自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

遊戯の復権/遊戯の相のもとに活動する

2019-08-30 | 革命研究

わたしは1968年中頃には独自のソ連論に立脚して、レーニン主義前衛党建設を志向する革命運動とマルクス、レーニンの社会主義社会像とを否定するに至った。理論的に納得しないと運動に踏み切れない自分に後ろめたさを感じた。なぜなら革命は理論や陰謀によって起こるものではなく民衆のやむにやまれぬ情動の爆発によって起こるからである。そういう意味では十月革命や中国、キューバ、ヴェトナムの人民戦争のたぎる熱気に、神戸と東日本の大震災に際して感じた心の底からの連帯感と同じものを感じたし、その気持ちは今もかわらない。

ともあれ、革命にも労働にも幻滅した。では何をするか。肉体活動と精神活動が結合した何かであるが、それは革命研究の過程でおのずと決まった。おさらいをしながら進む道を探ろう。

ホモ・ファーベル(作るヒト)による商業、産業の発展は、ホモ・デウス(神のヒト)から成る中世の「神の国」共同体を解体して労働共同体(会社制度)を、僧侶・貴族(武人)階級に代わってブルジョア階級を、それぞれ支配的にした。労働蔑視、神秘、罪悪感が追放され、欲望が解放され、致富欲と労働、科学が現実世界を拡張した。
これは人間性の拡張であるが、マルクスはそれによって出現した機械制大工業を遺産にして、桎梏となった資本制的生産関係を改革して生産力をさらに解放すれば、人間性が十全に発揮される、という革命のバイブルを書いた。そうはならないことをレーニンの革命が証明したとヴェーユが後に確認した。
現実世界は欲望と相互に刺激し合いながら発展し膨張し続けた。その結果、社会的必要労働時間は縮減しない。その間に高度の頭脳労働を基盤とするテクノクラート階級が出現した。その「労働の質」は「労働の量」による分配にプレミアムを要求する資格がある。勤労者の所得格差が極端化した原因である。
肉体労働も頭脳労働も消滅することはない。ましな幸福社会にしたいなら、労働日の短縮と所得格差の縮小が根本条件である。ところがこの改革は一筋縄ではいかない。資本は一方で使用価値の生産を直接的労働時間への依存から解放しようとするが他方で価値増殖(資本の唯一の目的)のために剰余労働時間を増加させるからである。労働者もまた欲望に駆られて働きすぎてしまう。
かくて、われわれは、不断に膨張してゆく欲望の体系を逆に縮減しないかぎり、欲望と労働のせめぎ合いが発し続ける窮迫生活を克服できない、という結論を得た。

欲望を超えるもの、労働を超える活動は何か、考えるまでもなく、誰しも、あそびを思い浮かべるだろう。遊びの本質について、私が生まれた1938年にオランダの文化史家ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)を発表して、つぎのように書いている。「〈日常生活〉とは別のあるものとして、遊戯は必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。いや、それはこの欲望の過程を一時的に中断する

遊びを人間活動の本質として哲学した思想家はシラーである。第九の「歓喜の歌」の原詩作者で知られるあの詩人シラーである。1805年に没しているからシラーの思想はフランス革命と響き合っている。革命の勃発に歓喜し恐怖政治に戦慄し戦争を憂慮する中でシラーの思想は政治革命を否定して精神革命を模索する。カントの平和哲学の影響を強く受けて詩作「歓喜に寄せて」(1785年)を革命(自由と平等)鼓舞歌から友愛・平和讃歌に1803年に改訂した。
同時並行してシラーは、隣国フランスの革命が生んだ「最初の共和国」は生命のない無数の部分をつなぎあわせて全体として一つの時計のように動く精巧な機構mechanikに沈淪した、人間は「単に自分の仕事、自分の学問の印刷」にすぎなくなった、「文化が疎外をもたらした」、という認識に立って、時計にたとえた「機械的国家」の「修理」を研究した。 
だがフランス革命がもたらした悲劇を教訓にして、時計を「止めないで」修理しなければならない。そこでシラーは、文化革命を政治改革に先行させるほかないと結論して『美的教育論』を著して世に問うた。感性と理性、質料と形相に分裂した人間の本性を美的教養によって陶冶すべきだ、という主張である。
これを労働₌価値観を代表するヘーゲルと対比するとその違いが明確になる。ヘーゲルにとっては「陶冶としての教養」は「より高い解放のための労働である」「未開人は怠けものであり、なにを考えるともなくぼんやりしている点で文明人と区別される。というのは実践的教養とはまさに、仕事の習慣と、仕事なしではおられないということにあるからである」 
へーゲルが労働を自由への道程、人間と社会の形成体と考えたのにたいして、シラーは「美こそ自由へ赴く通路」、人間性の「第二の創造者」と考えた。
ヘーゲルにあっては労働、とりわけ精神労働だけが人間の本質であるのにたいして、シラーにあってはひとは「遊戯する場合にのみ完全に人間である」
ヘーゲルが国家のなかに自由の実現を幻視したのにたいして、シラーは「遊戯と仮象との楽しい第三の国」を夢想した。
シラーとともに先を急ごう。シラーによれば、同時代人は「理性ある動物」である。美的仮象は、すでに現実に縛られて「物質的目的の低劣な道具」、「素材についた余剰即ち美的付加物」つまり装飾に堕し、遊戯は労働の不名誉な余暇つまり労働エネルギーの再生産に必要なものに転化している。その結果、ひとは、みずからを飾って「別様」の存在にみせることはできても、けっして「別様」の存在にはなっていない。「かれは現在の瞬間を乗り越えることにはなっても、決して一般に時を乗り越えるということはない」
「教養の最も大切な課題」は、この貶められている「遊戯衝動」を、今日ただいま、平凡な物理的生活のただなかで、支配的にすることである。何をもってそれを表現するか? 当時なら芸術であろう。今日なら遊戯そのもの=gameを対象にすることができる。だが芸術もスポーツも、労働という大海に浮かぶ小島にすぎない。労働こそ遊戯衝動の対象にならないかぎり「人間性の完成としての美」的社会は実現できない。それへの道程は果てしなく遠い。
労働で遊ぶことは、例外をのぞいてすこぶる困難である。それでも、美的教養、美的に労働する心はもちたいものだ。まれだが、そのように働く職人や店員、芸人に出逢うと幸せな気持ちになる。
労働、芸術、スポーツ以外の分野でも遊戯の相のもとで活動することはできる。ただし、いずれの場合も、時空と規模の限界がある。大きな社会では無理だ。シラー自身も、狭い空間の小さなサークルでなら一時的に遊戯共同体が可能だと考えていた節がある。

以上をもって、自己流の革命研究と労働研究のまとめとする。どう生きるべきか? 自分のアイデンティティに目鼻をつけるという目的を達成したからである。次回からはちっぽけな、ちょっと変わった自分史を回想する。