自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

長男誕生/ハイセイコー、第一次競馬ブームの立役者

2020-12-18 | 生活史

1970年代に小学生以上であった人は競馬フアンでなくてもハイセイコーの名を記憶にとどめていると思う。高度経済成長の波に乗って地方から都会へ、なかでも東京に、夢を求めて多くの人が流れ込んだ時代である。しかもその年はオイルショックの直撃で高度経済成長の先行きに不安をおぼえる世相だった。マスコミが「地方競馬の怪物」と囃し立てていたこともあって中央競馬で人気が爆発した。
1973年、中山競馬場での初戦、弥生賞当日、改修前の競馬場は12万超の観客であふれかえった。実際に金網越しに芝生にこぼれ落ちた人も出た。次戦スプリングステークスもふくめて勝つには勝ったがフアンの熱狂をよそに不安視する競馬通のコメントが見られるようになった。
そして迎えたクラシック3冠レースの第一戦皐月賞。ハイセイコーは懸念された東京競馬場の重馬場を無難にこなし2馬身差で勝利した。地方競馬上がりでは史上初だった。ジャパンドリームが成った瞬間だった。もともと血統も良く育成中から大成を期待されていた馬だけに、地方とか公営とかを売り言葉にするのはどうかと思う、という評論に私も同感である。マスコミと大衆が共感しあい一体となってブームを演出したのだ。
NHK杯では東京競馬場に新記録の17万弱のファンが入場し、ブームは頂点に達した。ここでハイセイコーの連勝記録は公営を入れると10連勝に達した。
いよいよダービーである。大本命ハイセイコーは直線で伸びず5馬身ほど離されて3着に沈んだ。私はそういう敗戦の渦中にいたことがないのでその時の場内の雰囲気を表現できない、ただ想像するだけだ。
3冠レース菊花賞はよく記憶している。日赤の病院で長子の誕生を待つあいだ待合室のTVに釘付けになって観戦したからである。妻が顔に内出血するほどに力んで苦しんでいるとき競馬放送に夢中になっていた、と私は今なおデリカシー不足を責められている。もちろん長男の誕生にまさる興奮と感激はほかには代えられない。
その菊花賞であるが、直線で10馬身ほど前を独走していたがぐんぐん迫る長距離馬タケホープにゴール・ライン上で捕まった。ハイセイコーのサクセスストーリーは成らなかった。
ハイセイコーは2400m以上の距離は不得意で有馬記念も天皇賞も優勝できなかった。それでも勤勉、懸命に走り続けたハイセイコーに自分の姿を投影したのかフアンは「怪物くん」と親しく呼んで負けても最後まで熱い声援を送り続けた。
不況の中、いや不況ゆえに、73年の中央競馬の売り上げは前年比33.5%増だった。「競馬の大衆人気化への大きな貢献」(競馬をギャンブルからレジャースポーツにした功績)を買われてハイセイコーは競馬殿堂に入った。ハイセイコーの初年度産駒のカツラノハイセイコが日本ダービー・天皇賞を制して父の無念を晴らしている。


画像拝借 「さらばハイセイコー  ikuleeのブログ」
馬像と碑文を入れた値千金、最高のアングル !!!