自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

往く年の涙/嗚咽と爆笑/大浜の死と孫の成長

2019-12-26 | 生活史

親友大浜のパートナー正子さんの電話で彼が8月19日に他界したことを知った。脳中枢の麻痺で数年間昏睡したまま寝たきりだった。覚悟はしていたが我分身を失った感覚に襲われた。喪失感は次第に薄まるが罪悪感は終生消えることがない・・・。
彼とは気が合うのか衝突したことがない。自然に同調しあっているので会話しても行動しても気持ちが安らぐ。
彼との付き合いは卒業直後に始まった。山や川や海にいっしょに行ってよく遊んだ。日常からの脱出、束の間の気晴らしである。
登山のルールと楽しみは彼に教わった。最初上高地から槍に登ったときは背中のザックが重くてついていくのがやっとだった。その後、剣・立山、八ヶ岳、北岳、御嶽等に登った。
 剣山荘にて

かれは病院の医師だったからそこの看護婦、職員を連れ出すことが次第に多くなった。大勢の中でわたし一人部外者だったこともあり、また彼らの歩行ペースが遅かったこともあり、二度目の槍に登ったとき私は団体のルールをわすれて、文字通り一気に駆け上がってしまった。向上した体力を自慢したいというけしからぬ気持ちがあったと反省している。大浜は病院の医師、わたしは少年相手とはいえサッカークラブの監督、体力が逆転して当然だ。
その後二人とも登山どころではないほど多忙になった。私は全国大会を目標にサッカーにのめりこんだ。大浜は日本有数のマンモス団地近辺に大きな病院を建設して院長として切り盛りした。バブル時代である。銀行の押し貸しで病院も自宅も自己資金なしで建てたようだ。
多忙は罪である、とつくづく思う。バブルが終息する頃まずわたしにツケが来た。舌癌である。功名心の強い医者の過剰医療(形成移植失敗)で死の淵を見た。阪大病院まで京都伏見の病院から彼は駆けつけてくれた。
2005年末労作性狭心症手術で自家移植した動脈2本と静脈1本を血流不足で失った。このときも相談に乗ってくれて阪大病院まで来てくれた。退院見舞の時はわたしが退院した後だったので、ナース・ステーションが見舞のメロンの始末に困ったと後日通院した際に聞いた。

その後大浜に会っていない。数年後彼が発病して車椅子を使用している、正子さんが世話していて見舞を断っている、と井ノ山敏江さんから電話があった。今思うに多忙の中、わたしが面会謝絶とつごうよく解釈したのではなかったか?  三者は家族づきあいだから面会謝絶にわたしが含まれる筈がないではないか?  後悔の念はつきることがない。
次に敏江さんから聞いた時には寝たきりで昏睡状態だった。そして数年経った。2016年春サッカーを引退したから多忙で行けなかったという自己欺瞞的弁解は通じない。昨年母を亡くした。ようやく押しかける決心がついた。
東福寺の桜が見頃をすぎた今年の春、電話しても返信がないのでアポなしで向島病院に行った。正子さんも院長の史朗君も気持ちよく迎えてくれた。身動き一つしない大浜はかなり太って見えた(若いころは塾の子にキューリさんと呼ばれていた)が血色は悪くなかった。何か奇跡がおこらないか、とあれこれ思案しながら帰った。
そしてこの秋、正子さんから訃報と偲ぶ会の案内が同時に届いた。非日常の友人代表として前で追悼の言葉を述べた。上に記した内容のことを喋って恩返ししてない、と言いかけた途端嗚咽がこみ上げて来て顔を覆って引き下がった。正子さんとしばらく思い出話をして帰った。

三つ子の魂百まで、オレはわがままだ。君に謝りたいが君はそんなこと気にもしていないだろう。君は結婚式に母を呼んだだけだったと記憶している。どうしてオレをよばなかったのかと訊ねると君の答えが振るっていた。「結婚は二人おれば足りる」 この伝でいくと「死は自分ひとりおれば足りる」 と君らしく達観していたかもしれない。 


つい先ごろ、3歳といっても正月には4歳になる孫娘がまだ母親のオッパイを吸っているので、いつまでもオッパイにぶら下がっていると、ママのオッパイが垂れ下がるぞ、とひやかしたところ、即座に「サッカーばかにはいわれたくないわ」と返された。
わたしは自他共に認めるサッカー馬鹿である。あまりの図星にあっけにとられて爆笑し涙が出た。誰に聞いた、と問うと、ユーチューブと答えた。

孫たちの家族が集う我が家の新年会はこの話題で盛り上がることだろう。だが、笑う門に福来たる、と笑ってばかりはいられない。疑似体験から得た知識と実体験由来の知恵は違う。自然と疎遠なデジタル優勢世界の将来に不安を覚えるこの頃である