中公文庫 2016年)は最新の磯部全著述集である。

2.26事件の首謀者中の「幹事長」は磯部浅一元主計である。5.15事件の藤井斉中尉がそうであったように、磯部も最低身分(水呑百姓)の出身で小学時代の成績が抜群であったため不在地主で県庁勤めの有志の目にとまり引き取られて士官学校まで進学した。磯部は萩の近くの日本海に面した菱海村の産だから吉田松蔭の熱狂的な愛国思想の影響を受けたであろうことは容易に想像できる。
磯部は村中孝次大尉とともに十一月事件で免官になって時間に余裕があったため総合調整役とオルグ役を務めた。5.15事件記録に彼の名前が出なかったのは朝鮮大邱勤務のせいである。逆に名前が出た菅波大尉(禁錮5年)、大蔵大尉(禁錮4年)の226事件での刑が軽いのは
遠方勤務だったからである。大岸大尉が動かなかったのは和歌山勤務だったからではない。かれは思想変わりして現人神信仰に没頭していた。磯部は北と西田、菅波と大岸が処罰されず生き延びることをとくに願った。遺志を託すためである。
裁判で首謀者とされた人物:野中四郎大尉(現場で将官たちに強いられて自決)、磯部浅一元一等主計(死刑)、香田清貞大尉(死刑、5.15の記録に名あり、以下同じ)、村中孝次元大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉。民間人3人(北一輝、西田税、水上源一)をふくむ総計20名が銃殺刑に処せられた。相沢三郎中佐はその少し前に処刑された。

時代背景を映す重要事件を追いながら1936年の2.26事件に迫ろう。
1933年3月 日本国際連盟脱退(ソ連加盟:9月、ドイツ脱退:10月)
1933年10月 ベルリン日本人少女投打事件
ある小学校で日本人少女が少年に「ヤップ」となじられて抗弁したために棒ぎれで顔をぶたれて傷を負った。ドイツ国内の人種差別的な雰囲気の高まりの中で起きた事件だった。駐独大使の抗議に対して外務次官はナチスが排除しているのはユダヤ人とネグロであって「その他の有色人種」に日本人は含まれない、適当な表現を研究中であるから猶予を願いたいと回答した。
1934年6月 ゴー・ストップ事件
大阪の天神橋交差点で信号を無視して横断しようとした制服の兵士を交通整理中の巡査がなぐった。陸軍は皇軍の威信を盾にして、警察は公務を主張して、陸相対内相の対立にまで発展した。軍人が普通に威張り始め無理が通るようになったことを象徴する事件だった。

1934年10月 陸軍パンフレット事件
かつて大戦の教訓を汲んで田中義一首相と宇垣一成陸相とが総力戦対応の国防政策に取り組み、その後永田鉄山等中堅将校が一夕会を組織して国防中心の国家革新を目標に活動して陸軍の指導権を掌握するに至った。今や皇道派との派閥抗争にも勝利が見えてきたこの時期に陸軍中央幕僚主流派は十分に急進派青年将校を意識して国家改造構想を発表し政財界、思想界に衝撃を与えた。題して「国防の本義と其[の]強化の提唱」(陸軍省新聞班発行、班長は永田の一の子分根本博中佐)である。
冒頭「たたかいは創造の父、文化の母である。試練の個人における、競争の国家における[は、ひとしくそれぞれの]生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である」にあるように、総力戦に備えて政治・軍事・経済・思想・教育・言論すべてを全体主義的に改造することを大胆に提言した。キーワードは一元的管理、国家統制である。 
予期される非常時[翌年に迫る海軍軍縮条約失効問題、列強による市場ブロック化、終わりが見えない支那の反日抵抗]を前に改造策としてまず、焦眉の農山漁村の救済を採り上げているが、窮乏原因の究明も対策も浅薄である。上位階層の道義と農民の自力更生を強調している。農村問題を国防国策の中心課題にすえたが北一派にくらべても内容がない。それは革新の方向性に理由がありそうだ。実権派官僚(軍事、経済等の革新官僚)は大陸(今様でいえばグローバリズム)に活路を求め急進派
青年将校は内治優先だった。
つぎに思想改造策が提言される。自由主義、個人主義、国際主義つまり資本主義の社会現象を皇民教育で是正し国家主義と「国家及全体の為の自己犠牲的精神」を涵養することが強調された。思想宣伝戦のための宣伝省もしくは情報局の設置を不可欠としている。
改造の最大の眼目、すべてを巻き込む台風の眼は、「国防と経済の国家統制」である。そして経済活動の一元的運用と国民大衆の生活安定を経済戦を勝ち抜くための必須条件とした。一見してナチスの国家社会主義に類似しているが見過ごすことにする。
その後の国家運営がこの軌道の延長上を走り、アジア大陸の東端を支配し太平洋戦争を引き起こしたのだからこのパンフレットの史料的価値は見直されてしかるべきだ。

1934年11月 士官学校事件(十一月事件)
村中孝次、磯部浅一が士官学校生らとクーデターを計画した容疑で検挙され5か月余り拘留された。軍法会議では不起訴になったがその後停職中に批判、抗議活動をとがめられて免官になった。軍人による国家改造運動が怨恨を帯びた軍部内訌(陸軍統制派vs皇道派+急進派青年将校の、50年前の流行語でいえば内ゲバ)に発展した一つの顕れだった。皇道派と急進派青年将校は事件を統制派による真崎教育総監の責任追及、真崎追い落としを狙った陰謀とにらんで憤った。

1935年7月 皇道派真崎甚三郎教育総監更迭事件
急進派青年将校は、異例の罷免は林陸相と永田軍務局長の合作、ルール違反の統帥権干犯と断じ怒り心頭に達した。事件の渦中で配布した「粛軍に関する意見書」で村中と磯部は一連の首脳部のやり方を痛烈に批判した。「国家改造は自家独占の事業と誇負して他の介入協力を許さず、或は清軍と自称して異伐排擠に寧日なき徒あり」  永田鉄山が名指しされたも同然である。

1935年8月 陸軍省軍務局長永田鉄山少将斬殺事件
皇道派相沢三郎中佐が永田を白昼省内局長室で殺害した。永田は陸軍省切っての秀才ブレインにして統制派の総帥で、軍の統制を信条とし、陸軍省主導で清軍と国家改造をおこなう、「省外」の国家改造運動は断固弾圧する、という方針のもと軍務を遂行していた。5.15事件でも厳罰主張だった。皇道派は法廷闘争(軍法会議)で主客逆転を狙った。

2.26事件は軍事と政治で軍部が主導的位置を占めたことによって起きた軍部の、陸軍内部の内訌、権力闘争である。陸軍内で陸大卒の中堅幕僚が人事、事務を通じて薩長系の古参将官からなる陸軍首脳部を刷新して陸軍三権をほぼ制して軍政、軍令でヘゲモニーを握ったことは既述したとおりである。その中心に永田鉄山がいた。
5.15事件後の首相と陸軍三権は次のとおりである。
首相:斎藤実&岡田啓介海軍大将 陸相:荒木貞夫&林銑十郎&川島義之大将 参謀総長:閑院宮元帥(次長:真崎甚三郎---杉山元) 教育総監:林銑十郎&真崎甚三郎&渡辺錠太郎大将
一夕会系の陸軍エリートたちは大陸政策ではひとしく積極策であるが極端(対支戦争)と穏和(満蒙独立)の違いがあり、ソ連の経済5か年計画による強国化に危機感を覚えるか大英帝国に替わって世界一の国力をつけた米国の太平洋・極東政策に将来の国難を観るかでも違いがあり、一枚岩ではなかった。
対立点は国体観念の濃淡であった。天皇親政を唱道する一派は派閥の領袖荒木が皇国、皇軍・・・と何にでも皇を付けて発言したことから皇道派と呼ばれるようになり、荒木と真崎は、青年将校の中の、明治維新を再現したい、あるいは乗り越えたい志を抱く士官学校卒(中位エリート)の尉官クラスに担がれることになった。
一夕会が守旧将官の替わりに荒木、真崎、林を推したため最初に実権を握ったのは後の皇道派だった。荒木が犬養内閣の陸相に就任し続いて真崎が参謀次長に就任すると5.15事件直後には林銑十郎の教育総監就任をもって皇道派が陸軍三長官を独占するに至った。

権力闘争は不透明の方針・政策の論争もさることながら目に見える人事の異動と支配から始まるのが常である。陸軍幼年学校、士官学校、陸大の入学、陸軍官位の昇進、遠方への左遷と首都への招致が自派のためのオルグ手段として使われた。派閥は新たな派閥と転向を産み不毛な派閥の論理で激化する。私もかつてそのようなことを身近に目撃したことがある。

1934年に粛軍で辣腕を振るった荒木が病と人気低下で陸相を辞任し後任に林銑十郎が陸相に就任し永田が軍政局長として補佐すると皇道派の凋落が始まる。永田が先頭を走る中堅エリートがやがて内訌を制して主流になる。主流になればそれまで共鳴していた非合法的手段に敵対的になって当然、急進派青年将校に対して「統制に従え」ということになる。主流派を一括りにして統制派と呼ぶことに私は躊躇しない。
双方が天皇の統帥権を犯すか利用するかしながら敵方の統帥権干犯を非難した。ロンドン海軍軍縮条約受諾は統帥権干犯の最たるものとして攻撃された。国中で天皇機関説排撃が叫ばれ陸軍内でも林銑十郎の後任教育総監真崎が国体明徴について総監訓示をおこなった。つぎに教育総監になった渡辺錠太郎は真崎の訓示を批判し天皇機関説を擁護した。大元帥は官位の長であるから機関でないわけがないが常識が通る世相ではなかった。かくて渡辺は青年将校の反感を買った。

拠り所としていた東京衛戍第
一師団が満洲に飛ばされるのを知って、急進派青年将校たちはクーデター決行を急いだ。天皇親政のきっかけをつかむことを目標にしたが、直近の目標は蹶起趣意書によると「元老重臣軍閥官僚政党等」の打倒だった。軍閥と官僚が入った分社会改革色が薄まり財閥攻撃が後退した*。狙われたのは、岡田首相・牧野前内大臣(避難)、斉藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監(死亡)、鈴木侍従長(重傷)、後藤内相(不在)である。*共産革命視を回避する深慮が働いている。

陸軍内の主流派、中国文化大革命のもじりでいえば実権派は、内部の内部は外部である、とばかりにクーデターを起した磯部、村中、香田、安藤、栗原たち青年将校を緊急勅令による非公開軍法会議で一気に極刑に処した。
荒木貞夫、真崎甚三郎、山下奉文等の皇道派将軍たちは磯部たちの計画に思わせぶりの言動で支持を匂わせ、クーデターの最中でもさも天皇が行動を容認したかのようにみせかける処置をとってクーデター鎮静で点数稼ぎをし併せて降りかかる加担容疑を軽減しようとした。
見る目が足らなくて(磯部は蛤御門の機運で鳥羽伏見を企図したことが間違いだったと敗因をあげた)皇道派将軍を頼みにした行動を起し、昭和維新の要になってくれるはずの天皇の激怒を買い、陸軍に逆賊として裁かれた青年将校たちの無念と後悔、怨恨は80余年後の今日でも文学となり映像となって語り継がれている。断腸の想いを綴った磯部の獄中記そのものが文学を越えている。
磯部は法廷闘争を考えたが叛乱として裁かれたため、大逆事件同様、行動にだけ訊問が絞られ、それぞれの革命思想が詳細に語られることがなく、私は事件を軍部の内訌と磯部の行動にしぼって対象化するほかなかった。首謀者たちの思想(それぞれ微妙に相違があって当然である)に触れていない。そのため磯部たちの行動の社会革命的意義を汲み取る努力を放棄する結果になってしまった。次稿で磯部たちの言葉で遺せなかった「遺言」を考える。

これまでも言及してきたが、天皇親政はマルクスの国家消滅論同様ユートピアである。持論では、国家とは官僚体制のことである。小さくはできても無しですますことはできない。ユートピアは元気の素だ
が、ユートピアを政策化すれば大惨事と悲劇が起こる。
青年将校の蹶起を肯定しないからと言って、彼らの蹶起が軍部主導全体主義の先駆、導火線であるという歴史観には同意しない。軍部の台風は国家革新運動までも統制しクーデターさえもエネルギーに変えて大戦に向って驀進した。軍閥をも打倒目標に入れた青年将校たちに軍部主導全体主義の罪はない。

紙面と時間の余裕がなく、陸軍青年将校たちに国体論と行動の青写真(政治的経済的特権階級の切除、天皇大権の利用による戒厳令発布と両院解散、国家改造内閣組閣、国家改造議会設置、勅令による私有財産・土地所有の制限等の改革)で影響を与えた北一輝と西田税にふれることができなかった。北の遺句を噛みしめて想像をめぐらしていただきたい。
若殿に兜とられて負け戦
天皇に恋闕した希有の存在として文学のモチーフになった磯部浅一の慟哭をもって占め括りとしたい。頭髪を失い見る影もなくやつれて幽鬼の如き形相の磯部浅一は霊媒を
通して血を吐くように怨念を語る。

 河出書房新社 1976年

参考 三島由紀夫『英霊の聲』
「しかし叛逆の徒とは!叛乱とは!国体を明らかにせんための義軍をば、叛乱軍と呼ばせて死なしむる、その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
これは神としての御心ならず、人として暴を憎みたまいしなり」
「などて すめらぎは人間(ひと)となりたまいし」

現人神という矛盾を主体とする国体を魂に宿したために、このあと日本国民は天皇も臣民も、将校も兵士も、文人も学者も、老若男女働く者すべてが、逃げ隠れする余地のない軍国全体主義体制のなかで、煩悶、葛藤しながら、時局、事件に一喜一憂しながら、悲劇と破局の道を驀進する。