スギヒラタケ 出典 東京都福祉安全局「食品衛生の窓」
1970年代後半期、余暇=趣味の時間が少なくなり、大浜との登山も絶えて、遠方の山登りは単独行となり、それも3度で終わってしまった。近場の朝日の森(財団法人1979~2003 現=くつきの森)が山行代わりとなり、キノコ探しの行きつけの里山となった。サッカークラブの合宿、川遊びピクニックでも利用したことがある。
多忙は罪だった、失ったものが大きかった、と最近反省することしきりであるが、きのこ愛好は例外と云ってもよく、2003年まで息抜きに年に1回ほど出かけている。なぜそれが分かったかというと、このたび野外ハンドブック『きのこ』(山と渓谷社、1981年第5刷)が見つかって、それにメモ書きされていたからである。
キノコとの最初の出会いは、朝日の森で開催されたキノコ教室だった。昼間野外で講師の指導のもとでキノコ狩りをし、夕方研修所で採り立てのキノコを並べて講習会がもたれた。
食用になるか有毒かが講義の中心テーマだった。採集されたキノコがあまりにも少なく、夕食に供されたはずだが記憶に残っていない。チャナメツムタケとクリタケが姿かたちから美味しそうで記憶に刻まれた。マツタケは研修所員が前もって用意した萎びた親指ほどの大きさのものが一本あるだけだった。
帰る途中道から見上げたクマザサの藪にシイタケほどのキノコが見えた。駆け上がって探すと数本採集できた。これがわたしのキノコ愛に火を点けた。キノコ図鑑でしらべるとマツタケ並みの希少価値のあるシメジだった。
「香りマツタケ味シメジ」のシメジを偶然見つけたことから、柳の下のドジョウならぬシメジを狙って次の年再度現場を訪れた。そして近くの藪の中で数十本の大きなシメジを見つけた。
隣に住んでいた寿司屋の小父さんにおすそ分けした。さすがはプロ、モノの値打ちを知っていた。数日後大きなカニとなって還って来た。
この小父さんにはうちの子と年齢が違わないこどもたちがいた。ある日うちの子を誘って子供たちを載せて遊園地かどこかに行った。そこで何かクルマのことで他の客とトラブルになってボコボコにされた。かれは子供たちの安全を考えてその場を我慢してしのいだ。
後日、相手方にひとりで乗り込んで土下座させた。小柄だったがその迫力に相手がおびえたのだと思う。男気に感動するとともに私の知らない世界をかいまみた気がした。
朝日の森には毎年通ったが、年々めぼしいキノコが採れなくなった。まずシメジが姿を消しチャナメツムタケ、クリタケが採れなくなった。かわりにスギヒラタケが食卓をにぎわすほどに採れた。
それは、戦中をはさんで伐採跡に植林されたスギが陽の射さない森林帯となった証左であり結果である。足を踏み入れると分かるが、暗いスギ林は生物多様性を喪失した人口の密林である。
杉の古い切り株や倒木に生えるキノコだから行けば手ぶらで帰ることはなかった。香りが無く純白上品で、淡白な味と歯ごたえがよいので和洋どちらの料理にも合い、産地では人気のあるキノコである。
2004年秋「スギヒラタケで死者」の新聞記事に目を見張った。優秀なキノコとして日本海側の雪国で重宝されてきたキノコが突然毒キノコとみなされるようになったのだ。その年北国で59件の発症例があり、うち17人が急性脳症で死亡した、と統計にある。
急に毒性をもったというのではなく、前年サーズ・コロナウイルス対策として感染症法が改定され、急性脳症の症例を全数報告することになったため、毒に当たる高齢者、腎機能障害者が浮かび上がった、ということではなかろうか。
スギヒラタケの成分に、ウイルス等の脳侵入をはばむ血液フィルター「血液脳関門」を害する効能がある、という研究結果がある。こうした研究が進んで、毒をもって毒(ウイルス)を制す、画期的ウイルス対策が開発されないかなぁ、と夢みたいなことを考えている。
時間はあるが体力がない今の私にはキノコ探しは夢のまた夢になってしまった。叶わぬ夢の中でもひときわ心残りのキノコがある。
駒ケ岳からの下山道で樹木の下で見つけた、図鑑に載ってないキノコである。近くの高校に勤務していた上田俊穂先生に観てもらったが判らないということだった。上田先生著『きのこ図鑑』(保育社)掲載のソライロタケにそっくりだが、純白でさわやかな芳香に富む。わたしは勝手に芳香オシロイシメジとよんで、華やかに舞うバレリーナを連想している。
ソライロタケ 写真:井沢正名氏
2003年の秋、わたしは三国峠のブナ林観察会に参加した。最後の山歩きである。ブナの根元に黄金色の大笑い茸が叢生していた。指導員の「地球の平均気温が1度上昇するとブナは絶滅する」という言葉が耳に残っている。