悪事の果ての言い草に「法律のどこに決めてある」という幼児語がある。
幼児語のうちはまだ可愛いところが残っているが、法律に違反していなければと、人間として許されないことをしても威張りかえっている様は苦々しい。
さらに非道いのは、法律に違反していると判決の下されたことを、部分のことは小事で、大勢にかかわることではないと、風化を期待しているかのように放置されてきたことである。
違法の絡み合いは、雑草の根のように、年月を経るほどに手がつけにくくなる。
他国からやってきた、臨時雇いの片付け屋のような人が、これまた臨時雇いの筆記人に書かせた法文を、半世紀以上もそのまま国の法典の根幹として、だいじそうに潅水を続けてきた。
国の命運を左右する権力を握った人を頂点に置く組織の構成が、最高とされる法に違反していて、しかも組織の人員選定方法が無効であったと判定された。
こういう大椿事が起きても、人々は平然としている。
その一方で、何かにつけ、わが国は法治国家であるなどと、法にかなう道筋を探って歩く人は絶えない。
法治国家には、自分のすることを、ある権威のもとに決めて貰いたがる人が多い。
自分のすることであっても、どう決めればよいかを論ずることは嫌う。
国事を司る人々がその職を失っては一大事という、論拠のない不安の空気を漂わせることによって、違憲と判定された制度もずるずると放置されてきた。
自分が職を失うのは大事件だが、他人が他人の職を失わせるのは事件とは見ない。
まことに柔軟性に富んだ感情の持ち方である。
「生活がかかっている」という、効用あらたかなわかりやすい言葉が、実はいちばん始末の悪い言葉なのであった。
何しろこの言葉は、国の最高の法によって護られているのだから。
日本国憲法 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。