自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

帰国嘆願詐欺/勝ち組顛末記

2010-08-21 | 家族>社会>国家

認識派が敗戦を機に民族的しがらみを振り払うようにして移民社会からブラジル人社会に一歩踏み込んで社会的飛躍のステップを築いて行く一方で、信念派は敗残兵のように各人各様に道をさ迷うことになった。
信念派の臣道連盟は大東亜共栄圏への再移住を目的に「一時帰国運動」を始めた。
父は資産凍結下なのに、「迎えに来る」帰国船に乗り遅れてはならじとコーヒー園を「ガイジン」に売った。
父は助言を得て登記を拒否したので購入者がオラリアまで来て登記を迫った。
車から降りるとき腰のピストルがちらりと見えた。
後に裁判になり父は敗訴した。
資産の3分の1を失ったと父がつぶやくのを聞いた。
96歳の母は否定しているがわたしは父がある詐欺師に騙されて裁判を闘ったと信じている。                                                      まもなくブラジルは日本の属国になるからブラジルの法律に従うな、と助言されたらしい。
その男は堀澤を名乗り弁護士を騙って首都リオの湾内の島に在る別荘に事務所を構えて、ペチソンという「帰国嘆願」運動を主宰して帰国願望者から金を集めていた。
わたしはあえて堀澤を前出のプロの詐欺師川崎三造に擬したい。
川崎は北パラナ(まさにわが故郷)の勝ち組のドン谷田才次郎と二人で臣道連盟帰国運動発起人渡麻利誠一に面会し特務機関南郷大尉であると信じ込ませマンマと資金援助を得た。
当時南郷大尉と聞けばたいていの日系人はころっとだまされたにちがいない。
兄弟とも大尉で兄は撃墜王にして後「軍神」、弟も撃墜王で「型破りの颯爽とした長身で、いつも男性的な野性味を発散させていた。その明朗、括淡たる風格、そして豪勇にして、てらわず、ぶらず、これほど衆望を集め上下同僚に愛された人物はまた稀有であった」(ウイキペディア)
「長身でダンディなルクスだけでなくある意味で限度をわきまえた詐欺師だった」と醍醐麻沙夫氏が描いた川崎の特徴が堀澤の風貌と行動規範に似ている。
わたしは別荘玄関に立つスラットした堀澤と小柄な父の2ショット写真を家でみたことがある。
運動資金請求が「それくらいなら」と応じやすく露見した後も訴え難い金額だった。
父は飛行機を利用して来るはずのない帰国船情報を聞きにたびたびリオの堀澤の事務所に出向いている。

終戦まもない頃は迎えの艦船が来る、慰問使節団を乗せた船が来る、というデマのたびに「奥地」から移民がサントスやリオの港に押し寄せた。
偽の乗船切符、帰国後使うための円への両替が詐欺の手口だった。
無価値な旧紙幣と引き換えに土地を売った人もいたという記事がある。      
 「南郷大尉」こと川崎もお忍びで来伯されている朝香宮を支援するという名目で詐欺をはたらいた。                                            帰国嘆願、帰国船切符の予約、慰問使節団と朝香宮の来泊といった虚偽を利用した詐欺行為の背後に見え隠れするのは、孤児が慈母を慕い待つような移民たちの望郷の念、母国帰国願望、母国補償願望、自分達は棄民ではないという確認願望ではなかろうか。
今様に言えば、戦中の移民社会は、癒しをクニにしか求められない、絶海の孤島に放置されたも同様だったとわたしは思う。
資産凍結、言論出版集会統制、日本語教育の禁止、新移民の禁止、日本国出先機関の総出国、情報の途絶、そして青天霹靂の敗戦の報、孤立し前途が見えない移民社会が狂信に陥り愚行に走ったことをわたしは理解できる。

1951年、国交回復を翌年に控えて自費で帰国できる時が来た。
詐欺師の口車ではなくオランダ船籍の貨物船に乗って「帰国」することになった。
終戦から数えて6年の歳月がいたずらに過ぎ去っていた。
なんとも思わなかったが、その間わたし(12歳)は学校に行っていない。
日本に帰るのだからブラジルの学校に行く必要はない、と父に言い渡された。まわりの日本人の子供は学校に通うようになったが、わたしは自分も行きたいとは思わなかった。



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