ハーバーランドにある八時間労働発祥之地のモニュメントを写真紹介します。
撮影:2015-3-19


上の写真が八時間労働発祥之地のモニュメント。
ムニュメントの側面の説明書きには下記のように記載されています。
大正八年(一九一九年) 当時の川崎造船所の松方幸次郎社長が我が国で
最初に八時間労働制を実施したことを記念してここに碑を建立した
平成五年(一九九三年)十一月
(社)兵庫労働基準連合会
制作者 井上武吉

上の写真は八時間労働発祥之地のモニュメントの所在地

上の写真は背面側の八時間労働発祥之地のモニュメント
はねっこが写っています。

上の写真は八時間労働発祥之地のモニュメント側から神戸大橋方面を撮ったもの
遠方に前日(2015-3-18)、QE4(ポートターミナル)に入港した
クイーン・エリザベスの勇姿が臨めます。


上の2枚の写真はクリスタルタワー3階に掲示されている川崎造船従業員の
通勤風景を絵で顕した武文彦氏の作品です。明治29年(1896)の頃の風景
撮影:2015-3-9
武文彦氏は明治16年姫路生まれ昭和47年90歳で亡くなられました
画号は桃源
作品など詳細について下記サイトで見れます。
http://www.shinshoudousoukai.com/old/html/31.files/31-24.htm
川崎造船所時代1906年(明治39年)~1927年(昭和2年)に
1919年(大正8年)10月1日 兵庫工場でわが国初の8時間労働制実施された
経緯について川崎重工のHPで説明がありましたのでリンクさせていただきます。
8時間労働制の経緯(川崎重工HP)
当時10時間労働が当たり前の時代から画期的な8時間労働に移行させた
松方幸次郎の経営手腕には敬服させられます。
大正8年(1919)9月中旬に川崎造船所の本社工場の労働者たちは、賃上げや
賞与支給などの労働条件の改善を求めた要求を出しましたが松方幸次郎社長が
この要求に確定的な回答を与えなかったため、これを不満とした職工たちが
9月18日からサボタージュ闘争を行いました。このサボタージュ(怠業)という
手段は、新聞記者・村島帰之が提唱したもので、彼はこの模様を手記に残して
います。争議はほぼ10日間続きましたが、松方幸次郎が8時間労働制の採用と
戦時の歩増分の本給繰り入れなどを提示したため9月27日に解決しました。
10月より兵庫分工場、葺合分工場、ついで本社工場において8時間労働制が実施。
大正8年(1919)の上記サボタージュ期間に会社と労働者側委員ととやりとりを
記録した『怠業中松方社長対職工側委員会見録』が残っており、2005年
神戸大学付属図書館の企画展示で公開されています。
詳細は下記のサイトで見れます。
(大正10年の三菱・川崎大争議の資料も含む)
http://lib.kobe-u.ac.jp/www/html/tenjikai/2005tenjikai/catalog/zosen.html

上の写真は大正期の地図ででさんのみやと書かれているのは今の三ノ宮駅
ではなくJR元町駅です。
松方邸が山本通り沿い(諏訪山遊園地の南側)に見えます
撮影:2015-3-19


上の写真が八時間労働発祥之地のモニュメント。
ムニュメントの側面の説明書きには下記のように記載されています。
大正八年(一九一九年) 当時の川崎造船所の松方幸次郎社長が我が国で
最初に八時間労働制を実施したことを記念してここに碑を建立した
平成五年(一九九三年)十一月
(社)兵庫労働基準連合会
制作者 井上武吉

上の写真は八時間労働発祥之地のモニュメントの所在地

上の写真は背面側の八時間労働発祥之地のモニュメント
はねっこが写っています。

上の写真は八時間労働発祥之地のモニュメント側から神戸大橋方面を撮ったもの
遠方に前日(2015-3-18)、QE4(ポートターミナル)に入港した
クイーン・エリザベスの勇姿が臨めます。


上の2枚の写真はクリスタルタワー3階に掲示されている川崎造船従業員の
通勤風景を絵で顕した武文彦氏の作品です。明治29年(1896)の頃の風景
撮影:2015-3-9
武文彦氏は明治16年姫路生まれ昭和47年90歳で亡くなられました
画号は桃源
作品など詳細について下記サイトで見れます。
http://www.shinshoudousoukai.com/old/html/31.files/31-24.htm
川崎造船所時代1906年(明治39年)~1927年(昭和2年)に
1919年(大正8年)10月1日 兵庫工場でわが国初の8時間労働制実施された
経緯について川崎重工のHPで説明がありましたのでリンクさせていただきます。
8時間労働制の経緯(川崎重工HP)
当時10時間労働が当たり前の時代から画期的な8時間労働に移行させた
松方幸次郎の経営手腕には敬服させられます。
大正8年(1919)9月中旬に川崎造船所の本社工場の労働者たちは、賃上げや
賞与支給などの労働条件の改善を求めた要求を出しましたが松方幸次郎社長が
この要求に確定的な回答を与えなかったため、これを不満とした職工たちが
9月18日からサボタージュ闘争を行いました。このサボタージュ(怠業)という
手段は、新聞記者・村島帰之が提唱したもので、彼はこの模様を手記に残して
います。争議はほぼ10日間続きましたが、松方幸次郎が8時間労働制の採用と
戦時の歩増分の本給繰り入れなどを提示したため9月27日に解決しました。
10月より兵庫分工場、葺合分工場、ついで本社工場において8時間労働制が実施。
大正8年(1919)の上記サボタージュ期間に会社と労働者側委員ととやりとりを
記録した『怠業中松方社長対職工側委員会見録』が残っており、2005年
神戸大学付属図書館の企画展示で公開されています。
詳細は下記のサイトで見れます。
(大正10年の三菱・川崎大争議の資料も含む)
http://lib.kobe-u.ac.jp/www/html/tenjikai/2005tenjikai/catalog/zosen.html

上の写真は大正期の地図ででさんのみやと書かれているのは今の三ノ宮駅
ではなくJR元町駅です。
松方邸が山本通り沿い(諏訪山遊園地の南側)に見えます