沖縄 ペンタックスK5の旅 その1
また、沖縄へ行くことになりました。今後もこの旅がどんどん増えそうな予感がします。ファルマフロンティアはひょんなことから沖縄出張所を作ることになり、今年は沖縄での研究活動や営業活動にテコ入れをしているのです。沖縄で事業を立ち上げようとおもうと、沖縄とは何かを知らねばなりません。今日は帰る日なのですが、台風が接近して朝は風も雨も激しい状態でした。飛行機は17時、それまでにはなんとか天候が良くなるでしょうが、それまで行くところがない。嵐の中、国際通りもかったるいし、沖縄博物館・美術館にいって、ぼんやりしていることにしました。ここの資料館には沖縄の本や定期刊行物がおいてあって、とても面白い。休日は駐車場もタダ、資料館はいつもタダ。
港川原人の本と壺屋焼、琉球古典焼の本をよむ。琉球古典焼とは大正時代に、黒田という陶器商が企画した、輸出用の焼き物で、最近注目されはじめているそうです。当方にとって、沖縄の焼き物は、何とも言えない根源的魅力を感じるのではあるが、 なにか突き抜けない。 その本には面白いことがかいてありました。濱田庄治や河合寛治朗はいずれも一時、沖縄で焼き物の活動をしているのですが、彼らを民芸運動に引きづり込んだ張本人の、柳宗悦は彼らが言っているような魅力を沖縄に焼き物に見いだせないとクソミソに言っていたそうです。琉球古典焼に対する批判で、柳ショックというのだそうです。
ネットで古典焼について書いてありました。<「古典焼」とは、大正時代末期に寄留商人が県外への移出用として壺屋の陶工たちに作らせたのが始まり。エジプト文様など、エキゾチックな図案や技法が特徴的だ。一方で、壺屋の伝統に基づかない装飾過多な傾向が1938年に来県した民芸運動家の柳宗悦らから厳しく批判された歴史がある。立住さんは「作品や人生に対して厳格な祖父だった」と壺中さんを回想。32年に沖縄から奈良県に帰った壺中さんは、その後も精力的に作品を作るが「帰ってきた当初の作品は古典焼のにおいがするが、柳宗悦氏らの批判後は、すべて大和風の作品になった。ある種の決別をしたのだと思う」と壺中さんの作品を紹介しながら変遷について語った。> このネットの記述でなんとなくわかりました。壺屋焼における、古典焼の時代に柳が来て、クソミソにいって、濱田や河合を連れてきて、壺屋を指導したのでしょう。その影響下で人間国宝の、金城次郎だの新垣栄三郎だのが生まれした。結局 柳宗悦が壺屋焼を東京や京阪神に紹介し、壺屋焼の発展に貢献したのです。
フランス国立人類博物館所蔵の琉球古典焼
金城次郎(キンジョウジロウ)大丸壺
金城次郎 双魚文皿
新垣栄三郎 赤絵花文花瓶
琉球古典焼は、つぶれかけてほそぼそと存続していた壺屋の焼き物に、本土、奈良の黒田理平ら黒田一族が作り上げたものなのです。当方もいいものもあると認めながら、なにか、本土の感覚で、むりやり沖縄風を作り上げた焼き物にみえるのです。魚を見ればわかります。魚を知らない人が、沖縄は海だ魚だといって、魚の模様を書き込んでいるようにみえるのです。センスは認めるものの魚が漫画なのです。
黒田に関してネットにつぎのような記述がありました。<今の壺屋焼の原点とも言うべき琉球古典焼は、奈良県に住んでいた黒田一族によってその基礎が作り上げられた。壺屋焼は、琉球王朝の崩壊により明治時代(廃藩置県)以後壊滅的な打撃を受けた。長い低迷期を経て大正時代に黒田理平庵と出会った。黒田理平庵は、誰よりも早く壺屋焼の魅力と可能性を感じ取りこれを機にこれまでになかった新ブランド「琉球古典焼」が誕生させた。琉球古典焼は、新垣栄徳窯の力と壺屋焼の技をベースに新しい発想のデザインをどんどん取り入れていった。これが功を奏して琉球古典焼は、ヤマトにおいて受けに受け沖縄ブランドとしての地位を確固たるものにした。しかし、この琉球古典焼は、残念なことに20年たらずで幕を閉じてしまった。それ以来、1980年過ぎまで一部の人たちを除いて琉球古典焼の存在を知る人はいなかった。1990年代に入り琉球古典焼を研究するグループが現れその全貌が少しずつではあるが解明され始めた。その結果、琉球古典焼のコレクターが日本全国に生まれ今に至っている。>
おもしろいですね、琉球古典焼は短い間の焼き物なので、コレクターの興味をひいたのだが、柳はそれをクソミソにこきおろして、濱田や河合を送り込んで、壺屋焼を再生させた。これで、海外向け、奇妙な作風が、和風をベースとした沖縄独特の作風となった。こういういきさつのようである。すごい勉強をしてしまいました。今度は、このバックグラウンドをしったうえで、壺屋焼を見に行きましょう。
たまたま、<沖縄と岡本太郎>という展覧会が開催されていました。岡本太郎は、日本の民族文化を訪ねて全国をニコンのカメラを片手に旅をしたそうです。彼の写真はなかなかいいのです。さすがに画家の目で撮った写真は、当方の考えていることかなり、一致しています。彼は沖縄に関して文をかいており、本も出版されています。彼の写真集や、日本文化を書いた本は資料室にありました(むろんかれの展覧会にもいっぱい展示されていたのですが)。 沖縄は石垣と竹細工以外に見るべきものは無いといっているのです。紅型もいいけれど、いい焼き物もあるにはあるけれど、本土にもちこむほどのインパクトは無い。当方も同意見なのです。沖縄には魅力的ななにものかがあるのですが、具体的には何もないのです。岡本太郎は、何もないことが沖縄の魅力であると語っています。御獄(ウタキ)は何もないのに、ここは神聖な場所だと言って御獄にしてしまい、とてつもない精神を注ぎ込む。これをとてつもなく続ける人たちなのです。
岡本太郎 赤のイコン
岡本太郎の沖縄文化論という本の一部があちこちに展示してある。以下、沖縄文化論から:
「さらに私は首里で尚家代々の墓である有名な霊御殿(たまうどん)とか、博物館に集められた首里城の石造芸術の破片、旧王家の遺品、生活用具などを見たのだが、それらもすぐれた技術と、独自のよさをもっている。分厚でいながら、何か素朴で、重たくない。やわらかく流れている。その明るい流動感は、日本の芸術にもないし、また大陸にもないものだ。やはり沖縄の風土的なものなのだろう。日本の中世以降の芸術の重さ、アカデミックな形式の固さにがっかりしている私は、むしろこの方がいいと思う」と言う。ここで「さらに」とは、沖縄のとっておきの文化財である英祖王の石棺などを見た後でという意味である。およそこんな風にして彼は沖縄の代表的な芸術遺産を見てまわり、その日本にも大陸にもない独自の風を、重たくなく、やわらかく流れる「明るい流動感」として捉えているのである。この捉え方はとても素晴らしいものだと思うのだが、しかし問題はその先である。「しかしそれらの個性、よさを感じとりながらも、何かもの足りない。つまり、こいつはどうしても沖縄だけにしかない、というような凄みがないのだ」と。それらは「いわば借りものであって、沖縄全体がそこからつき出てくるというものでは、残念ながらない。クリエートされた気配、その息吹が感じられない」ということである。「この国の貴族文化のひ弱さ、層の薄さ」を見てしまうのである。というのも、「文化の輸入は、みがかれたセンスと経済力があれば民衆生活とかかわりなくできる」ものだからである。「生活の地底から生まれ育ったものでない」輸入文化の宿命的なひ弱さを見るのである。そのような「輸入文化は、リファインされ体裁よくまとまってはいても何となく希薄なのである」、琉球列島には、そのどん尻まで行っても「何もない」のである。「この何もないところに、実は沖縄文化論のポイントがあるのではないか」色々な美が。まさに生活の地底から生まれ育ったさまざまな美が。たとえば島中にめぐらされている石垣の美、道を歩いているひとたちのハダシの美、着のみ着のままでありながら美しい人々の着衣、深く刻みこまれた皺だらけの顔の美しさ、また実用されているクバ笠や籠の美しさ、舟の形の美、等々。それら美しいものたちには「特定の作者、だれが創った、はない。島全体が、歴史が結晶して、形づくった」のである。つまり、ここにあるのはこの土地での生活のぎりぎりの必要性なのであり、このぎりぎりの必要性こそが存在するものたちの美を生んでいる、生活そのものとして、その流れる瞬間瞬間にしかないもの、生命の感動のなまなましく打ち震える時間を「根源的な時間」- - - -。
沖縄には、そういう何か、自然に生まれた土着の文化が熟成しながら、何かを求めて作り上げてゆく、その本来の芸術性が、バラバラに四散し、実体の乏しい、なまぬるい、あるような、ないような世界をつくりあげているのです。
当方、昔は、沖縄は海しか興味ありませんでした。それに加えて、陸上の何かが当方の心地よさを引きずり出して、とにかく、自分の祖先と沖縄をダブらせていたのです。私の祖先は南方の人が沖縄を経由して房総半島に流れ着いたのだ。私の顔はどう見たって、朝鮮系の顔なのに、ガンとして南方系と信じているのです。
最近はもうダイビングという年でもないので、陸上の沖縄になにがあるのか追求しようとしているうちに、沖縄の文化はすぐ裏に突き抜けてしまう希薄なもののように思えてきたのです。これから先どうしたらいいのだろうと思いながら、那覇空港から飛び立ちました。久しぶりの窓際の席で、雲のパターンを見ながら思ったのです。
ペンタックスK5 ペンタックス18-135mm
沖縄の陸上で何かを探すなんて、なんでそんな馬鹿なことを考えたのだろう、沖縄は今も昔も海の中に意味がある。海の中から陸上を見なければ意味ないのだ。勘違いもいいところだ。海の中で魚が笑い、海の上空をぴろっと、竜が飛ぶ。千と千尋の神隠しに出てきた竜さんが、ぴろっと沖縄の海の上を飛んでいるような気がするのです。
40年前に、久米島で、糸満のおじさんと一緒に、糸満の舟で沖にでて、サンゴ礁で潜った海の中の風景が原点で、沖縄の三味線も、琉球舞踊も、斎場の祈りも、サンゴの釉(ウワグスリ)の焼き物も、泡盛も、海ブドウも、グルクンのから揚げも、シャコガイの刺身も、フエフキタイの味噌汁も、島ラッキョウの天ぷらも、ジーマミトウフも、一番うまいのはアカマチのお刺身だが、それらはみんな海の中からわきあがった物なのだ。
芸術とは、美しいもの、価値のあるものを追いかける人間たちが、自然と共に暮らすうちに、自然の中から拾い出した美しい断片が、寄り集まっていつのまにか独立した塊となって、いつまでも輝き続ける物なのだ。沖縄には海からわきあがった断片があちこちに転がっている。まだ十分に塊となっていないのだが、そんなことはどうでもいい、大事なのは海の中にその原点があることだ。すべての人々の原点がそこにあるのだ。だから、沖縄は全ての人のふるさとであり、原風景なのだ。わきあがって独立した塊などいらないのかもしれない。原点のなかでポクンポクンとわきあがる赤ん坊の美で十分で、大人になってほしくないのかもしれない。かくて、沖縄ではいつも竜がピロピロと飛び、魚がゲラゲラ笑っているである。
千と千尋の神隠しの竜、ハク。
沖縄の竜は、ハクよりちょっとひょうきんかもしれません。どっちでもいいので、ようはしれっと、飛んでいるのです。
私は、沖縄の陸上で、なんの写真を撮ろうというのか? 満足する物なぞあるわけない。海の中を撮るしかない、あるいは海の中から赤ん坊が生まれ出る様を撮るしかない。かくて、私は老骨に鞭打って、ふたたび海に潜らねばならないのか??????
海には、こんなおなかの出た体では合いません。しなやかな体に戻さねば。40年前の久米島の原風景に融合する日を目指して。
さて、皆さんには、わけわからない話は置いておいて、ペンタックスK5の話をしましょう。いくら待ってもK5の値段が下がらないので、K5と18-135mmズームセットを買ってしまいました。マップカメラと、新品格安ショップの価格差が5000円もないので新品を買うことにしました。このセットは海外旅行の為に買ったのです。 なるべく重量が減らすためです。買ってみると、ニコン、キャノン、ソニーのフルサイズを買おうか悩んでいたのがウソのように消えてしまいました。K5と18-135mmがあれば、どんな時でもとにかく写真が撮れるという安心感が、高くて重たいフルサイズを吹っ飛ばしてしまったのです。旅行の時、持てる機材というのは限られているので、どの機材を選択するかはとても迷います。写真を楽しむには、とにかくどんな時でも撮れるということは必要ですが、なんといってもレンズです。レンズが楽しさを決めるのです。カメラボディーはその邪魔をしなければそれでいい。ある限られた重量の中で、いくつのレンズを持ってゆけるかが最も重要です。フルサイズになると新たなレンズを用意しなければならない上に、重量が大変です。十分に発達したボディー、レンズ、付属品があれば、APS-Cでアマチュア撮影には十分楽しめるのではないでしょうか。フルサイズは古いレンズを古い感覚で使う為に存在していると言えます。こう考えるようになったのはK5を買ってからです。使う前からそんな気になったところが、なんとも不思議です。
今、むしろ私の次なるターゲットはフルサイズでなくて、新発売ペンタックスQで、ポケットサイズのミラーレス一眼レフです。いつもポケットに入っているこのサブカメラとしての機動性をかいたい。ミラーレス一眼で最も重要なのは電子ビューファインダーの性能と全体重量です。液晶画面で撮影なぞ、考えられません。構図は決められないし、ピントも合わせられない。半分目をつぶって撮影しているようなものです。ファインダーのために一眼レフを買っているのですから、現在のミラーレス一眼はみな×です。ペンタックスQの電子ビューファインダーの情報だけが待ち遠しい。
ところで、ショックなニュースが飛び込んできました。ペンタックスがリコーに買収されたというニュースです。この買収がいい方向に向かってくれるといいのですが。
さて、沖縄のペンタックスK5の旅です。今回の仕事は大変なことが多いので、撮影に回す精神的、時間的余裕がほとんどありません。最低限の機材を考えて、K5とK7、レンズはシグマ8-16mm超広角ズームと18-135mmの高倍率ズームの2本のみ。これ以上の望遠側は重たいので捨てました。レンズにたよる、面白い写真は超広角ズームで、18-135mmは広い対応力で、とにかく何でも撮れるという位置づけ。K5一本でもよかったのですが、K7と比較するという意味で2本持ちました。3kg位に収まったのではないかと思います。
単焦点レンズオンリーで楽しんできた当方がズーム2本を選択するとは、珍しい風の吹き回しです。上高地で味を占めたシグマ8-16mmをもっと使ってみたいという気持ちの表れでしょう。
沖縄の玉泉洞という鍾乳洞があることは知っていたのですが、沖縄に来て鍾乳洞を見ることもないだろうと放っていました。ところが玉泉洞は沖縄の人気観光スポットNo1であることを知ったのと、台風の接近で雨風が強いことが予想されたので玉泉洞に行ってみることにしました。入り口近くまで行ったときに、ものすごい豪雨となったので、あきらめて帰ろうと思ったのですが、沖縄の雨は待てば止む、天気予報はあてにするなという、沖縄在住の人の言葉を思い出して、しばらく様子をみました。案の定小ぶりとなったので、玉泉洞に入ってみました。高感度撮影に強くなったというのがふれこみですので、ペンタックスK5を試すにはちょうどいい所です。高感度撮影になれていなので、グリーンモード(バカチョンモード)で撮影しました。レンズはシグマ8-16mmの超広角ズームです。広角であることも手伝って、パカパカ、なんの苦も無く撮影。スローシャッターで手振れするということもなく、成功率100%で撮影できました。ノイズは、雑駁にいえば問題ないのではないでしょうか。細かく見れば出る時は出るので、これはしょうがないでしょう。
K5はすばらしいといいたいのですが、期待通りということ以上の感激は今のところありません。暗い所を撮ったって、撮れたというだけで、暗い所を面白い写真にするにはいまのところアイデアがありません。写真は明るい所で撮るものでしょという固定概念の中にいるわけです。
ペンタックスK5、シグマ8-16mm
ペンタックスK5、シグマ8-16mm
また、沖縄へ行くことになりました。今後もこの旅がどんどん増えそうな予感がします。ファルマフロンティアはひょんなことから沖縄出張所を作ることになり、今年は沖縄での研究活動や営業活動にテコ入れをしているのです。沖縄で事業を立ち上げようとおもうと、沖縄とは何かを知らねばなりません。今日は帰る日なのですが、台風が接近して朝は風も雨も激しい状態でした。飛行機は17時、それまでにはなんとか天候が良くなるでしょうが、それまで行くところがない。嵐の中、国際通りもかったるいし、沖縄博物館・美術館にいって、ぼんやりしていることにしました。ここの資料館には沖縄の本や定期刊行物がおいてあって、とても面白い。休日は駐車場もタダ、資料館はいつもタダ。
港川原人の本と壺屋焼、琉球古典焼の本をよむ。琉球古典焼とは大正時代に、黒田という陶器商が企画した、輸出用の焼き物で、最近注目されはじめているそうです。当方にとって、沖縄の焼き物は、何とも言えない根源的魅力を感じるのではあるが、 なにか突き抜けない。 その本には面白いことがかいてありました。濱田庄治や河合寛治朗はいずれも一時、沖縄で焼き物の活動をしているのですが、彼らを民芸運動に引きづり込んだ張本人の、柳宗悦は彼らが言っているような魅力を沖縄に焼き物に見いだせないとクソミソに言っていたそうです。琉球古典焼に対する批判で、柳ショックというのだそうです。
ネットで古典焼について書いてありました。<「古典焼」とは、大正時代末期に寄留商人が県外への移出用として壺屋の陶工たちに作らせたのが始まり。エジプト文様など、エキゾチックな図案や技法が特徴的だ。一方で、壺屋の伝統に基づかない装飾過多な傾向が1938年に来県した民芸運動家の柳宗悦らから厳しく批判された歴史がある。立住さんは「作品や人生に対して厳格な祖父だった」と壺中さんを回想。32年に沖縄から奈良県に帰った壺中さんは、その後も精力的に作品を作るが「帰ってきた当初の作品は古典焼のにおいがするが、柳宗悦氏らの批判後は、すべて大和風の作品になった。ある種の決別をしたのだと思う」と壺中さんの作品を紹介しながら変遷について語った。> このネットの記述でなんとなくわかりました。壺屋焼における、古典焼の時代に柳が来て、クソミソにいって、濱田や河合を連れてきて、壺屋を指導したのでしょう。その影響下で人間国宝の、金城次郎だの新垣栄三郎だのが生まれした。結局 柳宗悦が壺屋焼を東京や京阪神に紹介し、壺屋焼の発展に貢献したのです。
フランス国立人類博物館所蔵の琉球古典焼
金城次郎(キンジョウジロウ)大丸壺
金城次郎 双魚文皿
新垣栄三郎 赤絵花文花瓶
琉球古典焼は、つぶれかけてほそぼそと存続していた壺屋の焼き物に、本土、奈良の黒田理平ら黒田一族が作り上げたものなのです。当方もいいものもあると認めながら、なにか、本土の感覚で、むりやり沖縄風を作り上げた焼き物にみえるのです。魚を見ればわかります。魚を知らない人が、沖縄は海だ魚だといって、魚の模様を書き込んでいるようにみえるのです。センスは認めるものの魚が漫画なのです。
黒田に関してネットにつぎのような記述がありました。<今の壺屋焼の原点とも言うべき琉球古典焼は、奈良県に住んでいた黒田一族によってその基礎が作り上げられた。壺屋焼は、琉球王朝の崩壊により明治時代(廃藩置県)以後壊滅的な打撃を受けた。長い低迷期を経て大正時代に黒田理平庵と出会った。黒田理平庵は、誰よりも早く壺屋焼の魅力と可能性を感じ取りこれを機にこれまでになかった新ブランド「琉球古典焼」が誕生させた。琉球古典焼は、新垣栄徳窯の力と壺屋焼の技をベースに新しい発想のデザインをどんどん取り入れていった。これが功を奏して琉球古典焼は、ヤマトにおいて受けに受け沖縄ブランドとしての地位を確固たるものにした。しかし、この琉球古典焼は、残念なことに20年たらずで幕を閉じてしまった。それ以来、1980年過ぎまで一部の人たちを除いて琉球古典焼の存在を知る人はいなかった。1990年代に入り琉球古典焼を研究するグループが現れその全貌が少しずつではあるが解明され始めた。その結果、琉球古典焼のコレクターが日本全国に生まれ今に至っている。>
おもしろいですね、琉球古典焼は短い間の焼き物なので、コレクターの興味をひいたのだが、柳はそれをクソミソにこきおろして、濱田や河合を送り込んで、壺屋焼を再生させた。これで、海外向け、奇妙な作風が、和風をベースとした沖縄独特の作風となった。こういういきさつのようである。すごい勉強をしてしまいました。今度は、このバックグラウンドをしったうえで、壺屋焼を見に行きましょう。
たまたま、<沖縄と岡本太郎>という展覧会が開催されていました。岡本太郎は、日本の民族文化を訪ねて全国をニコンのカメラを片手に旅をしたそうです。彼の写真はなかなかいいのです。さすがに画家の目で撮った写真は、当方の考えていることかなり、一致しています。彼は沖縄に関して文をかいており、本も出版されています。彼の写真集や、日本文化を書いた本は資料室にありました(むろんかれの展覧会にもいっぱい展示されていたのですが)。 沖縄は石垣と竹細工以外に見るべきものは無いといっているのです。紅型もいいけれど、いい焼き物もあるにはあるけれど、本土にもちこむほどのインパクトは無い。当方も同意見なのです。沖縄には魅力的ななにものかがあるのですが、具体的には何もないのです。岡本太郎は、何もないことが沖縄の魅力であると語っています。御獄(ウタキ)は何もないのに、ここは神聖な場所だと言って御獄にしてしまい、とてつもない精神を注ぎ込む。これをとてつもなく続ける人たちなのです。
岡本太郎 赤のイコン
岡本太郎の沖縄文化論という本の一部があちこちに展示してある。以下、沖縄文化論から:
「さらに私は首里で尚家代々の墓である有名な霊御殿(たまうどん)とか、博物館に集められた首里城の石造芸術の破片、旧王家の遺品、生活用具などを見たのだが、それらもすぐれた技術と、独自のよさをもっている。分厚でいながら、何か素朴で、重たくない。やわらかく流れている。その明るい流動感は、日本の芸術にもないし、また大陸にもないものだ。やはり沖縄の風土的なものなのだろう。日本の中世以降の芸術の重さ、アカデミックな形式の固さにがっかりしている私は、むしろこの方がいいと思う」と言う。ここで「さらに」とは、沖縄のとっておきの文化財である英祖王の石棺などを見た後でという意味である。およそこんな風にして彼は沖縄の代表的な芸術遺産を見てまわり、その日本にも大陸にもない独自の風を、重たくなく、やわらかく流れる「明るい流動感」として捉えているのである。この捉え方はとても素晴らしいものだと思うのだが、しかし問題はその先である。「しかしそれらの個性、よさを感じとりながらも、何かもの足りない。つまり、こいつはどうしても沖縄だけにしかない、というような凄みがないのだ」と。それらは「いわば借りものであって、沖縄全体がそこからつき出てくるというものでは、残念ながらない。クリエートされた気配、その息吹が感じられない」ということである。「この国の貴族文化のひ弱さ、層の薄さ」を見てしまうのである。というのも、「文化の輸入は、みがかれたセンスと経済力があれば民衆生活とかかわりなくできる」ものだからである。「生活の地底から生まれ育ったものでない」輸入文化の宿命的なひ弱さを見るのである。そのような「輸入文化は、リファインされ体裁よくまとまってはいても何となく希薄なのである」、琉球列島には、そのどん尻まで行っても「何もない」のである。「この何もないところに、実は沖縄文化論のポイントがあるのではないか」色々な美が。まさに生活の地底から生まれ育ったさまざまな美が。たとえば島中にめぐらされている石垣の美、道を歩いているひとたちのハダシの美、着のみ着のままでありながら美しい人々の着衣、深く刻みこまれた皺だらけの顔の美しさ、また実用されているクバ笠や籠の美しさ、舟の形の美、等々。それら美しいものたちには「特定の作者、だれが創った、はない。島全体が、歴史が結晶して、形づくった」のである。つまり、ここにあるのはこの土地での生活のぎりぎりの必要性なのであり、このぎりぎりの必要性こそが存在するものたちの美を生んでいる、生活そのものとして、その流れる瞬間瞬間にしかないもの、生命の感動のなまなましく打ち震える時間を「根源的な時間」- - - -。
沖縄には、そういう何か、自然に生まれた土着の文化が熟成しながら、何かを求めて作り上げてゆく、その本来の芸術性が、バラバラに四散し、実体の乏しい、なまぬるい、あるような、ないような世界をつくりあげているのです。
当方、昔は、沖縄は海しか興味ありませんでした。それに加えて、陸上の何かが当方の心地よさを引きずり出して、とにかく、自分の祖先と沖縄をダブらせていたのです。私の祖先は南方の人が沖縄を経由して房総半島に流れ着いたのだ。私の顔はどう見たって、朝鮮系の顔なのに、ガンとして南方系と信じているのです。
最近はもうダイビングという年でもないので、陸上の沖縄になにがあるのか追求しようとしているうちに、沖縄の文化はすぐ裏に突き抜けてしまう希薄なもののように思えてきたのです。これから先どうしたらいいのだろうと思いながら、那覇空港から飛び立ちました。久しぶりの窓際の席で、雲のパターンを見ながら思ったのです。
ペンタックスK5 ペンタックス18-135mm
沖縄の陸上で何かを探すなんて、なんでそんな馬鹿なことを考えたのだろう、沖縄は今も昔も海の中に意味がある。海の中から陸上を見なければ意味ないのだ。勘違いもいいところだ。海の中で魚が笑い、海の上空をぴろっと、竜が飛ぶ。千と千尋の神隠しに出てきた竜さんが、ぴろっと沖縄の海の上を飛んでいるような気がするのです。
40年前に、久米島で、糸満のおじさんと一緒に、糸満の舟で沖にでて、サンゴ礁で潜った海の中の風景が原点で、沖縄の三味線も、琉球舞踊も、斎場の祈りも、サンゴの釉(ウワグスリ)の焼き物も、泡盛も、海ブドウも、グルクンのから揚げも、シャコガイの刺身も、フエフキタイの味噌汁も、島ラッキョウの天ぷらも、ジーマミトウフも、一番うまいのはアカマチのお刺身だが、それらはみんな海の中からわきあがった物なのだ。
芸術とは、美しいもの、価値のあるものを追いかける人間たちが、自然と共に暮らすうちに、自然の中から拾い出した美しい断片が、寄り集まっていつのまにか独立した塊となって、いつまでも輝き続ける物なのだ。沖縄には海からわきあがった断片があちこちに転がっている。まだ十分に塊となっていないのだが、そんなことはどうでもいい、大事なのは海の中にその原点があることだ。すべての人々の原点がそこにあるのだ。だから、沖縄は全ての人のふるさとであり、原風景なのだ。わきあがって独立した塊などいらないのかもしれない。原点のなかでポクンポクンとわきあがる赤ん坊の美で十分で、大人になってほしくないのかもしれない。かくて、沖縄ではいつも竜がピロピロと飛び、魚がゲラゲラ笑っているである。
千と千尋の神隠しの竜、ハク。
沖縄の竜は、ハクよりちょっとひょうきんかもしれません。どっちでもいいので、ようはしれっと、飛んでいるのです。
私は、沖縄の陸上で、なんの写真を撮ろうというのか? 満足する物なぞあるわけない。海の中を撮るしかない、あるいは海の中から赤ん坊が生まれ出る様を撮るしかない。かくて、私は老骨に鞭打って、ふたたび海に潜らねばならないのか??????
海には、こんなおなかの出た体では合いません。しなやかな体に戻さねば。40年前の久米島の原風景に融合する日を目指して。
さて、皆さんには、わけわからない話は置いておいて、ペンタックスK5の話をしましょう。いくら待ってもK5の値段が下がらないので、K5と18-135mmズームセットを買ってしまいました。マップカメラと、新品格安ショップの価格差が5000円もないので新品を買うことにしました。このセットは海外旅行の為に買ったのです。 なるべく重量が減らすためです。買ってみると、ニコン、キャノン、ソニーのフルサイズを買おうか悩んでいたのがウソのように消えてしまいました。K5と18-135mmがあれば、どんな時でもとにかく写真が撮れるという安心感が、高くて重たいフルサイズを吹っ飛ばしてしまったのです。旅行の時、持てる機材というのは限られているので、どの機材を選択するかはとても迷います。写真を楽しむには、とにかくどんな時でも撮れるということは必要ですが、なんといってもレンズです。レンズが楽しさを決めるのです。カメラボディーはその邪魔をしなければそれでいい。ある限られた重量の中で、いくつのレンズを持ってゆけるかが最も重要です。フルサイズになると新たなレンズを用意しなければならない上に、重量が大変です。十分に発達したボディー、レンズ、付属品があれば、APS-Cでアマチュア撮影には十分楽しめるのではないでしょうか。フルサイズは古いレンズを古い感覚で使う為に存在していると言えます。こう考えるようになったのはK5を買ってからです。使う前からそんな気になったところが、なんとも不思議です。
今、むしろ私の次なるターゲットはフルサイズでなくて、新発売ペンタックスQで、ポケットサイズのミラーレス一眼レフです。いつもポケットに入っているこのサブカメラとしての機動性をかいたい。ミラーレス一眼で最も重要なのは電子ビューファインダーの性能と全体重量です。液晶画面で撮影なぞ、考えられません。構図は決められないし、ピントも合わせられない。半分目をつぶって撮影しているようなものです。ファインダーのために一眼レフを買っているのですから、現在のミラーレス一眼はみな×です。ペンタックスQの電子ビューファインダーの情報だけが待ち遠しい。
ところで、ショックなニュースが飛び込んできました。ペンタックスがリコーに買収されたというニュースです。この買収がいい方向に向かってくれるといいのですが。
さて、沖縄のペンタックスK5の旅です。今回の仕事は大変なことが多いので、撮影に回す精神的、時間的余裕がほとんどありません。最低限の機材を考えて、K5とK7、レンズはシグマ8-16mm超広角ズームと18-135mmの高倍率ズームの2本のみ。これ以上の望遠側は重たいので捨てました。レンズにたよる、面白い写真は超広角ズームで、18-135mmは広い対応力で、とにかく何でも撮れるという位置づけ。K5一本でもよかったのですが、K7と比較するという意味で2本持ちました。3kg位に収まったのではないかと思います。
単焦点レンズオンリーで楽しんできた当方がズーム2本を選択するとは、珍しい風の吹き回しです。上高地で味を占めたシグマ8-16mmをもっと使ってみたいという気持ちの表れでしょう。
沖縄の玉泉洞という鍾乳洞があることは知っていたのですが、沖縄に来て鍾乳洞を見ることもないだろうと放っていました。ところが玉泉洞は沖縄の人気観光スポットNo1であることを知ったのと、台風の接近で雨風が強いことが予想されたので玉泉洞に行ってみることにしました。入り口近くまで行ったときに、ものすごい豪雨となったので、あきらめて帰ろうと思ったのですが、沖縄の雨は待てば止む、天気予報はあてにするなという、沖縄在住の人の言葉を思い出して、しばらく様子をみました。案の定小ぶりとなったので、玉泉洞に入ってみました。高感度撮影に強くなったというのがふれこみですので、ペンタックスK5を試すにはちょうどいい所です。高感度撮影になれていなので、グリーンモード(バカチョンモード)で撮影しました。レンズはシグマ8-16mmの超広角ズームです。広角であることも手伝って、パカパカ、なんの苦も無く撮影。スローシャッターで手振れするということもなく、成功率100%で撮影できました。ノイズは、雑駁にいえば問題ないのではないでしょうか。細かく見れば出る時は出るので、これはしょうがないでしょう。
K5はすばらしいといいたいのですが、期待通りということ以上の感激は今のところありません。暗い所を撮ったって、撮れたというだけで、暗い所を面白い写真にするにはいまのところアイデアがありません。写真は明るい所で撮るものでしょという固定概念の中にいるわけです。
ペンタックスK5、シグマ8-16mm
ペンタックスK5、シグマ8-16mm