自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリィ/数多のストーリーの源

2020-08-20 | 狭山事件

学生時代社学同の同志として活動しそのご袂を分かった K君が教師Hさんと結婚して市内に住んでいたので1972年の正月に彼の家を訪問した。彼は高校教師をしながら部落解放運動の活動(夜学)で多忙を極めていたので多分もはや中核派ではなかったと思う。
わたしは自著『十月革命への挽歌』を書き終えて狭山事件の真相究明に夢中になっていたので、その縁で旧友を訪ねたのであった。話し込んでいるところへ、私の将来の伴侶となるハチキン(活発なおてんばの意)が故郷の手土産を持って年賀のあいさつに来た。富田小学校の同僚であったK君の伴侶Hさんを訪ねて来たのだった。初対面の印象はハキハキと自己主張する行動的な女性だった。
それからしばらくして、石川さんの犯行を自供に沿って再現する実験をするために人集めをHさんに頼んだ。5人ほど青年部の男女がアパートに来てくれた。善枝さんを後ろ手に手拭いで縛って首を絞めながらズロースをひざまで下ろしつつ強姦・殺害できるかの再現実験だった。赤いトレーニングウエアのハチキンが善枝さん役だった。石川さん役はなかった。いわゆる絡みの実演もなかったが、みなの結論は「考えられない」だった。鑑定した五十嵐県警Dr.も公判で問われて「困難」と答えている。
その後、私は単独で狭山を訪れ堀兼の雑貨店でお祝い用の白いビニール風呂敷を探しあてた。宝船の帆に寿の赤い文字が大書されていた。裁判で用途をめぐって論争されたものと同定できる風呂敷である。
10枚ほど買って、しかるべき所に数枚届けて喜ばれた。そこで、証拠開示された解剖前の死体写真の束を見せられた。既婚者かと訊かれた覚えがあるので結婚直後の事であることが分かる。
映像は六切のカラー写真だった。遺体は解剖前の裸体で、きれいに洗浄してあった。65~70時間(推定)経てば相当に傷むと思えるがそんな印象は受けなかった。遺体は発見時のむごたらしい映像との対比からは想像できないほどきれいで殺人以上の極悪性を感じられなかった。もちろん首に皮下出血が見えたが体に抵抗の痕跡が見えないのである。後頭部に二針縫うほどの痕跡約1.3cmがあった。
女性の大事な扉にいたっては荒らされた感じがなく、生死の区別がつく蒼白色ではなかったように想う。それとなく在った膜に小さなV字切れ込みが三つほどあったが警察鑑定どおり「陳旧性亀裂三条」を呈していて何かを物語る印象ではなかった。
参考  腐敗に関するCasper の法則:地上に比べて水中では2分の1の速度で地中では8分の1の速度で進行する。
もとより素人の半世紀近く前の印象である。自信をもって言えるのは、首を絞められて死亡した死因、窒息死だけである。扼殺(警察医鑑定)か幅の広い物による絞殺(弁護側鑑定)かは私の認識力では分からない。
自白と一審判決では死体を逆さづりにして近くの芋穴に隠したとあるが、足首に縄目の跡がなく、頭部に死斑、凝血塊(もしくは穴底に血痕)がなく、鑑定した五十嵐県警Dr.も「考えられない」と証言した荒唐無稽の作文である。現場の遺留品の意味がわからず取調官と石川さんが苦心して練り上げた(もちろん取調官が主導して)フィクションである。
芋[貯蔵]穴から発見されたビニール風呂敷が用途不明のため数多の憶測を生む素となった。遺体と共に掘り出された意味不明の玉石、荒縄、棍棒も同様である。
玉石は頭の右側上方に在った。
ビニールの切れ端は、芋穴の風呂敷の切り取られた角と一致する。見過ごすことのできない物証である。当然、犯行の一階梯にどう関わっているか説明を求められる。
自白は二転三転するが最終的には検事に対して「最初はビニールの風呂敷を引きしぼって縄のように丸め、それで善枝ちゃんの足首を縛りビニールの端を麻縄に結びましたが、一寸引っぱったらビニールが切れたのでやりなおします」と自白したことになっている。
これで風呂敷は検察にとって用済みになったが、亀井トムさんが地域の土葬風習に着目してそれを真犯人追究のよりどころとした。弁護団も高裁判決までは亀井説に沿って弁論を展開した。
さて対象のビニール風呂敷が「一寸引っぱった」ぐらいで切れるかどうかは、じっさいに実験したらすぐ分かる。私の実験では両腕の力では破断できなかった。その後京大工学部大学院のグループが電子顕微鏡を使って断面を観察したという記事を見た記憶があるが内容をすっかり忘れてしまって残念である。
引っ張り強度を強めるとビニールが伸びて薄くなりついに破断に至る。ただし堤防決壊と同じで一箇所が切れたら二つ目はない。このケースでは揃ってきれているところから見ると、切れたのではなく切った、切断したと考えられる。
次回犯人のこの一見不可解な行動の真の目的について考える。
資料 当時私が入手した写真

 ビニール風呂敷

 細引き縄と結合
 スコップと手ぬぐい

結婚 どう生きていくか目途がついて結婚を考えはじめていたのでハチキンに近づいた。読書が好きだというので石光真清の手記4部作を貸した。これほど読者を夢中にさせる長編はないだろう。おかげで話題が弾み一気にソーシアル・ディスタンスが縮まった。
サッカーの少年たちに紹介すると、間髪を入れず「激しい顔の女」とつぶやかれた。子供の直観と表現にはいつも感心させられる。
1972年の秋、京都四条賀茂川河畔にある東華菜館で披露宴を催した。「仲人役」の井ノ山さんが「母さんの歌」を唄って二組の両親の涙を誘った。
これで私は、一人息子に託した出世の夢をつぶされて「高い山から深い谷底に落とされた」とつぶやくように言ったことがある父親に幾分か親不孝のつぐないができたと思う。母親には105歳近くまで実の親同様に接してくれることになる嫁をプレゼントすることができた。この表現は不適切であるが他の言い方が浮かばない。ふたりは嫁姑的ではなく人格的関係で結ばれていた。
私は彼女と結婚しなかったら、うわすべりの人権感覚のままだったことだろう。人は生まれただけで尊い存在である、これが彼女の生き方の根底にある思想である。それは当時同和教育*に熱心に携わった教師たちが共有した思想であったと私は感じている。
*高校全入運動が叫ばれる一方で部落の高校進学率は20%に満たなかった。越境入学で高校間の学力差が社会問題になった。解放同盟は行政と教育の責任を激しく追及した。教師たちはいやおうなく人権思想の深化を迫られた。