辺野古への土砂搬出が噂される糸満市「魂魄の塔」近くの丘陵地では、昨年9月から遺骨収集ボランティア・ガマフヤーが遺骨収集活動を続けていたが、昨年10月末に突然、鉱山の開発が始まった(熊野鉱山)。
遺骨混りの土砂を軍事基地建設に使うのは、戦没者を冒涜するものだとして、強い怒りの声が高まっている。法的な問題については今までこのブログでも説明してきたが、ここでは、この付近一帯の戦争当時の状況を知るために、熊野鉱山に隣接したシーガーアブ(有川中将以下将兵自決の壕)と、近くのカミントウの壕(58名が「集団自決」)について説明する。
*熊野鉱山に隣接したシーガーアブ(「有川中将自決の壕」)が破壊されるおそれ
「魂魄の塔」から西へ2~3分歩くと、有川中将以下将兵自決の碑がある。その横の壕では、1945年6月21日、石第64旅団長・有川圭一中将と竹下勇大尉以下の将兵らが自決したという。この壕では、具志堅隆松さんらが以前、遺骨や兵士らの遺品を収集されている。
碑をまわり込んで藪の中を進むと、さらにもう一つの壕に行きつく。入口には大きな鍾乳石が垂れ下がっている。碑の横の壕とは、繋がっており、ここでも、遺骨や、兵士たちのガスマスク、手りゅう弾、軍靴等が多く見つかっている(下の図参照)。
この壕は、今回の熊野鉱山の採掘地に隣接しており、地下部分は採掘予定地の下に続いているのではないかと思われる。鉱山開発が進めば、一部が破壊されてしまうおそれがある。
シーガーアブでは、将兵たちが自決しただけではない。住民たちも避難していた。『米須字誌』には、次のような住民の証言が記載されている。
「真栄里から米須へ、カミントゥ壕で偶然家族と会った。シーガーアブには7家族ぐらい入っていた。入口は一人ぐらいしか通れないところで、そこに避難していた家族は米軍の再三の呼びかけにも出てこないため、石油を流しこんで燃やしていた」
ここでは、住民らも多く、亡くなっているのだ。2018年当時、具志堅隆松さんらの沖縄平和ネットワークがシーガーアブの調査に入っているが、本格的な調査は未だ行われていない。熊野鉱山の開発が始まってしまう前に、糸満市や沖縄県が調査に入るよう求めたい。
(奥の壕)
(上図の下が、入口の壕。上が奥の壕。2018年12月の沖縄平和ネットワークの調査で、2つの壕がつながっていることが判明した)
(奥の壕の入り口の大きな鍾乳石)
(奥の壕。戦争当時、避難していた住民のものと思われる茶碗)
(有川中将以下将兵自決の碑)
(入口の壕)
*近くには、58名が「集団自決」したカミントゥの壕も
「魂魄の塔」の少し北には、以前、カミントゥの壕があった。ここには、戦争末期、100名以上の米須地区の住民が避難していた。1945年6月21日早朝、壕内への米軍の攻撃が始まり、入口の日本兵が自爆した後、住民らが次々と手りゅう弾を炸裂させ、22家族58名が「集団自決」したという。次のような証言がある。
「『我んねー 死なんどー、死なんどー』。壕の中で女児が絶叫した。『集団自決』で次々と爆発した手りゅう弾の炸裂音がとどろき、煙が立ち込める。視界がなくなり人々の悲鳴、うめき声が響きわたる」
泣き叫ぶHさんの訴えで、Hさんの家族は「一度、光を見てから死んでもいい」として外に出、米軍の捕虜となって一命をとりとめた(琉球新報 2007.6.12)。
Hさんは当時9歳、少し前まで「魂魄の塔」の前で花を売っておられたという。私も、慰霊の日には、いつも「魂魄の塔」に行っていたから、お会いしていたのかもしれない(今日(2月10日)、糸満市役所教育委員会で聞いたところ、今もご健在とのこと。良かった)。
カミントゥの壕があった場所は、今では土地改良事業が行われ、壕の位置を示すものは何も残っていない。しかし、カミントゥの壕からシーガーアブに続くこの一帯での、戦争当時の凄まじい光景が目に浮かぶようだ(カミントゥの壕での「集団自決」については、2007.6.12~6.13の琉球新報参照)。
熊野鉱山開発予定地周辺には、多くの遺骨が残っているはずである。鉱山の開発を中止させ、せめてカミントゥの壕の位置を示す碑を建立できないものかと思う。