K7 8-16mm シグマズーム
きれいな写真はいっぱいあるのですが、皆さん緑に飽きてきたに違いないので、残念ながらすっとばします。
K20D Zeiss 50mm x 1.4(rear converter)
ブナともお別れですから、一度まじまじとみてみましょう。
K20D Zeiss 50mm x 1.4(rear converter)
木の苔もまじまじとみてみましょう。森の歴史です。
K20D Zeiss 50mm x 1.4(rear converter)
こんなに面白い葉っぱたちともお別れです。
K20D Zeiss 50mm x 1.4(rear converter)
なごりおしいこと。
K7 8-16mm シグマズーム
超広角ともお別れです。
K20D Zeiss 50mm x 1.4(rear converter)
白神山地ともお別れです。
K20D Zeiss 50mm x 1.4(rear converter)
この白神山地ブナ林遊歩道の散策を終えて、温泉につかって、バスにのりこみ、盛岡駅へ向かうころ、降り始めた雨はそのうち豪雨となりました。ほんとうにギリギリセーフの旅でした。途中で、白神山地ビジターセンターによって白神山地の映画を観ました。巨大スクリーンに映し出される白神山地の四季は感動的でした。主役は自然であり、人は完全な脇役です。
丁度、この旅に持って行った本、久慈力の<蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い>は東北に逃げた縄文人と大陸から渡来した弥生人の戦いを論じた、とても珍しい本でした。国を追われたユダヤ人からアイヌまでをつないだ壮大な歴史物語です。 8-16mm超広角レンズのように、壮大すぎて、とても把握することが難しい本です。久慈力は岩手県うまれで、<もののけ姫>の批評である<もののけ姫の秘密>で注目を集めたノンフィクション作家です。
ガイドさんが白神山地の白神とはアイヌ語だといていました。アイヌ語=シラー・カムイ(岩(シラー)と神(カムイ))から白神岳の名が付き、白神山地の名が付いたそうです。 しかし、この本から考えると、これは間違いのような気がします。縄文系の古来日本人は、自然とともに暮らす民族であり、抗戦的渡来系弥生人に追われて、最終的に白神山地のような東北の奥深い山に拠点を据えて、長い抗争が起きるのです。おそらく、その時に白神山地という名前が付けられて、この縄文人が北海道に渡ってアイヌとなり、結果的に古来縄文人の言葉はいまではアイヌ語としてしか、認識できない、そこでアイヌ語であるという表現になるのでしょう。本当は、白神山地は縄文人語由来というべきなのでしょう。
白神山地と人との少ない接点である<マタギ>もアイヌ語のマタウンバ(雪山で狩をする者の意味)から来たという説があります。
渡来人とは、その名のような、そんな生易しいものでない。ユダヤの末裔が作り上げた、シルクロードの国、その連続にある秦国、その連続にある倭国(中国南部)と朝鮮の新羅や百済、そしてその連続にある侵略者による大和王朝。やがて、新羅系の王朝が縄文人を駆逐して日本を覆う。そのうち渡来人同志の、即ち新羅系渡来人と百済系渡来人の争いが続く。百済系は新羅系に駆逐され、新羅系は日本の現在の王朝の基礎を作る。駆使された百済系は新羅系の転覆を計り、それが成功する。今度は新羅系が駆逐され、東北の縄文人と新羅系が合流して百済系大和王朝と対立する。いわゆる蝦夷討伐が何度も試みられたが、この弥生人、百済系に対する縄文人、新羅系弥生人連合との抗争が続く。縄文人は戦いも、階級制度もこのまない自然の一部として生きる人種であり、弥生人は戦いと、支配権力を好む人種である。弥生人に支配され、融合された縄文人とあくまで支配されることを好まず、自然の中に新天地を求め続けた縄文人、すなわちアイヌ人とに分かれた。
天皇の遷都の裏には、新羅系渡来人と百済系渡来人の抗争がある。平城京から長岡京へ遷都、平安京への遷都には百済系渡来人の復権抗争がある。復権した百済系は新羅系を駆逐し、新羅系渡来人は東北の縄文人を支援し、百済系に対抗しようとした。 ということは、京都の緑と東北の緑は無関係ではないのだ。自然を手の内に収めようとした、ユダヤ系末裔の渡来人、すなわち人が中心で自然がその一部であった京都と、自然と生きた縄文人、すなわち自然が中心で、人はその一部であった白神山地とが逆転しながらつながるのである。
そして、この新羅系渡来人と百済系渡来人の抗争は、現代のどこにもぐりこんでいるのだろう。―――党と―――党の抗争、―――財閥と―――財閥の抗争はひょっとすると、渡来人同志の戦いかもしれない。そして、縄文人と弥生人の抗争は自然を支配したい人と自然と同化したい人に分かれて、あるいは一人の人の中で、今の日本は微妙にあるいは激しく揺れ動く。
自然と同化したい人として、白神山地の春夏秋冬の自然の輪廻を見ると、その、人はもうほとんど入りこむ余地のない冬の雪の白神山地の光景は、この雪に抱かれてそのまま自然の中に融合してしまいたいという甘い誘惑に引きずり込まれてゆくのです。
この京都の緑、東北の緑には番外編があります。もう皆さん、緑に飽きているに違いありません。あした、もう一日だけおつきあい願いましょう。