須磨観光協会が例年のごとく2016年10月1日から11月30日の日程で
スタンプラリーが行われています。安徳帝内裏跡伝説地がクイズ設置場所の
一つとなっており現地に出かけた。(2016年10月17日訪問)
安徳帝内裏跡伝説地(安徳宮)の西手に本日のテーマの皇女和宮像があります。
上の写真が皇女和宮像です。
「静寛院和宮様之像」と書かれた石碑が横に建てられています。
衣装の紋所は丸の三つ葉葵
上の写真は平成13年(2001)3月に一の谷二丁目自治会が作成した説明板です。
読みづらいので書かれている内容を簡単に述べます
「静寛院和宮様の略歴記載 公武合体で将軍 徳川家茂公に嫁がれた時に
詠まれた歌 惜しまじな君と民とのためならば身は
武蔵野の露と消ゆとも
中村直吉氏が神戸市内の高等女学校に寄進した三体のうちの一体が
こちらに安置の和宮像であること。」
全文は下記のとおり
「和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で6才にして有栖川熾仁親王(別荘が後の
舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。
しかし、幕末に朝廷と幕府との関係を改善し国論を統一せしめるため、
幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との婚約を破棄し、17才で
徳川幕府の14代将軍家茂に嫁がれた。
惜しまじな 国と民との為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも
その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようと
したが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。
昭和3年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で
西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持を
いつまでも願い昭和9年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、
市二(須磨高校)の三学校に和宮像を寄付した。
この像は戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。
他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎え
することができたのは非常に喜がしい限りであります。
平成13年(2001年)3月
一の谷町二丁目自治会」
皇女和宮像について小生のブログ(須磨一の谷皇女和宮像)で書いていますが
上記説明板にあるような銅像のルーツなど詳しい内容を記載していないので
今回、もう少し掘り下げて記事を書いていきます。
まず静寛院和宮様について簡単に記載します。Wikipediaよりの引用がメイン
和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日
(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。
母親は橋本経子(観行院)
孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。
品位は二品、薨後贈一品。家茂死後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
嘉永4年(1851)7月12日、5歳で孝明天皇の命で有栖川宮熾仁親王と婚約
(舞子ビラの地に屋敷があった)
万延元年(1860)10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許
文久元年(1861)10月20日 15歳で和宮一行は桂御所を出立
文久元年(1861年)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った
文久2年(1862)2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われる
慶応元年(1865)8月10日、和宮と共に江戸に下向し大奥に住まっていた
母・観行院が卒去
慶応2年(1866)7月20日、将軍 徳川家茂が大坂城で薨去
慶応2年(1866)12月9日、和宮は落飾し号を静寛院宮と改めた
慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御
和宮は1年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった
明治2年(1869年)1月18日、和宮一行は東海道を京都へ出発、2月3日、京都に帰着
明治7年(1874年)7月に東京に戻る
明治10年(1877)静寛院宮 和宮様は病気療養のため箱根 塔ノ沢元湯の
老舗旅館「環翠楼」で療養(脚気と言われるが定かでない)されそこで身罷られた
法名:静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉
(せいかんいんのみやぞういっぽんないしんのう こうよわじゅんていきょだいし)
墓所:芝 増上寺(徳川家茂と共に眠る)
ここで「静寛院和宮様の銅像のルーツ」についての話題に変えます。
和宮の銅像の作者は慶寺丹長で、和宮像の発注者は米問屋店主の中村直吉である
中村直吉(1880~1939)は兵庫佐比江生まれで苦難の少年時代を過ごし独立後
米問屋として成功を収め神戸米穀取引所理事長、県会議員などを務めた。
中村直吉氏(1880~1939)は昭和8年神戸市内の公立高等女学校に
「和宮像」「楠母子像」の寄進を推奨。
昭和9年に神戸市立第二高等女学校(市立須磨高校から現在須磨翔風高校)
および 県一(現:県立神戸高校)・県二(現:県立夢野台高校)の二女学校に
寄贈しました。
同11年には、東京の増上寺と日本女子会館に和宮像を寄贈しています。
当時、和宮は「日本女性の鑑」と評され、称賛されていました。
安徳帝内裏跡伝説地にある「和宮像」は県二高女にあったものである。
昭和23年(1948)4月「新制高校男女共学第一号校」指定を占領軍から
申し渡された同校校長は和宮像の処置に困惑し和宮像を保存してくれそうな
人物を探していたところ中村直吉氏の知友の大楠公顕彰会役員で後の須磨
信用組合理事長の塩田富造氏が自邸に匿うことになりました。
秘匿の方法には諸説があり判然としないが塩田富造氏が異人山のどこかの
地中に埋めていたのが妥当ではないかと筆者は思っています。
塩田富造氏は 須磨一の谷の旧異人山を戦後買取、そこに南洋植物パーク
(昭和39-昭和59)を造りさらにその上の山中に昭和29年(1954)4月11日
「寄手墳」、「身方墳」という二つの立派な五輪塔を建てた人物である。
昭和26年(1951)9月8日の日米講和条約さらに進駐軍の撤退もあったので
「寄手墳」、「身方墳」の真ん中に和宮像が建てられた(年月日は不詳)
平成7年1月17日の阪神淡路大震災で和宮像、「寄手墳」、「身方墳」は
倒壊、和宮像の両手の捧げられた緋扇の部分が欠損したが塩田氏の遺族が
この像に関心を示されなかったので放置され和宮像の内部空洞がスズメバチの
巣になっており近寄り難い惨状であった。これを見かねた地元の自治会有志が
立ち上がり平成12年に移設再建された。
県一高女(現:神戸高校)の和宮像は神戸市内の某氏宅に安置
市立第二高女(現:須磨翔風高校)の和宮像は神戸市立博物館の倉庫にあります。
さらに詳細な和宮像の流転については歴史と神戸 42巻第3号 238号
(2003年 June) 森田修一氏 「静寛院和宮像」流転の真相
Page23-30を参照すれば書かれています。
上の写真は神戸市民花壇 参加花壇 栄誉賞に輝いた花壇です。
綺麗に整備されています。
参照ブログ:新小児科医のつぶやき:http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20160523
スタンプラリーが行われています。安徳帝内裏跡伝説地がクイズ設置場所の
一つとなっており現地に出かけた。(2016年10月17日訪問)
安徳帝内裏跡伝説地(安徳宮)の西手に本日のテーマの皇女和宮像があります。
上の写真が皇女和宮像です。
「静寛院和宮様之像」と書かれた石碑が横に建てられています。
衣装の紋所は丸の三つ葉葵
上の写真は平成13年(2001)3月に一の谷二丁目自治会が作成した説明板です。
読みづらいので書かれている内容を簡単に述べます
「静寛院和宮様の略歴記載 公武合体で将軍 徳川家茂公に嫁がれた時に
詠まれた歌 惜しまじな君と民とのためならば身は
武蔵野の露と消ゆとも
中村直吉氏が神戸市内の高等女学校に寄進した三体のうちの一体が
こちらに安置の和宮像であること。」
全文は下記のとおり
「和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で6才にして有栖川熾仁親王(別荘が後の
舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。
しかし、幕末に朝廷と幕府との関係を改善し国論を統一せしめるため、
幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との婚約を破棄し、17才で
徳川幕府の14代将軍家茂に嫁がれた。
惜しまじな 国と民との為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも
その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようと
したが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。
昭和3年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で
西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持を
いつまでも願い昭和9年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、
市二(須磨高校)の三学校に和宮像を寄付した。
この像は戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。
他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎え
することができたのは非常に喜がしい限りであります。
平成13年(2001年)3月
一の谷町二丁目自治会」
皇女和宮像について小生のブログ(須磨一の谷皇女和宮像)で書いていますが
上記説明板にあるような銅像のルーツなど詳しい内容を記載していないので
今回、もう少し掘り下げて記事を書いていきます。
まず静寛院和宮様について簡単に記載します。Wikipediaよりの引用がメイン
和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日
(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。
母親は橋本経子(観行院)
孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。
品位は二品、薨後贈一品。家茂死後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
嘉永4年(1851)7月12日、5歳で孝明天皇の命で有栖川宮熾仁親王と婚約
(舞子ビラの地に屋敷があった)
万延元年(1860)10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許
文久元年(1861)10月20日 15歳で和宮一行は桂御所を出立
文久元年(1861年)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った
文久2年(1862)2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われる
慶応元年(1865)8月10日、和宮と共に江戸に下向し大奥に住まっていた
母・観行院が卒去
慶応2年(1866)7月20日、将軍 徳川家茂が大坂城で薨去
慶応2年(1866)12月9日、和宮は落飾し号を静寛院宮と改めた
慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御
和宮は1年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった
明治2年(1869年)1月18日、和宮一行は東海道を京都へ出発、2月3日、京都に帰着
明治7年(1874年)7月に東京に戻る
明治10年(1877)静寛院宮 和宮様は病気療養のため箱根 塔ノ沢元湯の
老舗旅館「環翠楼」で療養(脚気と言われるが定かでない)されそこで身罷られた
法名:静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉
(せいかんいんのみやぞういっぽんないしんのう こうよわじゅんていきょだいし)
墓所:芝 増上寺(徳川家茂と共に眠る)
ここで「静寛院和宮様の銅像のルーツ」についての話題に変えます。
和宮の銅像の作者は慶寺丹長で、和宮像の発注者は米問屋店主の中村直吉である
中村直吉(1880~1939)は兵庫佐比江生まれで苦難の少年時代を過ごし独立後
米問屋として成功を収め神戸米穀取引所理事長、県会議員などを務めた。
中村直吉氏(1880~1939)は昭和8年神戸市内の公立高等女学校に
「和宮像」「楠母子像」の寄進を推奨。
昭和9年に神戸市立第二高等女学校(市立須磨高校から現在須磨翔風高校)
および 県一(現:県立神戸高校)・県二(現:県立夢野台高校)の二女学校に
寄贈しました。
同11年には、東京の増上寺と日本女子会館に和宮像を寄贈しています。
当時、和宮は「日本女性の鑑」と評され、称賛されていました。
安徳帝内裏跡伝説地にある「和宮像」は県二高女にあったものである。
昭和23年(1948)4月「新制高校男女共学第一号校」指定を占領軍から
申し渡された同校校長は和宮像の処置に困惑し和宮像を保存してくれそうな
人物を探していたところ中村直吉氏の知友の大楠公顕彰会役員で後の須磨
信用組合理事長の塩田富造氏が自邸に匿うことになりました。
秘匿の方法には諸説があり判然としないが塩田富造氏が異人山のどこかの
地中に埋めていたのが妥当ではないかと筆者は思っています。
塩田富造氏は 須磨一の谷の旧異人山を戦後買取、そこに南洋植物パーク
(昭和39-昭和59)を造りさらにその上の山中に昭和29年(1954)4月11日
「寄手墳」、「身方墳」という二つの立派な五輪塔を建てた人物である。
昭和26年(1951)9月8日の日米講和条約さらに進駐軍の撤退もあったので
「寄手墳」、「身方墳」の真ん中に和宮像が建てられた(年月日は不詳)
平成7年1月17日の阪神淡路大震災で和宮像、「寄手墳」、「身方墳」は
倒壊、和宮像の両手の捧げられた緋扇の部分が欠損したが塩田氏の遺族が
この像に関心を示されなかったので放置され和宮像の内部空洞がスズメバチの
巣になっており近寄り難い惨状であった。これを見かねた地元の自治会有志が
立ち上がり平成12年に移設再建された。
県一高女(現:神戸高校)の和宮像は神戸市内の某氏宅に安置
市立第二高女(現:須磨翔風高校)の和宮像は神戸市立博物館の倉庫にあります。
さらに詳細な和宮像の流転については歴史と神戸 42巻第3号 238号
(2003年 June) 森田修一氏 「静寛院和宮像」流転の真相
Page23-30を参照すれば書かれています。
上の写真は神戸市民花壇 参加花壇 栄誉賞に輝いた花壇です。
綺麗に整備されています。
参照ブログ:新小児科医のつぶやき:http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20160523
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