明石市が作成しと地図の中に1)時を刻む街として明石が紹介されており、さらに
説明書きには2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街、 3)柿本人麻呂
4)魚の棚商店街、5)明石城
の名前が出てきます。
これらのキーワードに関連した写真を添付して明石を紹介していきます。
上の3枚の写真は上述の地図の中にあった明石の紹介
明石市の市章、市の木:キンモクセイ、市の花:キクも紹介されています。
現在の市章となる町章が制定されたのは明治44年(1911)3月30日
まず、明石市を全般を紹介するものを添付します。
上の写真は明石市のマンホールの図案です 撮影:2017-3-24
上の写真も明石市のマンホールで9月10日が下水道の日であること、2011年に
下水道が出来て100周年であることことをPRされています。
大久保小学校3年生の作品 撮影:2017-4-5
上の写真は私の銅版画の作品で明石の概要を紹介しています。2014年6月に製作
上の写真はJR明石駅北側にある看板の一部を撮ったものです
撮影:2017-4-5
ここで明石市の基本情報として人口などを添付します。
平成29(2017)年4月1日現在
推計人口:294,312人
推計世帯数:123,812世帯
面積:49.22 km²
上の写真は明石市の市民生活指標 出典:明石市公式サイトより
最後に各アイテム毎に関連の写真を添付して終了します。
1)時を刻む街
明治17年(1884)にワシントンで開催された国際子午線会議でイギリスの
グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ標準時(世界時)と定められました。
日本では明治21年(1888)1月1日より東経135度子午線の時刻を「日本標準時」
として使用されるようになった。
経度が5度違うと約20分のズレがあるのですがそれを日本全国一律に標準時で
管理運用されています。
上の写真は2013年6月10日に明石市立天文科学館を訪問した時のものです。
関連ブログ:
時の記念日 in 明石市立天文科学館 on 2013-6-10
明石市内の子午線のモニュメントや標識
月照寺
電波時計
2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街
上の写真は明石海峡大橋と淡路島が写ったものです 神戸市垂水区より撮ったものですが・・・
撮影:2007-11-7
3)柿本人麻呂
上の写真は柿本人麻呂の画と歌が書かれた絵葉書です。
歌は「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」と詠まれています。
古今和歌集の「題しらず、詠み人しらずの歌」ですが
「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」という脚注あり
万葉集にも柿本人麻呂が明石について詠んだ歌があります。
天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見
(あまざかる ひなのながぢゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ)
【現代語訳】
遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつやって
来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきた。
上の写真は柿本人麻呂に所縁の柿本神社(戦前の絵葉書)
関連ブログ:明石公園と柿本神社のロウバイ on 2014-1-21
4)魚の棚商店街
上の写真は魚の棚(うおんたな)商店街 撮影:2017-4-5
5)明石城
上の写真は2016年12月1日に新装開店したパピオス明石の7階から撮った明石城
撮影:2017-4-5
明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。
「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。
石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。
普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。
築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」
関連ブログ:
明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10
明石城の象徴 巽櫓と坤櫓
船上城跡
明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30
説明書きには2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街、 3)柿本人麻呂
4)魚の棚商店街、5)明石城
の名前が出てきます。
これらのキーワードに関連した写真を添付して明石を紹介していきます。
上の3枚の写真は上述の地図の中にあった明石の紹介
明石市の市章、市の木:キンモクセイ、市の花:キクも紹介されています。
現在の市章となる町章が制定されたのは明治44年(1911)3月30日
まず、明石市を全般を紹介するものを添付します。
上の写真は明石市のマンホールの図案です 撮影:2017-3-24
上の写真も明石市のマンホールで9月10日が下水道の日であること、2011年に
下水道が出来て100周年であることことをPRされています。
大久保小学校3年生の作品 撮影:2017-4-5
上の写真は私の銅版画の作品で明石の概要を紹介しています。2014年6月に製作
上の写真はJR明石駅北側にある看板の一部を撮ったものです
撮影:2017-4-5
ここで明石市の基本情報として人口などを添付します。
平成29(2017)年4月1日現在
推計人口:294,312人
推計世帯数:123,812世帯
面積:49.22 km²
上の写真は明石市の市民生活指標 出典:明石市公式サイトより
最後に各アイテム毎に関連の写真を添付して終了します。
1)時を刻む街
明治17年(1884)にワシントンで開催された国際子午線会議でイギリスの
グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ標準時(世界時)と定められました。
日本では明治21年(1888)1月1日より東経135度子午線の時刻を「日本標準時」
として使用されるようになった。
経度が5度違うと約20分のズレがあるのですがそれを日本全国一律に標準時で
管理運用されています。
上の写真は2013年6月10日に明石市立天文科学館を訪問した時のものです。
関連ブログ:
時の記念日 in 明石市立天文科学館 on 2013-6-10
明石市内の子午線のモニュメントや標識
月照寺
電波時計
2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街
上の写真は明石海峡大橋と淡路島が写ったものです 神戸市垂水区より撮ったものですが・・・
撮影:2007-11-7
3)柿本人麻呂
上の写真は柿本人麻呂の画と歌が書かれた絵葉書です。
歌は「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」と詠まれています。
古今和歌集の「題しらず、詠み人しらずの歌」ですが
「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」という脚注あり
万葉集にも柿本人麻呂が明石について詠んだ歌があります。
天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見
(あまざかる ひなのながぢゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ)
【現代語訳】
遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつやって
来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきた。
上の写真は柿本人麻呂に所縁の柿本神社(戦前の絵葉書)
関連ブログ:明石公園と柿本神社のロウバイ on 2014-1-21
4)魚の棚商店街
上の写真は魚の棚(うおんたな)商店街 撮影:2017-4-5
5)明石城
上の写真は2016年12月1日に新装開店したパピオス明石の7階から撮った明石城
撮影:2017-4-5
明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。
「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。
石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。
普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。
築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」
関連ブログ:
明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10
明石城の象徴 巽櫓と坤櫓
船上城跡
明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30