不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

高江の座り込み2周年集会と渡野喜屋村住民虐殺事件

2009年08月01日 | 沖縄日記 高江
 ヘリパッドいらない住民の会が始めた座り込みが2周年を迎えたので、その報告会に参加するため、平和市民連絡会のバスで高江へ。

 


 会場へは、地域のお年寄りたちが、次々とやって来る。中には、足が弱って、階段を這うようにして上がってくるオバアもいる。
 2時の開会時には、270人ほどで会場はぎっしりとなった。

 DVD上映の後、弁護団から国の仮処分申請の審尋についての報告。昨年、弁護士になったばかりの若い弁護士さんが頼もしい。
 そして、ヘリ基地反対協、平和運動センター、平和市民連絡会、生物多様性市民ネットワークらからの、熱い、熱い、連帯の挨拶に会場は盛り上がった。みんな、何故、こんなに演説がうまいのだろう。

 後で聞くと、高江の区長さんも会場に来ていたという。
 


  (5人の弁護士さんらが登壇。審尋についての報告)


 4時過ぎに集会は終了。また、バスで那覇に戻る。
 途中、塩屋湾の静かな入り江に沿って走っていたとき、Aさんが、「ここは、今は白浜というのですが、戦争当時は渡野喜屋といって、日本兵によって住民らが大勢、虐殺されたところです。」と教えてくれた。
 高江への往復にはいつも通っていたところだが、そんな事実があったことは知らなかった。

 1945年5月13日、この辺りには読谷村などからの避難民が住んでいたが、敗残兵となって山に潜んでいた日本兵らによって3人の村の男たちが殺された。さらに、日本兵は、残った婦女子らを浜辺に集め、そこに手榴弾3発を投げ、総勢35人が殺されたという。

 読谷村史には次のような記録がある。
 「私たち家族は、当時、大宜味村渡野喜屋(現在白浜)の民家にいた。その日、父は米軍からもらったメリケン粉を皆に配っていたそうだ。おそらく日本軍は、昼間、山の上の方からそれを見ていたんだろうとのことだった。
 夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が五人来ていたそうだ。
 父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
 男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。
 幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。
 父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。」

 沖縄は、どこに行っても、こんな悲惨な戦争の歴史を抱えている。まだまだ勉強しなければならないことが多い。

 
 なお、2008年6月22日、23日の琉球新報は、「住民虐殺---”銃”を向けた日本軍」として、この渡野喜屋事件のことを取り上げている。

   




************

 那覇に戻って、平和市民連絡会の打ち上げに参加させてもらう。
 池宮城弁護士さん(写真:左から3人目)の若い頃の話が面白かった。




この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前の記事へ | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

沖縄日記 高江」カテゴリの最新記事