デジブック 『ハンター邸』
旧ハンター邸の基本情報
住所:神戸市灘区青谷町1-1-4(王子動物園内)
建築主:エドワード・ハズレット・ハンター
設計:A.N.ハンセル (Alexander Nelson Hansel)の説あり
昭和41年(1966)6月11日に国指定の重要文化財(建造物)に指定
エドワード・ハズレット・ハンターEdward Hazlett Hunter
1843年2月3日生まれ - 1917年6月2日没について Wikipediaより引用
イギリス人実業家で範多財閥・日立造船の創業者。造船業を中心に産業育成を
通じて日本の近代化に尽力した。
慶応3年(1867) - 横浜に来日。
明治6年(1873) - 神戸にハンター商会 (E.H. Hunter & Co.) を設立。
明治14年(1881) - 大阪安治川岸に大阪鐵工所 (Osaka Iron Works) を創立。
後に日立造船、現在はユニバーサル造船に発展
20歳の頃、アジアを目指して帆船に便乗して、オーストラリア、香港、上海を経て
慶応3年(1867年)横浜で貿易事業に携わった。
大阪に移住した頃から、外国人居留地に出入りしていた、大阪川口居留地の近くに
住む薬種問屋・平野常助の娘平野愛子と結婚し、長男は生後間もなく死亡したため、
明治4年に誕生した男児リチャードを嫡男として、戸籍では母親の姓をとり
平野龍太郎(後に範多龍太郎と改名)と名づけた。続いて長女ふじ子が誕生。
明治17年2月29日にハンスこと範三郎(範多範三郎と改名)、その下に
エドワードこと英徳が生まれたが、いずれも当初は日本国籍。
ハンス範三郎は後に実業家として地歩を固めた。
国産第一号のトロール船を明治41年に完成させ、後に日本の大半のトロール船を
製造するまでになる。
このトロール漁法の実用化のために、長崎五島列島沖で奮闘したのが、グラバーの
息子・倉場富三郎である。、鉄工と造船業の他にも、煉瓦や肥料、煙草、精米、
損害保険など様々な事業を起こし範多財閥を形成した。また造船場で働く工員の
ために日本で初めて障害保険を導入した。
明治15年に、範多商会を開業。この会社の輸出する精米は年間一万トンにのぼり、
ロンドンの穀物市場の標準米になったともいわれる。
E・Hハンターは数多くの基幹産業を経営すると同時に、神戸市発展のため
公共事業にも貢献。幕末に結ばれた不平等条約の改正も英国本国に働きかけるなど、
力を尽くした。日本の近代化に長年尽くした功績により、
明治42年(1909年)勲五等双光旭日章を贈られている。
当時の外国人としては破格の栄誉だった。
ハンターは文化面でも貢献している再度山の大龍寺の上の方に善助茶屋があり
早朝登山を楽しんだ旧居留地の外国人などが休憩所として利用していた。
また、善助茶屋の親父が気をきかしてサインブックを置き登山のたびにサイン
して帰る習慣が生まれた。神戸における毎日登山のおこりである。
旧ハンター邸の基本情報
住所:神戸市灘区青谷町1-1-4(王子動物園内)
建築主:エドワード・ハズレット・ハンター
設計:A.N.ハンセル (Alexander Nelson Hansel)の説あり
昭和41年(1966)6月11日に国指定の重要文化財(建造物)に指定
エドワード・ハズレット・ハンターEdward Hazlett Hunter
1843年2月3日生まれ - 1917年6月2日没について Wikipediaより引用
イギリス人実業家で範多財閥・日立造船の創業者。造船業を中心に産業育成を
通じて日本の近代化に尽力した。
慶応3年(1867) - 横浜に来日。
明治6年(1873) - 神戸にハンター商会 (E.H. Hunter & Co.) を設立。
明治14年(1881) - 大阪安治川岸に大阪鐵工所 (Osaka Iron Works) を創立。
後に日立造船、現在はユニバーサル造船に発展
20歳の頃、アジアを目指して帆船に便乗して、オーストラリア、香港、上海を経て
慶応3年(1867年)横浜で貿易事業に携わった。
大阪に移住した頃から、外国人居留地に出入りしていた、大阪川口居留地の近くに
住む薬種問屋・平野常助の娘平野愛子と結婚し、長男は生後間もなく死亡したため、
明治4年に誕生した男児リチャードを嫡男として、戸籍では母親の姓をとり
平野龍太郎(後に範多龍太郎と改名)と名づけた。続いて長女ふじ子が誕生。
明治17年2月29日にハンスこと範三郎(範多範三郎と改名)、その下に
エドワードこと英徳が生まれたが、いずれも当初は日本国籍。
ハンス範三郎は後に実業家として地歩を固めた。
国産第一号のトロール船を明治41年に完成させ、後に日本の大半のトロール船を
製造するまでになる。
このトロール漁法の実用化のために、長崎五島列島沖で奮闘したのが、グラバーの
息子・倉場富三郎である。、鉄工と造船業の他にも、煉瓦や肥料、煙草、精米、
損害保険など様々な事業を起こし範多財閥を形成した。また造船場で働く工員の
ために日本で初めて障害保険を導入した。
明治15年に、範多商会を開業。この会社の輸出する精米は年間一万トンにのぼり、
ロンドンの穀物市場の標準米になったともいわれる。
E・Hハンターは数多くの基幹産業を経営すると同時に、神戸市発展のため
公共事業にも貢献。幕末に結ばれた不平等条約の改正も英国本国に働きかけるなど、
力を尽くした。日本の近代化に長年尽くした功績により、
明治42年(1909年)勲五等双光旭日章を贈られている。
当時の外国人としては破格の栄誉だった。
ハンターは文化面でも貢献している再度山の大龍寺の上の方に善助茶屋があり
早朝登山を楽しんだ旧居留地の外国人などが休憩所として利用していた。
また、善助茶屋の親父が気をきかしてサインブックを置き登山のたびにサイン
して帰る習慣が生まれた。神戸における毎日登山のおこりである。