・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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分類は差別と隣り合わせ

2012年05月05日 | つぶやきの壺焼

酒瓶の姿を見ると、飲んでみる前に「これは辛口か」と尋ねる人がいる。
飲めばわかることを、なぜ前もって知る必要があるのかと不思議に思うのだが、その人は何ごとにつけ、観察は分類から始めるものとしているのだろう。
それが観察の王道だと教えをたれる人もいたことを思い出した。

「分類の思想」(池田清彦・新潮社)という本がある。
分類するということの根拠は何か、そんなことも書かれているらしい。
ものを見ればまず分類したがる人の気持も、これでわかるかもしれない。
この本を紹介している出版目録には、見開きの反対側のページに「私家版 差別語辞典」(上原善広・新潮社)が載っていて目を引く。

分類と差別とは、同居とまでいかなくても、隣室同士の深い関係にありそうだ。
酒の甘辛の分類も、好き嫌いというある種の差別とかかわりをもっている。

分類はいわば区別することで、区別と差別は違うという異論はもちろん成り立ち、このほうが一般には正論だとは思う。

しかし、別々にするということには、何か差をもたせることがあるに違いない。
日に何度か飲む薬をあらかじめ分けておく人もいるが、このわけ方も時間差をつけるためだろう。
差に好ましくない感情があったときそれが差別だと、一応の説明はできても、別々に分けることに変わりはない。
分類には差別意識が包み込まれると言ったほうがよいのかもしれない。

差別と呼ぶのは、それによって状況に同情を求めるような、受身側の感情表現をことさら述べたてている場合が多いのではないかとも思う。

差別語などという熟語自体、あって欲しくないといいながら、なければその概念が成り立たない、珍妙皮肉な関係をこしらえているようにも思えるのである。
差別などというきつい言葉が生まれる前は、「分けへだてはいけません」と言われていた。祖母からときどき聞いたその言葉を思い出している。

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