自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアラニー戦争 「この地には主がいる!」

2024-10-31 | 移動・植民・移民・移住

ミッション七か村を率いてスペイン・ポルトガル連合軍と戦ったグアラニーの伝説的英雄セペ・ティアラジュの宣言「この地には主がいる」 左からサン・ミゲル大天使像 背景は裸馬を乗りこなす戦士群像(弓から槍への武器の進化に着目) サン・ミゲル教会、牛、神父たち 右端に攻撃軍の騎馬と銃列と砲車 
出所 州都ポルトアレグレの地下鉄メルカド駅の入り口にあるリオ・グランデ・ド・スル叙事詩記念碑壁画の左半分
作品名は「グアラニー ミッション アート」(ブラジル語)  作者はリオグランデ・ド・スルの視覚芸術家ダヌビオ・ゴンサルベス(10月に逝去/享年94歳)

南米では永らくポルトガルとスペインが実効支配を巡って領土争いを繰り広げていた。とくに大西洋岸南部地方では、ブエノス・アイレスの対岸に位置するコロニア・ド・サクラメント(現ウルグアイ)が、立地上の理由(密貿易と領土化の拠点)から争奪の対象だった。サン・ミゲル等7か村もまた実効支配が二転三転した。

1750年、突如、両国が国境線画定に動いた。西はウルグアイ川、南はラプラタ川までを領土にしたいポルトガルにとって、サン・ミゲル等7か村は広大な放牧地をもつ一大障壁であった。一方、サクラメントも、ラプラタ湾を制して広義のラプラタ地方の商権を握りたいスペインにとって、喉から手が出るほど確保したい要所だった。
スペインがサン・ミゲル等7か村をポルトガルに譲渡する代わりにサクラメントを領有するという約束でマドリード条約(1750年)が締結された。
最終的にサクラメントがスペイン領と確定したのは1578年である。その間に、サン・ミゲル等七か村に引き続き、イエズス会ミッションそのものにも存亡の危機が訪れた。

ミッション7か村にとって突然のポルトガル領化は青天の霹靂であった。二、三代前にたびたびバンデイランテの奴隷狩りで被害にあってきたグアラニーは、ポルトガル人をヒトの姿を借りた悪魔とみなしていた。ポルトガル人の支配を受けいれることは考えられないことで論外であった。
法王と国王に絶対忠誠を誓って設立されたイエズス会は、王命に従うほかなかった。大ミッション地方のイエズス会本部はミシオネス州(現アルゼンチン)のカンデラリア村にあったが、「インディオの保護官」である管区長以下5名から7名の神父が自村をふくめて30のミッションの行政を監督していた。
この人員では、本国からの命令を各ミッションに伝達することと本国に要望書、報告書をおくることぐらいしかできなかったと思われる。各ミッションが自給自足しながら自治を行なっていたことがこれでわかる。各ミッション間は同腹の兄弟のように親密で、交流、交換があったが、連合したクニではなかった。
王命を確認した七か村が大混乱に陥ったことは想像にかたくない。それまで「神父は彼らにとって父であり、母であり、聖職者であり、その他すべてであった」という、もっともな現地報告があるが、神父はミッションの一大事に際して王命に従うことしかできなかった。神父はグアラニーに移動するよう説得した。神父のカリスマ性(全能感、預言と雄弁)が薄れた。

国難が英雄をつくるといわれるが、七つのミッションでもそうであった。経過を追ってみよう。
条約締結から15か月後、ようやくカンデラリア村の本部にローマのイエズス会総長から退去命令の手紙が届いた。管区長は大ミッション地方の全会士60名を招集し、条約の内容を伝えて、事態を冷静に受け止めるよう求めた。
条約には、七つの村は、教会、建物や土地、領有権とともにポルトガル王室にひきわたされる、「インディオは、家具、家畜、武器、火薬などをもっていくことを許される」と記されていた。村々は、マテ茶畑、棉畑、70万頭のの野性牛と10万頭の羊が育っていた大平原(ミッションを含めると日本とほぼ同面積)も失うことになる。
誰しも3万の住民と数十万の家畜を渡河させることなどできる訳がないとすぐさま思うであろう。管区長とサン・ニコラス村の一人を除いて残る全会士が、絶対に不可能という意見であった。
1752年2月、スペイン政府新国境設置委員会がブエノスアイレスに本部をかまえた。委員長バルデリリオス侯爵、執行委員にイエズス会士アルタミラノ神父。執行軍司令官にブエノスアイレス司令官アンドナエギが指名された。
1752年7月、アルタミラノ神父がサント・トメ教化村(西岸沿い)に居を構え、七か村の布教長(在カンデラリア)に「移動しなければ会士を引き上げ、村人を破門にする」と脅しをかけた。神父はしぶしぶ移住の適地を探したがみつからなかった。グアラニーは移住拒否を決めた。
1752年10月、サン・ファン村が移住に傾く。一部村民がアルタミラノはイエズス会士に化けたポルトガル人だと騒ぎ出し、村は騒然となり移動は中止された。
サン・ミゲル村では、村長が罷免されたうえカケと村民に暴力を振るわれ深手を負った。名前不明のリーダーの助けで何とか神父が傷を縫合することができた。他の村でも、村役が神父の身代わりにされて、怒りをぶつけられた。移動先を探そうとする神父はしつこく邪魔立てされた。村から逃げ出そうとした家族は阻止されて、ひどい扱いを受けた者もいる*。
管区長は「われらはもはや統治してない。グアラニーに従うだけだ」と嘆いた*。


サン・ミゲル教会の正面と鐘楼

1753年2月27日、国境目印の杭打ちをしながら北上していた西=葡合同の新国境設置団が、サン・ミゲル村の放牧場のなかにあるサンタ・テクラで300の武装グアラニーに行く手をさえぎられた。旗手サン・ミゲルのセペ・ティアラジュの口上「自分たちはブエノスアイレス司令官からこの地を守ることを任されているから、スペイン人は通すが、ポルトガル人の通行を許すことはできない」。
一行は三日間足止めをくったあげく、サクラメントにひきあげた。グアラニーは帰途の糧食として西・葡それぞれの隊に60頭、30頭の牛を贈り、道案内までつけている。
この一件はグアラニー蜂起のニュースとなって大きな衝撃をもって伝えられ、サンタ・テクラの名はヨーロッパにまで鳴り響いた。イエズス会は各方面から非難の集中砲火を浴びた。
スペイン政府新国境設置委員長はブエノスアイレス司令官アンドナエギを通じて退去しようとしないミッションに最後通牒をつきつけた。神父アルタミラノも期限付きで全会士の破門、追放を予告した。
管区長は軍事介入を思いとどまるよう嘆願書を送る一方、教化村に対して勝ち目のない戰をさけるよう文書を送った。
グアラニー側も態度を硬化させ、外部からの書類、手紙をいっさい遮断した。交通路であったウルグアイ川の渡河点を封鎖したうえに神父の居室に見張りを立てた。一方で、外部へ盛んに訴え(グアラニー語を神父、村長、カケがスペイン語に翻訳した)を発信した。なかでも村議会(カピルド)を代表してニェエンギルーが発したアンドエナギ司令官あての要望書は名文で知られている。
板挟みになった17名の神父は、「神父としてアルタミラノの命令に服することはできない。村にとどまって中立を保ちながら、グアラニーたちに精神的な支援を送る」という結論に達した。
単発的に村々で不祥事が起きた。
東岸に大きな放牧場をもっていた西岸沿いのジャペジュ村の極端な例をあげる*。
二人の指導的有力者[カケと思われる]が非戦を口にする村長(コレヒドール)を罷免し、村の女たちを「大きな祭」というところに避難させた。神父(複数、以下同じ)が女たちをエンコメンデーロに引き渡すのではないかと恐れたのである。その後、神父から鍵を取り上げて村の倉庫を開け、備蓄、織物、道具などすべてのアイテムを村民に分配した。
神父が逃亡を図ったため拘束し、犯罪者のように扱った。神父が教えてきたこととは裏腹に謙虚さに欠け高圧的であると非難し、鞭で打ち、キリストにならって裸足で歩いて、居室に帰らせた。しかし神父のミッショネーロとしての活動は禁じなかった。
ちなみに、西岸沿いにも六つの村(西方全体では23の村)があり、それぞれ大平原に放牧場か茶畑もしくは棉畑をもっていた。それらコンセプシオン、サント・トメ、ラ・クルス、ジャペジュ、サン・ハビエル、サンタ・マリア・ラマヨルおよび中部の村々は、後日、放牧場を通過する合同軍の部隊を阻止しようとしたが、多勢に無勢、無駄に終わった*。
1754年2月、サン・ルイス、サン・ロレンソ、サン・ファン3か村のグアラニー350人からなる部隊がパルド川にあったポルトガル軍の駐屯地を襲い、グアラニー側30人、ポルトガル側16人の死者をだした。
5月、スペイン軍はモンテビデオ(ブエノス アイレスの進出拠点)を出発し、教化村まで130キロ地点に迫ったが、思いがけない寒波に見舞われ、霜で牧草が枯れはてて、連れてきた6000頭の牛馬やロバが餓死していった。一戦も交えることなく撤退を余儀なくされた。
ポルトガル軍の方は、ジャクイ川付近で2000人のグアラニー軍に包囲されて身動きがとれなくなり、和議を申し込んで辛くもブラジルに逃げ帰った。この時のグアラニー軍はセペ・ティアラジュを総司令とする総軍であった。「この地には主がいる」と宣言してポルトガル軍を追い返したと伝承されている。穏やかな短い宣言にセペの人柄と戦争の目的が表明されている気がする。

長い休戦が終わった1756年初頭、つまりサンタ・テクラの蜂起から数えて3年後、万全の準備をして、スペイン軍(1700人、大砲20門)とポルトガル軍(1200人、大砲10門)が前進を開始した。合同軍の補助兵には黒人のほか白人との混血(ムラート)がいたが、反乱に同調しかねない先住民は部族を問わず(グアラニーの宿敵チャルークをふくめて)いなかった*。
グアラニー軍はゲリラ戦で西葡合同軍にかなりの損害をあたえた。ところがあろうことか、2月7日、ある小競り合いで、70人の小部隊を率いていたセペが、乗っていた馬が穴に躓いて落馬したところを撃たれて戦死した。
彼はグアラニー族の戦時カリスマとなっていた。村役の弱腰に憤慨してスペイン人の町に離脱していたグアラニーの名工たちがかれを慕って舞い戻ってきたほどに名声が高かった。セペに代わる指導者はいなかった。西岸沿いのコンセプション村のコレヒドールでセペを補佐していた雄弁で名文家(前出)のニェエンギルーが選ばれて後を継いだが、かれは軍事経験がなかった。兵士たちは氏族ごとにカケのもとに固まって指導を仰いだという話もある。
3日後の2月10日、カイバテの丘での戦いでグアラニー軍は壊滅した。兵士の数は3000に対して半分強だったが武器の差が開き過ぎていた。大砲対竹筒砲、旧式銃、槍と弓矢では、会戦では、勝負にならなかった。
「それよりも前に、戦場においてカリスマ的な存在であったセペを失ったとき、すでにグアラニ軍は精神的に瓦解してしまっていた。大砲の音におじけづいて塹壕にうずくまってしまったかれらのうえに襲いかかった合同軍は阿鼻叫喚の殺戮をくりひろげた。戦闘はたった一時間あまりであったが、グアラニ側は死者1511人、捕虜154人という甚大な被害を被ったのにひきかえ、合同軍はわずかに死者4人、負傷者40人をだしただけであった。[中略]その年の暮れには、七村の住民はすべてウルグアイ河を西へわたり、移動は完了した。」

わたしがほぼ丸写しでこの章をまとめてきた種本『幻の帝国』の著者・伊藤慈子さんが、早々にグアラニー戦争を全村移住で締めくくってしまったので、全村移住の実態と合同軍の戦後処理策を別の史料*で追ってみたい。
まず、結果的に決戦となった戦いには、相当数の遠方からのグアラニー部隊が欠けていた。サン・ホセとサン・カルロスの部隊はサンミゲルに近い放牧場で合同軍を待ち構えていて敗戦を知った。サン・トメとサン・ボルハの部隊はそこに行く途中で通りかかってカイバテの丘の惨状を見た。諸部隊はそれぞれの村に引き返した。サン・ボルハ以外はウルグアイ川より西のミッションである。
グアラニー総軍はカイバテの戦いで全滅していなかった。サン・ミゲル以下4か村の2000人が敗戦後も放牧場に半円の陣を敷いて合同軍と戦い、相互に数人の死者を出している。読んでいて何か腑に落ちないものが残るのは私だけではないだろう。
元々グアラニー戦争はグアラニーが仕掛けた戦争ではなかった。二、三代前の先祖がイエズス会の指導で築いたミッションと土地を守る自衛戦争であった。三里塚闘争に似ている。
セペのよく考え抜かれたスローガン「この地には主がいる」が示すとおり、反国王、反政府、反イエズス会でなかった。反軍、反スペイン人でもなかった。したがって、西葡合同軍も討伐軍ではなく、全村退去執行軍であった。討伐軍なら、両軍は反抗した村と村人を地上から消し去ったであろう。いわゆる、今日も繰り返されている「正義の戦争」という名のジェノサイドである。
カイバテの虐殺の反省もあったであろう。総司令官アンドナエギは15日以内に武器を放棄すれば罪をとわないと布告した。これが戦死者が僅かだった理由であると考える。
戦士たちと避難者たちは家族共々見込みのある土地を求めて集団移動した。サン・ミゲル村がそうであった。
サン・ミゲル村では300家族が神父に従って移動に応じた。7か村で14000人が移動に応じた。16000人が村を捨ててあちこちの放牧場の丘に避難した。
サン・ニコラス村は神父の説得をきかず300のスペイン軍に強制移住をさせられた。投石で抵抗して少なくとも9人が死亡した。
占領軍は、当たり前のように略奪と性暴力をおこなった。畑を荒らし牛や羊を食料にした。第二次大戦までは戦時のこうした悪事は当たり前であり報道も資料も少ない。
総司令官だったアンドナエギがラプラタ地方長官に任命されて戦後処理の最大眼目である西岸への移動を取り仕切った。おもな移動先は西のミッション村であった。それぞれの村に移動した人員の記録があるがパスする。7か村の神父たちと布教長がグアラニー保護の誓いを果たしたことだけはメモしておきたい。
護送途中、密林に逃亡した者、逃げてスペイン人の牧童になった者等がいたが、大半は西のミッションの仕事についた。
アンドナエギは17人中11人の神父を反乱扇動の罪で審問にかけたが全員無罪になった。セペの後継キャプテン・ニェエンギルーは生き残り、イエズス会がコンセプション村からトリニダード村へ形だけの追放処分を科した。アンドナエギは、コロネロスの反乱時に偽総督を公開処刑して再び反乱に火がついた苦い教訓を生かしたのであろう。捕虜が軍の補助員として護送に関わった記事はあるが、罪を問われた記録はない。
スペイン軍政がグアラニーの移動と審問に忙殺されていたとき、ポルトガル側の司令官ゴメス・フレイレは、国境線の杭打ちなんか忘れたかのように、のらりくらりと国境画定を遅らせ、心を閉ざしたグアラニーの歓心を買うことに集中した。兵士による略奪を非難し、グアラニー家族に個別に当たって衣類を施した。多分リオ・グランデでの集団生活を保障したのであろう。700家族と15万頭の牛を引き連れて占領地からパルド川の前線基地に撤退した。
村民はスペイン国王の臣民である。抗議を受けて200家族をかえしたが500家族はリオ・パルデ移住を選んだ。移住先でいくつか村を建設した後、ポルトガル人の牧場で働き、砦と砲台建設に従事した。軍は、バンデイランテがやった拉致による労働力確保を、巧言と物資をもって実現したと言える。貧しかったのであろう、牛泥棒をしてポルトガル人入植者の不信をかうグアラニーが現れた。
1761年、両国はマドリード条約を破棄した。突然締結された条約は唐突に廃棄されるものなのか。両国ともバンダ・オリエンタルの北7か村と南サクラメントの交換に不満を抱くようになっていた。
この年、グアラニーは14000人が元の東岸7か村に戻った。16000人が戻らなかった。戦後から数年間、蔓延した疫病で数千人、とくにこどもが亡くなった。
1764年のイエズス会の調査によると、再建された7か村の総人口は21209人、6519人が帰還しなかった。
1767年、スペイン国王が全領土からイエズス会士の追放を始めた。イエズス会士が居なくなった全ミッションは崩壊した。保護者、先導者のいない世俗化の道がどれほど険しいか、新大陸先住民の歴史と現状をみればたちどころに想像がつく。

の出典:Barbara Anne Ganson, The Guaraní under Spanish Rule in the Río de la Plata , Stanford University Press, California, 2003.