南無煩悩大菩薩

今日是好日也

それ。

2009-10-15 | 有屋無屋の遍路。

それ自体は、良いことでも悪いことでもなく、単にそれでしかないが、人はそれに何らかの意味を見出してしまいたい生き物である。

こと商売に関して言えば、時と場合と状況や、計画、行動、検討、実施において、それぞれにおこる、「それ」は、そこにあるフローや使い方、いわゆるその機会によって良いことや悪いこととしての、意味や価値を産みだす要因となる。

根本的な錯誤に陥らない為に大事なことは、単に「それ」であるものに、「良い」という評価を下したときには「悪い」とはどういうことか、「悪い」評価を下したときに、「良い」とはどういうことかと、自分の思いを「懐疑的」に見てみることだ。

やはりそれは単にそれである。と言う結論が導き出されることもきっと多いのではないだろうか。



忽然と現れた鳥の群れに驚かされた時、それを不吉な前兆とみるか、吉兆あめあられと見るかは、個人の自由であるが、それ自体は、単にそれでしかない。

鳥もそりゃとびまっしゃろボヨヨーン。である。

良いことも悪いことも、チャンスもピンチもそうそう満ち満ちているものではない。コツコツとやることで右往左往しなくてもよい「それ」が、わりあい人生なんだと思えるようになってきた。

歳は食ってみるものである。

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人人人。

2009-10-14 | つれづれの風景。

人 が連なっている。

なんらかの意味のあるメッセージにも思える。

米藁つくりの作業の工程から出来上がったのであろうが、配置の妙である。

幾何学的な紋様をベースに人人人の藁の波がひとくくりにくくれない作業の粋を感じさせる。

単純な作業の中にもこうして人の手の入った暖かさを残してくれたことが、妙に嬉しい。

作業者の、造り手の、提供者の、サービスを常に互いに受けつつ僕らは生活をしている。

同じ酒でも、造る人や店で味が違うように、

どうせするなら、すこしでも自分の思いや気持の入った仕事ぶりを僕らもしたいものだ。

米を採った後の藁でつくられた人たちは、互いに手を繋いでいるようだった。

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流雲爽快。

2009-10-13 | 酔唄抄。

酒でなまった体から汗を搾り出そうと、自転車で走りました。

京都の桂川を周って、淀川に出て下り、爽快な風を受け、爽快な風景に出会いました。

流れる雲が、空にも川面にも。


この頃の、小便の切れが悪いのも、資金繰りのこともやなんやかんや忘れたひととき。


木綿のかたい田舎豆腐と、ちりめんじゃこと、みょうがと、かいわれ大根を買って帰り、キンと冷えたビールで、ゴクゴクやる美味さったらありませんでした。

流雲爽快の景色を想い、ここにある充足を思う至極のそのひととき。

この季節は、こんなによかったんだと、改めておもった休日でした。

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本能。

2009-10-10 | 有屋無屋の遍路。

求愛のダンスか、骨肉の争いか。

どちらにしても、彼らに妥協や打算と言った概念は無い。

衝動とさえいえないような、動機という存在もないのかもしれない。

あるがまま に自然(じねん)のままに、生まれ動き滅び行く。

人の本能は彼らとは違う。

健康的な人間は、本能と呼べるようなもののみによって動くことは、生後初期以降には、ほとんどみられなくなる。

すべての行動は、意志と呼べるようなものでコントロールされる。

強い意志が存在するほど、精神的に参ったり、虚栄を張ったり、無謀なことをしたりするのはこのためだ。

本能のままに生きているような人はいない。

そういうことだから、幾重にも思考は重なり、これがこの人だ、という境目も無い。

ありはありであるが、人はこれが人だと言うレベルにとどまらず進化する。

私は実際どのような本能を備えているのかさえ定かではない。

ある種の障害を受けた人間は、自己と他人の区別がつかず、相手に思いやりをみせることすらないという。

蟻は自他という区別はついているだろうか。

本能が表に出ることを、私たちはもしかしたら必死で押さえつける方向に進化してきたのかもしれない。

求愛のダンスか、骨肉のあらそいか。

強い衝動や動機や意志をコントロールし、何が起こっても、そのまんまあるがままで幸せに生きるということに挑戦する能力を有しているのは、たぶん人間だけであろう。

蟻にヒントは、ありやなしや。
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蒲と柳。

2009-10-09 | つれづれの風景。

秋風に吹き抜けられてやなぎがゆれるがまもゆれる。

気象用語では、暖かい空気と寒い空気がぶつかるところを前線という。

前線は眼に見えないから、そこにあるともないともはいえないが、前線のあるところは不安定で雨雲を呼ぶ。

見えないものを頼りに思惑をめぐらすことを、予報という。

気象予報士は天気について、気性予報は、気分について。

冷たい空気と暖かい空気の前線を読む。


なんでもないようなことが、同じに思えたりする。

立ち上がる蒲と、垂れ下がる柳が互いにあき風を受けている。

私の予報は精度何パーセントくらいだろうか。

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お~い。

2009-10-08 | 有屋無屋の遍路。

お茶。

飯。

風呂。

寝る。


お~い。


なんや。反応なしか。

いくら呼んでもあなたは遠い波の彼方へいったきり、か。

呼びかけてみてもひとり。

さて、内省と内観の時。

お~い。わたし。
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なんですかぁ。

2009-10-07 | 有屋無屋の遍路。

えらいすんませんが。耳がちくと遠いものでして。

金と女性のこと以外でしたら、少しは聞こえますがの。

あ。それと高音で派手なガミガミキイキイと甲高く声高のはあきません。

何ゆうてるやらいっさいわからんのです。

落着いた声は割合聞き取れますけど。

あ。もうひとつ低くささやくようなあるやないやらわからん話もあきません。

ナンや人はえてかてつんぼ、いいますけど本当に聞こえんのです。これが。


わしかてだいじなもん背負うてまして。えらいすんません。

乗られてるだけに乗れんのです。

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信頼のキャリア。

2009-10-06 | 有屋無屋の遍路。

ジョージ・ワシントンは将校として失敗の連続であったし、リンカーンは事業でも政治でも何度も辛酸を舐め、ルーズベルトは弱虫で目立たない子供で小児麻痺を患い、政治家としては小物とみられていたトルーマンは大学にも行かず、経営者としても失敗を重ねていた。

彼らをはじめ、合衆国の優れた大統領の多くは、個人的な悲劇や失敗に苦しむ中で、共感の力を習得しています。

敗北しそこから立ち直ることで、魂に新たな人格が生まれ、傲慢さが影を潜め、真の自信が生まれました。

ですから、何かの問題が取り沙汰されると、みんなから信頼されるのです。

-ジョン・シアーズ-



失敗、辛酸、病患、弱虫、小物、敗北、それらを受け入れ、そこから立ち直ることで、共感の力を習得し、信頼の為の、志魂、謙虚、柔和、自信が生まれるのでありましょう。


我に七難八苦与えたまえ。
山中鹿之助が神仏にそう願ったと言うのも、そのことを理解していたからではないかと思います。

誰にでも、逃げなければ、このキャリアを重ねられるように思えるのでございます。

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目的と手段。

2009-10-05 | 有屋無屋の遍路。

大事なことは、手段(道具的行動)を目的にしてはいけないということだろう。

目的があってこその手段である。

手段の為の手段を考えるような状態であれば、もうその目的は消え失せてしまっている。

目的が消えれば、手段は既に意味を為さずその存続は不毛と成る。

手段そのものは限定的だが、目的のために選べる手段は幾らでもありうるのである。

目的と手段の区別がなくなれば、それはある種のストレスと言う形で表出するだろう。

学習されなければならないことは、目標=傾注(対処)行動である。



手振れをわざと起こすことによって、ある意味を持ちそうな造形を創造したいとするときに、ふと思う。

技術的なアプローチをどうするかではなく、私はなぜそんなものをいっしょうけんめい創造してみたいとおもっているのかと。

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交流の風景。

2009-10-03 | 有屋無屋の遍路。

一番年長のお姉ちゃんが、先頭を歩く。

間に歳の大小を交互に挟んで、後方にはまた大きいお兄ちゃんがついている。

小さきものは、頼り任せることで安心を得る。

大きしものは、導き教えることで自信を得る。

交流とは、順番に行き交うことだ。

その交流の記憶が、やがて社会の基盤となる。

最後尾の先生は、静かに見守った後、自転車で帰るのだ。


股を広げて野良から帰るおっちゃんとすれ違う。

こんにちはー。

お。しんまい持っていっといたど。

はい。ありがとうございます。

やったぁ。おっちゃんありがとう。


おっちゃんと先生は、すれちがいざま 静かに 笑み 会釈をする。

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見返りの楓。

2009-10-01 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

何気ない風景が、視界の端をよぎる。

えっ! そう思い振りかえりみれば、紫の煙幕に楓が映えていた。

脈絡は無いけれど、高砂(たかさご)が浮かんだ。


高砂や この浦舟に帆を上げて 月もろともに出で潮の・・・。

高砂の松と住吉の松は相性の松、・・波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉に着きにけり、・・離れていても夫婦である。

婚儀の定番は、やはりその成り立ち方からして秀逸の風景を連想させる。


紫の背景に色づき始めの楓も、相性がいい。

相性のいいところを大事にすれば、高砂や なのである。


そういえば近々、私は何度も、この唄を思い出すはめ、もとい、人生を寿ぎ慶びに浸る機会があるのであった。

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