海と風の宿はやんばるのゲストハウス(安宿)で、誰でも泊まれるのですが、
私がスタッフとして滞在した5月24日から6月末まではちょうど梅雨の時期でもあり、
観光だけのお客は少なかったです。
その代わりと言ってはなんですが、
場所が辺野古新基地建設工事の現場に近いので
辺野古のキャンプシュワブゲート前座り込みや、
カヌーに乗っての抗議闘争に全国から駆け付けた人々が
次々に宿泊していました。
ネットで見ると、そのような人たちのことを「サヨク」とか「反日」とかのレッテルを貼る、
あまりにも思考力のない人が日本に住んでいることに驚くのですが、
このブログでは私が見た、
その「サヨク」「反日」と呼ばれる人たちの真の姿にちょっと迫ってみたいと思います。
まずは辺野古ブルー(カヌー隊)メンバーの人たちです。
下は16泊の滞在後、広島の家に帰る直前の七海さん。
19歳のお嬢さんです。
毎日、午前と午後に海に漕ぎだしフロートを越えて海保に拘束され、
浜近くで解放されるという全然楽しくないことの繰り返しなのに、
彼女は早朝5時40分に長期滞在の先輩ミヤサカさんの車に便乗して出発します。
一度も休んだことはありません。
よくグナアを散歩に連れて行ってくれもしました。
瀬嵩の浜のゴミ拾いと分別も一緒にしてくれました。
ある日の夕食のことです。
メインディッシュに鶏肉を焼いて出すと、
七海さんはそれをお皿に一番最後まで残して、他のおかずを食べていました。
「あれ?鶏肉は苦手?」と聞くと、
「いいえ!美味しいのを最後まで取ってあるんです。」
と言うので(ああ、なんてカワイイ)と思わずにはいられませんでした。
彼女は家で(もちろん小さい頃のことでしょう)、
せっかく最後に食べようと残して置いた焼き塩鮭の皮を、
お父さんがぱくっと食べてしまったので拗ねまくり、
「もうご飯なんかいらんわ!」とむくれたことがあると語っていました。
どうして辺野古闘争に来たのか七海さんに聞くと、
初めは、お兄さんが「行って来い」と言ったからと言います。
お兄さんは来たくても農家なのでなかなか家を空けることができません。
七海さんはちょうど今、フリーターなので時間はたっぷりあるから…と。
今回は2回目の辺野古です。
前回、初めての時はただ、お兄さんに勧められたし、自分も
(沖縄が好きだから~)というお気楽な気持ちだったそうですが、
座り込みをしている人たちを見て、(私も一緒に何かしたい。できないだろうか)
という思いが湧いてきたそうです。
「テント村の女王」島袋文子さんを筆頭に、
座り込みをしている人たちの多くは60代、70代以上のオジイ、オバアです。
その人たちは到底「サヨク」とか「反日」で括られるような人間ではありません。
ただただ、沖縄の戦後70年にも及ぶ基地の犠牲に憤怒し、
この状態を次の世代に引き継がせまいという一心で座り込み、
道路に伏して抵抗しています。
本土の馬鹿野郎どもが事実を知ろうともせず、嘘八百の流言を言おうとも、
現場に来れば、何が真実なのかが分かります。
辺野古ブルーのメンバーが海保のゴムボートから降ろされ、
瀬嵩の浜に戻ってきたとき、それを迎える島ぐるみ会議の中には、
メンバーに手を合わせる年配の人もいました。
私は「サヨクはもういい、地元の人たちの本心を聞きたい」
とネットに書き込んでいた者どもの愚かさを思わずにはいられません。
反基地闘争はオール沖縄の闘いなのです。
地元では、こうしたネットの排他的、一面的、差別的思考の放つ腐敗臭を、
一度も感じることはありませんでした。