・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

壮大な付加価値:3

2012年05月16日 | つぶやきの壺焼

科学・技術は、政治に引きずられるとあまりよい働きをしない。
政治家は、科学・技術をあらゆる手を使って利用しにかかる。
思想・評論を仕事にする人たちも同じようなことをしたがる。
思想の科学などというあまり意味のわからない標題の雑誌さえ出ていたことがある。
科学という呼び名が、科学とは無関係のところで出版産業の材料にも使われていた事例である。

科学・技術が、政治や産業を支える役割が薄められて、お雇い科学、ご用達技術に堕していくと、やることのどこかに隙間ができる。
そして、天変地異に遭うと防ぎえた程度を超える被害をこうむってしまう。
そのことに政治家とお雇い科学者は、口をそろえて「想定外」という。

いったん事故が起きた後でなれば、どこをどうしておけばよかったのかは、科学者の知恵を借りて技術者が結論付けられることである。
その場合には、検討過程での政治家や思想関係者は口出し無用なのである。

なんでも政治主導などと、できもしないことを言ってえらそうに口を出すから間違いが起こる。
なぜ間違うのか。政治や思想には必ず偏りがあるもので、宇宙万般に公正な政治や思想などありえないからである。


壮大な付加価値:2

2012年05月15日 | つぶやきの壺焼

不可能をなくすことは、科学・技術の役割の一つだ。
巨大システムが急激に使用不能となり、既往の科学・技術をもってしては廃棄不可能な場合、廃棄のための技術開発を進めるのがよいのか、使用不能でなくすることに技術開発を進めるのがよいのかを考えてみよう。

廃棄のための技術開発では、それが成功したところですべてが終わりになる。後に得られるものは何もない。
使用不能といったん思ってみたものを、再起させる技術なら、科学者も技術者も頭の使い甲斐があるだろう。

対象が世の嫌われものであれば、なおのこと意欲も湧くに違いない。
受け入れられやすいことだけを楽しみながらやって一生を終えるのでは、科学者とか技術者とか名乗るのも恥ずかしかろう。

天変地異に負けないシステムにするには、何をどうすればよいのか。
弱点をよく知っている危険を唱え続けてきた学者たちの知恵も取り込んで研究を進める度量を、みなが持つように、まず座禅の合宿からでも始めたらどうだろうか。


壮大な付加価値:1

2012年05月14日 | つぶやきの壺焼

ゴミ処理は毎日の面倒ごとの一つ。
これがなくなればずいぶん楽だとうっかり思うと、次の日にはさあ大変。
次の日も延ばせば、またその次の日にいっそう大変。
そんなバカなことを、いま日本をあげてやっている。
捨て場のない大ゴミを抱え込み、黙り込んでしまっている。
燃えないゴミではなく、放って置けば燃え出す始末の悪い大ゴミ、50もの原子力発電装置が、全国に散らばっている。

ついこの間までゴミどころではなく、エネルギーを生み出す最高用具と思って使っていたものを、天変地異で二つ三つやられたからと慌てふためき、日本中のものはみんなダメだと大騒ぎを始めてしまった。
心のネジを締め忘れて後先に考えの及ばなくなった総理大臣が、使っているものまですぐ止めろと叫び回り、とうとう大ゴミにしてしまった。

この大ゴミは捨てる場所がない。地球全体くまなく探し歩いても、捨てる場所は見つからない。
捨てる場所がなかったら、そのまま永久保存か。
いくらなんでもそれでは知恵がなさ過ぎる。

捨てる場所がなかったら、お金をつけてでも引き取ってもらえないかと考えるのはC級の知恵である。
捨てる場所のないものは、言ってみればそれこそが希少価値なのだから、高く売ればよい。そのままでは売れないのはわかりきっているから、付加価値をつけなければならない。ものがものだけに、壮大な付加価値でなければならない。
さて、どんなことがあるのか、ゆっくり考えてみよう。


気づいていない形があった

2012年05月13日 | つぶやきの壺焼

ヒマワリは放射状の花かと思っていたが、らせんの形をもっているという。

「形態の生命誌」(長沼毅・新潮選書)には、シマウマ、熱帯魚、蜂の巣、虫の羽などさまざまなものに生命が織り成す形の法則性を探った話が書かれている。

ヒマワリがらせんなら、夜回りは何せんだろうなどと、すぐ駄洒落に走る者には、こういう法則を見つけることは、たぶんできない。


王道は歩むもの覇道は突き進むもの

2012年05月12日 | つぶやきの壺焼

誰かの言葉にあった。
王道とは、不完全さをわきまえ、補う手段こそ大切であると自覚しながら辿る道筋だと。
それに対し、覇道とは、自分は完全であると思い込み、自覚を脇に押しやって突き進む道筋だという。

覇道を突き進む者は、およそカズの力、カネの力が頼り、しかも中身はカラ。
これが覇道方程式の三カ関数だと、駄洒落を飛ばしている人もいた。

国政には、とくに内政には王道を歩んでもらいたいものである。


ロリるとはどういうことか

2012年05月11日 | つぶやきの壺焼

裁判で無罪とされ人を、どうしても罪人に仕立てないと気がすまない人がいる。
有罪とされたがことによると無実ではないのかという見方と逆のことに見えるが、どこかに共通点もありそうだ。
この共通点は、むりに探すこともないからそちらに足を向けるつもりはないが、無罪が気に入らないというのはどういう考えなのだろうか。

無罪であるという裁きに異論があるのか、裁ききれなかった別のことに異議があるのか。
判決が気に入らない人は、多分裁判とは何かを勘違いしているのではないのか。
裁判は、誰かがしたことが法に照らして正当であったかどうかで裁定される。
法に照らしてであって、人の道に照らしてではない。
法は論理で組み立てられており、人の道の倫理とは別ものなのだ。

法に触れてなければ何をしてもよいと、論理だけで行動する人は、倫理のことは顧みもしなければ気にもかけない。
人の道に外れたことに、裁判で決着をつけさせようという、ごくあたりまえに考えられそうなことは、倫理のことを論理で裁いてもらおうという、見当違いのむなしい願いでしかない。
ロリコンというあまたれ症があるらしいが、何でも裁判という根性もあまたれ症のひとつで、そこにこだわるのはロリる傾向の中期症状ではないかと思うのだがどうだろうか。


数の力がギネスの決め手か

2012年05月10日 | つぶやきの壺焼

ギネスブックは、さまざまな分野の世界一を収集した本だが、世界一とするからには記録達成の証明が必要で、達成したかどうかは数量化できる記録でなければならない。
ここまでは当たり前のことだが、認定には「今後記録が破られる可能性がある」ということが条件だというから面白い。

突拍子もない破られそうにない記録がもしあったとしたら、認定されないのか。
破られそうかそうでないかをどう判定するのか、そのあたりがよくわからない。

松崎しげるが「愛のメモリー」という自分の歌をギネス記録に申請したという。
歌の記録とは何のことだろうと思ったら、同じ曲を同じ歌手が歌って出した数だという。
こう言っても見当がつかないだろう。
数というのは編曲の数らしい。

そうか、超がつくような能力でなくても、記録のとり方、数量化の設定の仕方で「これは世界一だ、認めろ」と言えるのだったか。
体力での勝負と違い、頭の使い方で認定を勝ちとることができるとなると、何でもありかとも思ったが、もう一つ
「ギネス・ワールド・レコーズのブランドとして賞賛できるもの」
という条件があった。

ギネスのことを語るなら、これを忘れるなという言葉がある。
「儲けたければ、まわりを儲けさせる人であれ」
金を儲けたから社会貢献しようかなどは、まだまだせこい考えのようである。
ものの数などはものの数でないか。


またげる国境とまたぐ意味のない国境

2012年05月09日 | つぶやきの壺焼

国境はさまざま、またげる国境、またげない国境、通り抜けるだけの国境があり、向こう側に行ってみても意味のない国境もある。

国境を越え、国籍を変えて住み着いてしまう人もいる。
特殊な能力が向こう側で求められ、国籍を変える人もいる。

走る能力も、国歌の演奏と国旗の掲揚の数を競うために買われることがある。
そういう場合の国籍変更には、カネが動いているに違いない。
参加に意義を求めた国際的祭典も、経済力を駆使した国威宣揚の場と化す。

純粋に参加の意義を希求しても、国を代表するだけの力を持たなければ望みは果たせない。
国の代表になるには、低レベルといわれている国に見当をつけて国境をまたぐ方法もある。
そこでレベル測定の目盛りをうっかり読み違えると、代表の資格取得も怪しくなるが、いちばん話の付けやすい経済問題にすりかえればことは収まる。

しかし、ハードルは一つ越えれば次にまた一つ現われる。
強国にとって都合よく仕立てられる、国際競技ルールという越え難いハードルである。
そのルールは、装着具など身体能力以外のところ、あるいは変更不可能な過去の居住実績などを組み込んで、いとも巧妙に作られる。

装着具は変えられても、過去の居住地は変えられない。
せっかくまたいでみた国境も、そのとき急にまたぐ意味のない国境になってしまうのである。
国籍とは、いったい何ものなのだろうか。

 


モジリの楽しみ

2012年05月08日 | つぶやきの壺焼

「火曜曲」という字をCMで見た。
火曜の次は水曜、ならば「水曜液」

火曜水曜がうまくいったとして、他の曜日もと簡単にはいかない。
無理を承知で次を探す。

「も、供養は済んだか」いきなり抹香くさくなる。
「金よのふん」舌がもつれてくる。
次の週に行って「月よりの使者」これは平成人には通じないだろう。

土日はどうした。
休みに決まってるだろう。


量の測定と影響の判定は別のこと

2012年05月07日 | つぶやきの壺焼

マイナスイオンというものの正体はよくわからない。
不謹慎なたとえと叱られるかもしれないが、呪文の意味が理解できないのとどこか似ている。

「空気中のイオン密度測定方法」というJIS規格ができているからには、それらしいものが実在することは確からしいのだが、それが人間の環境や動物の活動にどういう影響を与えるかということがはっきり示されているわけではなさそうな、なんともあやふやな存在である。

カラスがマイナスイオンを嫌うという話を聞いても、人間の体によいならばカラスがなぜ嫌うのか、どうも合点がいかない。
そこが人間とカラスの違いだなどというのは、落語のハチクマ論法でしかない。

マイナスイオンがあるなら、それと等量のプラス電荷がどこかにできているはずで、それがどこでどうなっているのか、そういうことがわからない。

測定方法が確立され、測定器が使えるようになると、測定対象であるなにかが随所にあらわれて、私たちの生活にたちまち影響を及ぼすように思い込んでしまう。
そのあたりのことが、いちばんの誤解のもとになりそうではないかと思うのである。
誤解にも利点はある。それを利用したお商売が成り立つことで、正体がつかめないのだからウソだという証明もできない。
やはりどこか似ている。


カラスはマイナスイオンが嫌いらしい

2012年05月06日 | つぶやきの壺焼

カラスを寄せ付けないためには、マイナスイオンを出す網のようなものが効くという実験らしい場面をTVで見た。
なるほど、その網を地面に広げた上に乗せた肉片には、隣の草の上に置いた肉片を食べ終わったカラスは近づかず、遠のいてしまう様子が見て取れた。

あの放送は面白かった。
わからないことがたくさん出てきたからである。

まず、人間にはマイナスイオンの好きな人が多いのに、カラスがなぜ嫌うのか。
カラスが嫌がったのは、マイナスイオンではなく、何か匂いがしていたのではないのか。
少しくすんだような黄色が気に入らなかったのではないか。
網からマイナスイオンが出るとは、どういう現象なのか。
網に何かしみこませてあるのか、塗ってあるのか。
雨で流れてしまわないのか、紫外線で飛んでしまわないのか。
そもそもマイナスイオンとは何なのか。

たちまち七つの疑問が並んだが、一つも解明できそうにない。
これはカラスにきいてみるしかないのか。
カァラァス なぜのくの・・・・・・・。


分類は差別と隣り合わせ

2012年05月05日 | つぶやきの壺焼

酒瓶の姿を見ると、飲んでみる前に「これは辛口か」と尋ねる人がいる。
飲めばわかることを、なぜ前もって知る必要があるのかと不思議に思うのだが、その人は何ごとにつけ、観察は分類から始めるものとしているのだろう。
それが観察の王道だと教えをたれる人もいたことを思い出した。

「分類の思想」(池田清彦・新潮社)という本がある。
分類するということの根拠は何か、そんなことも書かれているらしい。
ものを見ればまず分類したがる人の気持も、これでわかるかもしれない。
この本を紹介している出版目録には、見開きの反対側のページに「私家版 差別語辞典」(上原善広・新潮社)が載っていて目を引く。

分類と差別とは、同居とまでいかなくても、隣室同士の深い関係にありそうだ。
酒の甘辛の分類も、好き嫌いというある種の差別とかかわりをもっている。

分類はいわば区別することで、区別と差別は違うという異論はもちろん成り立ち、このほうが一般には正論だとは思う。

しかし、別々にするということには、何か差をもたせることがあるに違いない。
日に何度か飲む薬をあらかじめ分けておく人もいるが、このわけ方も時間差をつけるためだろう。
差に好ましくない感情があったときそれが差別だと、一応の説明はできても、別々に分けることに変わりはない。
分類には差別意識が包み込まれると言ったほうがよいのかもしれない。

差別と呼ぶのは、それによって状況に同情を求めるような、受身側の感情表現をことさら述べたてている場合が多いのではないかとも思う。

差別語などという熟語自体、あって欲しくないといいながら、なければその概念が成り立たない、珍妙皮肉な関係をこしらえているようにも思えるのである。
差別などというきつい言葉が生まれる前は、「分けへだてはいけません」と言われていた。祖母からときどき聞いたその言葉を思い出している。


無罪とはどういう意味か

2012年05月04日 | つぶやきの壺焼

ニュースもドラマも、犯罪に絡んだものがやたらに多い。
犯罪にかかわりがないと面白みが出ないとみてのことか。
面白がったり宣伝したりしているうちに、犯罪がないとメディアがなりたたなくなってしまうのではないか。
犯罪景気、犯罪立国、これではあまり気分がよくない。

犯罪の一歩手前で、犯罪が成立せずに、刑罰の対象にならないことさえも「犯」の名がついているのがあるという。
「不能犯」がそれで、普通なら犯罪になりそうな怪しげなことを考えはしたが、やってしまったことにはその性質上まったく狙った効果がなく、実現できなかった場合である。
紅茶に毒薬のつもりで砂糖を入れて出したようなときは「不能犯」だという。
だが、砂糖入りの紅茶を飲ませられた人が糖尿病患者だったらどうなのか。
元気を出させるように砂糖を入れてあげましたなどと言いつくろうのはどうなのか。

運良くというか失敗のおかげというか、影響が出ずに罰せられなくても、ひとに害を与えるつもりで行ったことの罪は罪、それを犯したことに変わりはない。
無罪判決は、刑罰に処しきれなかったという結論表現の意味でしかない場合もある。

気づかなかった、悪意はなかった、などと言っても、刑罰をまぬかれたから罪人ではないと威張りかえる人間は、政治・経済の主要な職に就かせないほうが賢明であると思う。


忘れ物見つけたときのあとしまつ

2012年05月03日 | つぶやきの壺焼

忘れ物には、不気味なものとそうでないものがある。
その見分け方には眼力が問われ、始末の仕方には品格があらわれる。

危険のもとが入っていそうな、怪しい忘れ物風のものはそれなりに、本当の忘れ物、落し物は持ち主に早く帰れるように、それぞれ始末の仕方がある。

宴会でご機嫌で帰ったらカメラがなかった。
そんな話を聞いたことがある。
よく考えてみたら、帰りに駅まで送ってもらった車の中ではないかと、2日後に思いついた。
電話をしてみると、やはりそうだったので、取りに行ったという。

さて、このカメラ、最上の始末の仕方はどうだったのか。
「だれかカメラ忘れて行ったぜ」「忘れたのに気が付きゃぁそのうち何か言ってくるよぅ」
そんな会話ではなかったか、どうなのか。


文字の呪力

2012年05月02日 | つぶやきの壺焼

「卍の魔力、巴の呪力」(泡坂妻夫・新潮社)という本がある。
紋章の話のようなのだが、魔力、呪力の字を見て、またありもしない奇想が浮かぶ。

呪には「ジュツ」という読み方はなかったか。
呪詛は「ジュッソ」と読まなかったか。
魔術は魔呪と書いたのではなかったか。

もとは「祝」と同義だったという「呪」の字。
口からいきなり足の生えた動物が、もう一つ口を捧げ持っている。
このけったいな文字には、なにか怪しい力がひそんでいそうだ。