1964年、卒業と同時に自活のため学習塾を始めた。西陣の大きな寺の一室を借りて折りたたみ式座卓を並べ黒板を正面に置いただけの畳部屋の教室だった。明治以前の寺小屋の場景に近かった。
対象学年は6年生以上だったと思うが定かでない。ニューホライズンの英語教科書と数学のプリントを使ったことを覚えているから中学生がいたことは確かだ。
学習塾と言っても生計のために始めたことで教育上の志があったわけではないので何も自慢できることがない。家業で忙しい両親に代わって子供の面倒を集会場で看ているという感じだった。母親たちとは入塾申し込み時に会ったきりで教育相談を受けたこともない。予習中心の塾であったが受験塾ではなかった。伝統産業の町西陣はまだ受験競争の圏外にいた。また子供たちは昔ながらに「過保護」からほど遠い境遇でのびやかに生活していた。
付き合った期間が短かったのでその一端しか記憶にないが・・・。
男共は身近な卒業生たちが結成してやがてスターダムに伸し上がるザ・タイガースの前身バンドとエレキギターに夢中だった。ビートルズ来日前後のことである。
女の子たちは町の子らしく早熟で男の子の話題が多かった。たわいない下ネタを投げかけられて返答に窮したことは忘れられない。大人をからかう風景など今でも見られるのだろうか? 女の子もおしゃべりで積極的な良い子だったが、女王様のまわりに同心円の結束をしていて扱いに気を使った。女王様が塾をやめたら周りの女の子は皆やめたことだろう。
親子がべったりでない環境であったから、休日には遠方まで、ときには泊りがけで、子供たちを連れ出すことができた。これも私に何か期するところがあったからではない。自分がいちばん行きたかったのである。受験勉強と学生運動で8年間封じ込められていた欲求がほとばしり出たに違いない。ある男の子が山行中に「自然が呼んでいる」と藪かげに駆け込んだが、本来の意味で自然が呼んでいるから私は少年少女たちを海や湖に、山や川に連れ出したのだった。
大学院生の白石と大浜が学習面もふくめて手伝ってくれた。友情以外に動機があるはずはない。長身の大浜には女の子が早速あだ名をつけ親しみを込めてキュウリさんと呼ぶようになった。
1964年秋 宇多野YH合宿 塾生と教育・院生の白石
1965年夏 琵琶湖水浴
1965年夏 塾生と医学・院生大浜 場所は下掲
1965年夏 京北山国の家合宿
廃校小学校を利用した合宿所、管理人夫婦は隣接の農家の人だった。運動場で遊び調理室で自炊した。夜は卓球台を囲んだ。前の道を小塩川に沿って遡り峠を越えると廃村八丁の裏口に至る。4年後に塾生たちと辿った登山道である。今回は保津川-大堰川が小塩川とT字型に合流する山国井戸の「水泳場」で遊んだ。
バス停「井戸」の正面に清流の淵と浅瀬があった。土曜日にはよく太ったウグイとアユが群れていた。日曜日の午前にはアユが捕り尽くされていた。土曜日の夜からキャンプしていた一団が夜明けから箱眼鏡か水中めがねで魚を追いながら一匹残らず釣り上げたのだった。
この辺りではアユの解禁日が捕り方によって異なるようだ。友釣りが最初で水中眼鏡漁が最後らしい。投網で捕れない岩陰のアユまで捕り尽くすからであろう。解禁日を8月1日とするとわれわれが観た光景は土日のことだったとわかる。
この釣り方は初めて見たので名称を知らなかった。弾性ラインのついた針を竿先に固定した竹竿をしゃくってアユを引っ掛ける漁法である。アユがかかると針が竿先からはずれ、アユが暴れてもバレない仕掛けである。
水中では竿の自由が利かない。アユは速い水流にもまれるように動く。2, 3年の練習で修得できる技ではない。数台の車で来てトロ箱にアユと米ぬかを詰めて持ち帰ったあの集団は何者か?
この漁法はしゃくりといって稀に残っている地方があるようだ。荒っぽい引っ掛け漁が一般的だが、わたしが見た名人芸は短い竿に1本針をつけてアユの動きを追いながら勝負するものだった。かつての川漁師は、友釣りの囮用のアユを傷めないように、この方法で背びれの際を引っ掛けて釣った、と聞いたことがある。
ダムができるまで国内トップクラスのアユ漁を誇った三重県宮川流域に伝わる仕掛けの一例を作者の了解を得て紹介する。
出典 ブログ「奥伊勢ななほ農園」
1965年の写真がないので4年後廃村八丁に行った際の写真で「水泳場」の一端を紹介して終わりとしたい。
大岩のある淵
周りの浅瀬