・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

超能力に期待

2013年04月14日 | つぶやきの壺焼

いま原発で必要に迫られているのは、超能力浄水器でしょう。
福島では、毎日400トンの汚染水が増え続けています。
袋を重ねたような入れものが破れたといっては、ほかに移し変えていては、新所帯のぼんやり奥様と、やっていることは同じです。

福井大学に国際原子力工学研究所というところがありますが、いま何を研究しているのでしょうか。

ECには七つの原子力研究機関があります。
その中で、次の四つの機関は、いま何を研究しているのでしょうか。
◇防護・保安研究所 JRC-IPSC
   (Institute for the Protection and Security of the Citizen)
環境・保全研究所 JRC-IES
   (Institute for Environment and Sustainability)
健康・市民保護研究所 JRC-IHCP
   (Institute for Health and Consumer Protection)
未来技術研究所 JRC-IPTS
   (Institute for Prospective Technological Studies)

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬の気持

2013年04月13日 | つぶやきの壺焼

「乗馬の面白さは、馬が自身の気持で動いてくれたときに感じる」

こう言っていた人がいます。

馬もいろんな人と付き合わなければならないので大変ですが、馬が安心して自分の気持で動くようになれば、乗りこなしのもうひとつ先のところまで踏み込めたといえるのでしょう。

馬術の域の上は何と言うのでしょうか。

馬道、あ、どこかにそんな地名がありました。
http://www.ee-tokyo.com/taitouku/asakusa/street/umamichi-st/umamichi-st.html

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかりにくい放送

2013年04月12日 | つぶやきの壺焼

電車の車内放送は、昔は肉声だった。
「次はどこどこです」を、乗務員室からわざわざ出てきて車掌が告げる。
もちろん、連結車両のうち車掌が立っているハコの中にしか、その声は聞こえない。
だから、隣の車両に移ってまた同じように言う。
そのころは短い連結しかなかったから、端から端まで巧くいけば回りきれた。

車掌にはもう一つ仕事があった。乗り越しの社内精算、これは時間がかかる。
乗り越し客につかまれば時間切れになって、駅で停車すると急いで最後尾の車両まで戻る。
大変な作業の繰り返しだが、多くの車掌は手際よくそれをこなしていた。

いまはマイク放送で、近距離電車の場合に車内精算もしないから、客室内に車掌は入ってこない。
放送が聞こえてくると、その声からどんな顔をしているのか想像するのも面白い。


あるとき、「次は○○です」がとんでもない方向の駅名に聞こえた。
まあ、たまにはそういうこともあるか、とそれほど気にしなかったが、二駅過ぎてまた「次は××です」と聞き、またかと思う。
その××は降りる予定の駅名だったが、そこに着く直前に「××です」ときた。
驚いて立ち上がり、ホームの駅名看板を見るとやはり違う。
あわてて降りなくてよかった。

こちらの耳がおかしくなったのか、頭がおかしくなったのか、そのほうが気になり始め、次の放送から耳を澄まして聞き取るようにした。
そこからは違わずに目的の駅まで行って降りた。

なぜ違って聞こえたのか。
こんどはそのなぜのほうが想像の対象になる。
まず、くぐもったようなキレの悪い声が誤聴のもと、なぜ声がそうなるのか。

ちかごろカラオケ用にマイクにピタッと吸い付くようにして歌うと、声が外に漏れない仕掛けのものができたという。

マイクを近づけると、声を張り上げずにすむ。

省エネルギーが無条件で善とされると、なるべく力を入れずに声が届くようにと、マイクに口を近づける。
しかし、マイクがある距離を保ったときに音質が最高になるよう設計されていれば、極端な近接発声は、間違いなく音質破壊の原因になる。

このあたりのことを、実務研修に組み入れて体験させるようなカリキュラムを組んでもらえると、車内放送だけでなく、放送のプロでなければならないラジオのアナウンサーも、上ずった聞きづらい声で気象情報を叫ぶようなことも少なくなっていくのではないかと思う。

何ごとも、発信はモニタリングと組み合わせなければ、品質向上はできないのだ。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駅前という個性

2013年04月11日 | つぶやきの壺焼

駅前シリーズには、駅前旅館、駅前温泉、駅前女将、駅前番頭、駅前医院、駅前医院、駅前食堂、駅前飯店、駅前弁当、駅前茶釜、駅前学園、駅前大学、駅前団地、駅前医院、駅前音頭、駅前漫画、駅前開運、駅前弁天、駅前天神、駅前金融、駅前怪談、駅前競馬、駅前満願、駅前探検、駅前百年、駅前火山、駅前桟橋と、30に近い喜劇がある。

むかしの駅前は、そこから何か個性をつかみとって話の種にできる場所だった。

しかし、「駅前再開発」という大看板が掲げられるようになると、開発の専門家が全国を回り歩いてシゴトをしていくので、それまでにあった個性など相手にしていてはショーバイがはかどらない。
なにしろ個性というものは、人間のいちばん面倒な扱いにくい部分なのだから。

開発というのは名前だけで、頭の働きが画一化されたデザイナーが、どんどん事を運んでいけば、どうしても同じ風景が出来上がってしまう。

シンボルが一つ、大型ビル、広場風の通路、そこには駅前というイメージはなくなっている。
ふと気まぐれに降り立ったとき、何か惹かれるものがあってこそ駅前なのだが、ドコモ同じの風景には、その地にふさわしいシンボルが見つからないから、ユルキャラというこれまた画一的な動いてごまかす手を使うことになる。

再開発という名目で駅前の風景を均一改造してしまわない方法を考えないと、ユルキャラの寝ているときにはどこの駅に降りたのか、看板を確かめなければならないようになってしまうのではないか。

こうなったら、駅前再開発に類型模倣を禁止する法律でも作ってもらうしかないと思うのだがどうだろうか。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自動マージャンの功罪

2013年04月10日 | つぶやきの壺焼

自動車が「くるま」としか呼ばれなくなってからどれくらい経つでしょうか。

こういう回答を求めない疑問形の言いっぱなしは、話の切り出しに便利です。
しかし、世の中には、この形をFAQサイトに持ち込む風変わりな人もいます。
何でも思いついたことを「いつからですか、なぜですか、誰が言い出したのですか」とやっています。

車が引きも押しもせずに自分で走るのに驚いてつけられた「自動車」という呼び名も、自走があたりまえになれば、自動の文字は自動的に消えていきます。


マージャンのパイも、4人でときには指先を軽く触れ合いながら、一区切りごとにかき回していた時代が、懐かしみを覚えるほどになりました。
いまでは、ボタンを押せばデスクトップに大穴が開いて、パイを落とし込むと、鈍い摩擦音がしばらく聞こえた後、四辺に積み上げたパイが目の前の溝から上がってきます。

ぐずぐずもたもたとパイを積む人に、いらいらすることもなくなりました。
便利にはなりましたが、便利さは人間を不器用にします。
利き手の右左とは無関係に、左右の手と指の連帯感覚、力の入れ具合が、繰り返し動作のうちに、いつの間にか訓練されていたのですが、それが鈍くなってしまいました。
一方、手先で巧く自分の有利なようにパイを積み上げる「積み込み」もできなくなりました。

自動化の功罪は、いたるところに現れます。
扉の開け閉めどころか、歩くことさえ下手な人が増え、街中でも、みっともない歩き方をしている若い人をよく見かけるようになりました。

それがどうしたと自分に訊いてみても、答は自動では返ってきません。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころが読む

2013年04月09日 | つぶやきの壺焼

本の朗読を聞かせるラジオに番組があります。
プロのアナウンサーのものにも、さすがにという読み方と、なんだこれという読み方があります。

同じアナウンサーの朗読でも、読んでいるだけで、聴かせていないときもあります。
下手になることはありませんから、読むときに気分が乗っていなかったか、気合が入っていなかったかなのでしょう。

本の朗読は、ニュースと違って口で読むものではありません。
報せるためでなく聴かせるためには、こころで読まなければなりません。
放送のプロがお役目気分になると、こころがおろそかになります。

声だけしか伝わらないラジオは、こわいシステムです。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むかしの橋はどこに行った

2013年04月08日 | つぶやきの壺焼

主要道路の交差点に、はっきり名前がつくようになってから、道を覚えやすくなりました。
「そこを過ぎていくつめの信号」などと言っても、数え損なうこともあり、次に行ったとき信号が増えていることもあって、あてにはなりません。

交差点の名には無骨なのもあれば、しゃれた名前もあります。
「汀橋」という名の交差点を通りかかって、「みぎわばし」か、いい名前だと思いましたが、通り過ぎるとき、看板の下側に「Nagisa・・・」という字が見えました。

汀には、なぎさという読みもあったのでした。
なぎさは「渚」、この字かと思っていたのですが。
MS-IMEでは、「なぎさ」で渚も汀も登録されていますが、藤堂漢和では渚は「なぎさ」、汀は「みぎわ」と区別されています。


それはともかく、見えない橋はどこにあったのだろうと、後で地図を見ましたが汀橋らしいものはありません。
この名のついているバス停は見つかりました。
その交差点から山側へ道をたどっていくと、地図に川の書き込まれたところがあります。
むかしの川が道になっているようです。
狭い町に広い道をこしらえるため、川にふたがかぶされました。
場所によってはふたもせずに道にしてしまったところもあります。

川が道になれば、橋のところはそこで交差点になります。
探してもわからないはず、「なぎさ橋」は、その場所で橋から交差点に名前が引き継がれたのでした。

そのときの都合次第で橋も交差点も、なぎさもみぎわも、人間の知恵はまこと融通無碍にはたらきます。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掛け算で飛びぬけ

2013年04月07日 | つぶやきの壺焼

抜きん出た仕事をしたければ、1万人に1人の仕事を見つけなさいという話をラジオで聞きました。
誰もがすることと逆のことなら、分け前も増えるというのです。

1万人に1人を、はじめから難しいと思ってはだめで、ちょっと計算をしてご覧なさいと、その先生は言っておられました。
まず100人に1人の存在となること、これなら見つけられるでしょう、それからまた別のことで100人に1人の存在となる、掛け合わせれば1万人に1人、という計算です。

世の中計算どおりには、などというせりふがすぐ頭に浮かぶ人は、常に皆と同じ方を向いているということでしょう。

 

掛算にもお国柄があって、インド式は桁の多い数でも簡単にやってのけると言われています。
理屈はすぐわかっても、いったんばらばら、また寄せるという作業が瞬時にできなければ、そう簡単ではありません。
ボタンを押さなければ計算ができなくなってしまってからでは、多分無理でしょう。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガラピーとスマピー

2013年04月06日 | つぶやきの壺焼

スマホを見つめるスマピーは、ガラケーを見るガラピーよりも、総じて姿勢が悪い。
ガラケーのふたを開けたときのやや反った感じを受けて、見るほうの背筋も伸びるのだろうか。

スマホはモノの姿態がずんぐりしているので、見つめているうちに背も丸まってくるのか、車内で見かけるスマピーは大体姿勢が悪い。
とくに混んだ電車の優先席に座っているスマピーは、ひどいのになると頭が背中より下に行っている。

電子機器には、プログラム化されていない姿勢制御の機能もそなわっているらしい。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガラケーを持つガラピー

2013年04月05日 | つぶやきの壺焼

言葉を縮める流行で、何を指すのかすぐにはわからない略称がどんどん増えてきます。
略称の意味がわからなければ、わからなさはべき乗で増していきます。

ガラケーとは、ガラパゴス・ケータイの略で、ガラパゴス・ケータイとは、ガラパゴス化した日本の携帯電話、ではガラパゴス化とはと、横丁のご隠居とハチクマさんの問答のようになっていきます。

ガラパゴス諸島という、南米の上あごのあたりから太平洋の赤道直下にプッと噴出されたようなエクアドルの離島があります。
そこには独自の生態系があって、鳥も獣も爬虫類も、そこにしかいない固有種が多いそうです。

技術やサービスが、日本市場で独自に進化し、世界標準から掛け離れてしまう現象を、ガラパゴス化と呼び、世界標準とは異なる進化をした日本の携帯電話が、誰が名づけたか、ガラケーと呼ばれています。

スマホ派は、ガラケーを時代遅れと見ますが、パタンとたためばかさばらず、しかも多機能、まだまだ愛用者は大勢います。

先日電車で前に座っていたお兄さんが、ガラケーを取り出してWebを見始めました。
指をほとんど動かさないのでメールでもゲームでもなかろうと、裏側から見当をつけましたが、そこで面白い発見をしました。

お兄さんの顔の中心線が、ガラケーの中心線といつも同じ傾きにあるのです。
お兄さんが首を左に傾けると、ガラケーも左に同じ角度で傾きます。
持っている指を動かして何か操作をすると、ガラケーの傾きが変わり、それに合わせてお兄さんの首も動きます。
どちらが先に動くのか、それは鶏卵問答に似ています。

見ていてふと、ガラケーを愛用する人々にも名前をつけたくなりました。
ガラパゴスピープル、ガラピー、時代遅れではなく、独自に進化する人です。

ビーバ ガラピー!

にほんブログ村

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スターの伝説

2013年04月04日 | つぶやきの壺焼

ダルビッシュ、おめでとう。
残念だったと言うのはやめよう。

9回に9番バッターにトンネルサービス。
パーフェクト目前で一万回に一度のチャンス、万載一遇をあっさり進呈。

やろうと思ってもできないことを、やってのけるのが大スター。
パーフェクトだけでは、記録は残っても伝説は残らない。

この話は、大リーグの伝説に永遠に残るに違いない。
とにかく、おめでとう。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

順法万般

2013年04月03日 | つぶやきの壺焼

悪事の果ての言い草に「法律のどこに決めてある」という幼児語がある。
幼児語のうちはまだ可愛いところが残っているが、法律に違反していなければと、人間として許されないことをしても威張りかえっている様は苦々しい。
さらに非道いのは、法律に違反していると判決の下されたことを、部分のことは小事で、大勢にかかわることではないと、風化を期待しているかのように放置されてきたことである。
違法の絡み合いは、雑草の根のように、年月を経るほどに手がつけにくくなる。

他国からやってきた、臨時雇いの片付け屋のような人が、これまた臨時雇いの筆記人に書かせた法文を、半世紀以上もそのまま国の法典の根幹として、だいじそうに潅水を続けてきた。
国の命運を左右する権力を握った人を頂点に置く組織の構成が、最高とされる法に違反していて、しかも組織の人員選定方法が無効であったと判定された。
こういう大椿事が起きても、人々は平然としている。

その一方で、何かにつけ、わが国は法治国家であるなどと、法にかなう道筋を探って歩く人は絶えない。
法治国家には、自分のすることを、ある権威のもとに決めて貰いたがる人が多い。
自分のすることであっても、どう決めればよいかを論ずることは嫌う。

国事を司る人々がその職を失っては一大事という、論拠のない不安の空気を漂わせることによって、違憲と判定された制度もずるずると放置されてきた。
自分が職を失うのは大事件だが、他人が他人の職を失わせるのは事件とは見ない。
まことに柔軟性に富んだ感情の持ち方である。

「生活がかかっている」という、効用あらたかなわかりやすい言葉が、実はいちばん始末の悪い言葉なのであった。
何しろこの言葉は、国の最高の法によって護られているのだから。

日本国憲法 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新歌舞伎座誕生

2013年04月02日 | つぶやきの壺焼

新装歌舞伎座のこけら落としが今日、生憎の雨だがまず目出度い。

地下鉄東銀座から傘なしで行ける。我が家からは乗り換えなしでOK。
来ないかもしれないいつの日かを思いやりながら、雨の音を聴いている。

 

 

 
MS-IMEには、「柿落とし」に似た字が登録されていて、私のテキストエディターでは「?落とし」になってしまう。
柿に似てはいるが違う文字、これは何だとあらためて漢和辞典を見ると、こけらの正字は、木偏に、朮の点をはずした旁だった。
朮は「おけら」という草の名、「もちあわ」という粟の一種でもある。
おけらとこけらは音が似ているが関係は薄いだろう。

昔の舞台の幕は引くのでなく下に落とした、柿という字を書くのは、柿をはたき落とすように幕を落としたからなどという、もっともらしい創り解説をどこかで聞いた記憶もかすかにある。

おかげで、頭から少しこけらの落ちた思いがする。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

急に変わる店の様子

2013年04月01日 | つぶやきの壺焼

いつも通る道で、店の前でおやと思うことがあります。
一時休業か、とよく見るとそうではなく、開いていた扉が閉まっているだけなのです。

ディスプレイテーブルとでも呼ぶのでしょうか、店の前の平棚に、道路へこぼれ落ちるのではないかと思うほど積み上げてあった袋菓子が、扉の内側に入ってしまっています。

店の中の商品配列も、こざっぱりした感じに変わっています。
ああ、模様替えしたな、ちょっと入りにくくなったのではないかと、あまり付き合いのない店でも気がかりです。

幾日か経つと、また袋菓子の棚が店の前に出てきました。
やはりぱっと買う人が減ってしまったのでしょう。
通りすがりにふと立ち止まって買うような菓子は、あれでは売れません。

コンサルタント会社に勧められて、お任せ改装をしてはみたものの、巧くいかなかったようです。
生身の人が通る歩道に面した店のデザインは、パソコンの画面で考え、これでいきましょうなどと言ってもピタッときません。

商業企画にせよ、製品開発企画にせよ、何でもマル投げで自分は何も考えない、そんなやり方が現代的なのだと、思い思わせての結果が、知恵の総和をずるずると低下させているのです。
相談相手には必要でも、考えることには専門知識はいりません。

何でもお任せの前に、とにかく考えて見ましょう。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする