2018年11月25日、秦河勝所縁の秦楽寺(じんらくじ)と唐古・鍵遺跡を見ることが主目的で
奈良県磯城(しき)郡 田原本(たわらもと)町を散策しました。
散策にあたっては近鉄田原本町駅の前にある観光ステーション磯城の里(田原本町観光協会)
で自転車(1日 1,000円)を借りて回りました。時間は9:30~15:50
現在の田原本町は昭和31年(1956)に田原本町、多村、都村、川東村、平野村が合併して
誕生した町で人口は約3万人です。
近鉄田原本町駅の周辺は江戸時代に形成された寺内町と賤ケ岳七本槍として有名な平野権平長泰
が5,000石で田原本を知行しその後、平野氏の子孫が陣屋を築いた陣屋跡を中心として
町並みが形成されています。
また、田原本町は桃太郎伝説の桃太郎の生誕地とする伝承もある町です(法楽寺付近)
古くから太子道、中ツ道、下ツ道(中街道)が通り寺川を利用した水運の物流の集積地
としても栄えました。
上の写真は田原本町寺内町と平野氏の陣屋データを示したものです。
出典:唐古・鍵考古学ミュージアム編 寺内町と陣屋の考古学-近世田原本の成立-(2009)
前書きが長くなりました。
本日は田原本町散策シリーズの第1回で下之庄不動尊について写真紹介します。
上の写真は下之庄不動尊の遠景です。
祠が2つありますが右手が不動明王の石像が祀られた祠です。
上の2枚の写真は祠の近景と不動明王の石像。
上の写真は不動講中によって作成された現地説明板。
そのまま転記させていただきます。
下之庄不動尊の由来
不動尊は江戸時代の石工であった田原本町の佐兵衛氏によって作られ文政三庚辰(1820)
三月に建立されました。伝承によれば文政五年(1822)と安政五年(1858)の疫病(コレラ)
蔓延の時下之庄村からひとりの発病者もなかったようです。後にその徳を称えて、下之庄の
村人が不動講を以ってお祭りをするようになり現在も続いています。今では耳病の不動尊で
霊験灼かです。お供えしてある錐(きり)をいただいて帰り、耳の穴のところで錐を揉む
ようにすると、よく聞こえるようになると言われています。
不動講中
下之庄不動尊の所在地は下之庄(三笠)を流れている鳥米川(むかし梅川とも呼びました)
の堤の曲がり角にあり、石造の不動尊が祀られた祠が東を向いてまつられています。
奈良県磯城(しき)郡 田原本(たわらもと)町を散策しました。
散策にあたっては近鉄田原本町駅の前にある観光ステーション磯城の里(田原本町観光協会)
で自転車(1日 1,000円)を借りて回りました。時間は9:30~15:50
現在の田原本町は昭和31年(1956)に田原本町、多村、都村、川東村、平野村が合併して
誕生した町で人口は約3万人です。
近鉄田原本町駅の周辺は江戸時代に形成された寺内町と賤ケ岳七本槍として有名な平野権平長泰
が5,000石で田原本を知行しその後、平野氏の子孫が陣屋を築いた陣屋跡を中心として
町並みが形成されています。
また、田原本町は桃太郎伝説の桃太郎の生誕地とする伝承もある町です(法楽寺付近)
古くから太子道、中ツ道、下ツ道(中街道)が通り寺川を利用した水運の物流の集積地
としても栄えました。
上の写真は田原本町寺内町と平野氏の陣屋データを示したものです。
出典:唐古・鍵考古学ミュージアム編 寺内町と陣屋の考古学-近世田原本の成立-(2009)
前書きが長くなりました。
本日は田原本町散策シリーズの第1回で下之庄不動尊について写真紹介します。
上の写真は下之庄不動尊の遠景です。
祠が2つありますが右手が不動明王の石像が祀られた祠です。
上の2枚の写真は祠の近景と不動明王の石像。
上の写真は不動講中によって作成された現地説明板。
そのまま転記させていただきます。
下之庄不動尊の由来
不動尊は江戸時代の石工であった田原本町の佐兵衛氏によって作られ文政三庚辰(1820)
三月に建立されました。伝承によれば文政五年(1822)と安政五年(1858)の疫病(コレラ)
蔓延の時下之庄村からひとりの発病者もなかったようです。後にその徳を称えて、下之庄の
村人が不動講を以ってお祭りをするようになり現在も続いています。今では耳病の不動尊で
霊験灼かです。お供えしてある錐(きり)をいただいて帰り、耳の穴のところで錐を揉む
ようにすると、よく聞こえるようになると言われています。
不動講中
下之庄不動尊の所在地は下之庄(三笠)を流れている鳥米川(むかし梅川とも呼びました)
の堤の曲がり角にあり、石造の不動尊が祀られた祠が東を向いてまつられています。