論理というと、どこか難しく聞こえます。
「論理 とは - コトバンク」というサイトの書き出しには、こう書いてあります。
1 考えや議論などを進めていく筋道。
思考や論証の組み立て。
思考の妥当性が保証される法則や形式。
2 事物の間にある法則的な連関。
すうっと読めば、だいたいうなずけるのですが、いちばんはじめの説明には、引っかかるところがあって、興味が出てきました。
こういうことは、なぜか引っかかるものがないと、素通りになって興味も何も湧いてこないものです。
「考えや議論などを進めていく筋道」のどこに引っ掛かりができたかといいますと、「進めていく」というところなのです。
考えや議論には、進めていかずに、止まってみたり、後戻りしたりすることがあります。
人が集まったときなど、誰かが出した話題の扱いには、むしろそのほうが多いようにも思います。
わき道にそれて、また枝道に入り込んで、はじめの話がいつのまにかどこかに消えてしまうこともしばしばあります。
都合の悪い話や苦手な話を、わき道枝道に誘い込んで、むにゃむにゃにしてしまう手を使う人もいます。
一度あきらめたふりをしておいて、しばらく経つとまたそれを持ち出してがんばることも、外交上の問題では常套手段になっています。
議論がこうして進まない場合のはどういうことなのか。
答は簡単でした。
「考えや議論などを進めていく筋道」が論理であるならば、「筋道に沿って進めないのは論理ではない」としてしまえばよかったのです。
「発散的あるいは消滅的な論理らしいものは、もはや論理とは別のものである」
こうしておけば、「もっと論理的に話をしませんか」などと持ちかけることもできそうです。
しかし「なんだおまえは論理的発散を楽しんでいるだけではないか」と逆襲にあうかもしれません。